大坂城跡(おおさかじょうあと)から出土した京枡 −はかる道具 その2−

更新日:2014年10月31日

大阪市中央区に所在する大坂城跡は、豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に築いた城です。大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し落城した後は、徳川氏の命により再建されました。徳川時代の大坂城は、豊臣時代の石垣や堀を埋めて築造されています。現在の天守閣は昭和6年に再建されたもので、平成9年には国の登録有形文化財となっています。

大阪府教育委員会は、1986年、1988年から1992年にかけて、府立大手前高校やドーンセンター建設に伴い大坂城三の丸跡の発掘調査を実施してきました。調査の結果、大坂城が築造される前に存在した石山本願寺の時代、豊臣氏の時代、徳川時代各時期の建物跡などがみつかりました。同時に瓦・土器・陶磁器・木製品・金属製品などの大量の遺物が出土しました。これらの遺物は大坂城下に暮らした人々を物語る手助けとなります。

ここではその多くの遺物の中から、ものを計測する道具を順番に紹介していきたいと思います。第1回目は長さを測るものさしをとりあげました。第2回目は量を測る枡を紹介します。

大坂城跡から出土した京枡

上の写真の枡は、ドーンセンター建設に伴う大坂城三の丸跡の発掘調査で豊臣前期(注1)の土層から出土しました。出土した時は、数枚の木片で荷物につける札かと思われていました。ところがその後詳しい調査をした結果、バラバラになった枡だということがわかりました。組み立てて大きさを測ってみると、縦15.3センチメートル、横15.4センチメートル、深さ7.3センチメートルで、この枡は豊臣秀吉が太閤検地をおこなった時に、年貢米などを量るための基準の枡とした京枡であることがわかりました。容積は現在の一升枡(注2)よりやや小さい1708立方センチメートルです。

 この京枡は口金も一部残っており、下の写真でわかるように外面の底には「きのとの 孫三郎 とり」の彫刻があり、内面の底と側面の三か所に「豊」の字を○で囲んだ焼印などがあります。「きのとのとり」は干支(えと)により年をあらわしたもので、天正十三年に該当します。これは西暦でいえば1585年になり、この京枡が作られた年と考えられます。「孫三郎」は枡の持ち主か製作者でしょう。「豊」の文字の焼印は豊臣家により規格を保証したものと考えられます。

 おなじような京枡に、兵庫県姫路市の旧家に所蔵品で、天正十八年の墨書がある京枡があります。しかし大坂城三の丸跡から出土した京枡の製作年は天正十八年よりも5年古い天正十三年と考えられます。大坂城跡から出土した京枡は、豊臣時代で最古の京枡であり、太閤検地の基準枡の原型といえる大変貴重な出土資料といえましょう。

太閤枡裏の彫刻   豊の字の焼印

(注1)豊臣前期 → 大坂城築城開始(1583)から三の丸築城開始(1598)までの期間

(注2)現在の一升枡の容量は約1804立方センチメートル

     

 

このページの作成所属
教育庁 文化財保護課 調査管理グループ

ここまで本文です。


ホーム > 都市魅力・観光・文化 > 文化・芸術 > 埋蔵文化財情報 > 大坂城跡(おおさかじょうあと)から出土した京枡 −はかる道具 その2−