大坂城跡から出土したものさし −はかる道具 その1−

更新日:2014年9月25日

 大阪市中央区に所在する大坂城跡は、豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に築いた城です。大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し落城した後は、徳川氏の命により再建されました。徳川時代の大坂城は、豊臣時代の石垣や堀を埋めて築造されています。現在の天守閣は昭和6年に再建されたもので、平成9年には国の登録有形文化財となっています。

 大阪府教育委員会は、1986年、1988年から1992年にかけて、府立大手前高校やドーンセンター建設に伴い大坂城三の丸跡の発掘調査を実施してきました。調査の結果、大坂城が築造される前に存在した石山本願寺の時代、豊臣時代、徳川時代各時期の建物跡などがみつかりました。同時に瓦・土器・陶磁器・木製品・金属製品などの大量の遺物が出土しました。これらの遺物は大坂城下に暮らした人々を物語る手助けとなります。

 ここではその多くの遺物の中から、ものを計測する道具をとりあげて紹介していきたいと思います。第1回目は長さを測るものさしを4点紹介します。

大坂城から出土したものさし

 写真の4点のものさしは、すべて豊臣前期(注1)16世紀末の土層から発見されたものです。

上段の2点のものさしは、1寸の目盛りが3.1cm前後の間隔で刻まれており、1寸の間を2等分した5分の目盛りも短く刻まれています。右側のものさしは、もう片側の面も1寸の目盛りが同じ間隔で刻まれています。2点とも両端は折れていて、左側のものさしは幅約2.3cm、残存している長さは9cm、右側のものさしは幅約2.5cm、残存している長さは11cmです。ものさしの中央部分には「×」印が刻まれており、「×」印と5分の刻みには墨が塗られています。 

 中段のものさしは、1寸の目盛りが3.7cm前後の間隔で刻まれている呉服尺です。呉服尺は裁縫用、布地を測るためにつかわれていたものです。1寸の基準の長さは約3.1cmですが、呉服尺の1寸はその値を1.2倍した3.7cm前後で刻まれています。写真の呉服尺は5分の目盛りも刻まれており、目盛りの部分はすべて墨が塗られています。片側の端は折れて失われていますが、残存している部分の長さは15cm、幅は1.8cm前後です。 

 下段のものさしは、1寸の目盛りが4.3cm前後の間隔で片面のみに刻まれています。この間隔は、基準の1寸の長さ(表目)である3.1cmをルート2倍、すなわち1.414倍した裏目の間隔で、このものさしは裏目のみが刻まれている裏尺です。表目と裏目の関係は「三平方の定理」を利用しています(注2)。例えば一辺の長さが表目1寸の角材を作るのに必要な丸太材の直径は裏目1寸となります。二つの目盛りを使うと、作りたい角材にはどれくらいの直径の丸太が必要なのかわかります。 表目と裏目は、1本のものさしの表裏両面にそれぞれの目盛りを刻んで使用する曲尺(かねじゃく)がよくしられています。写真の裏尺は片面に裏目のみを記した珍しいものさしといえましょう。 

(注1)豊臣前期 → 大坂城築城開始(1583)から三の丸築城開始(1598)までの期間

    豊臣後期 → 豊臣秀頼大坂城に移る(1599)から大坂夏の陣豊臣大坂城落城(1615)までの期間

(注2)表目と裏目の関係

表目と裏目の関係

 

 

 

 

 

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教育庁 文化財保護課 調査管理グループ

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