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更新日:2022年12月1日

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大和川分水築留掛かり

平成30年8月13日(月曜日)、第69回Icid国際執行理事会において、[世界かんがい施設遺産]として登録されました!

※国際かんがい排水委員会(International Commission on Irrigationand Drainage, Icid)は、かんがい・排水・治水等の分野で、科学技術の研究・開発、経験知見等の交流の奨励及び促進を図ることを目的に、1950年(昭和25年)にインドで設立された国際機関です。→農林水産省ホームページ

2番樋

「桜に映える築留二番樋」

大和川の付け替えに伴い1705年(宝永二年)に供用が開始された「西用水井路(現在の長瀬川)」と「東用水井路(現在の玉串川)」の2つの水路を「大和川分水築留掛かり」と呼んでいます。
300年以上たった現在でも、大和川から取り入れた水は水路を流れ、都市化が進み農地は大きく減少しましたが、今もなお、大阪府柏原市・八尾市・東大阪市の約226ヘクタールの農地を潤して、農業の発展に大きな役割を果たしています。
これらの地域では消費者の顔が見える安全安心な農業を展開し、軟弱野菜や花き等の栽培がおこなわれおり、特に八尾市で生産される八尾若ごぼう(2013年地域団体商標登録)は、攻めの大阪農業を展開していく戦略品目の一つとして大阪府で位置付け、その生産振興を強力に推進しているところです。
現在は、築留土地改良区が管理しています。

もとは大和川だった!?

新旧大和川旧大和川は、大雨のたびに洪水を繰り返して、人々の生活や農業に大きな被害を与えていた。1620年には2,000ヘクタールにも及ぶ農地被害に苦しむ流域の人たちは大和川の付け替えを当時の政府(幕府)に何度も嘆願しました。

しかし、付け替え予定地に当たる村の反対などもあり、約50年かかった1703年に付け替えが決定されました。

工事は旧大和川と石川が合流する右岸を堤防で完全に仕切り、旧大和川を西向きに付けかえるという歴史的な難工事でしたが、延べ300万人もの人々を動員してわずか8か月で完成しました。

この工事で、せき止められてしまった旧大和川の流域のかんがいを行うため、付け替え翌年の1705年には、大和川の堤防に樋門を設け、「西用水井路(現在の長瀬川)」と「東用水井路(現在の玉串川)の2つの水路を整備しました。

革新的な着想で建設

旧大和川筋の開発新田図
旧大和川筋の開発新田

当時の政府(幕府)は、新大和川の用地としてつぶれる農地の面積以上に旧河川敷を利用した新田開拓ができることに着目して、豪商などの豊富な民間の資金力によって水路と新田を作らせることとしました。

大和川の付け替えに必要となった金額は合計で71,500両(1両は現在の貨幣価値で約20万円。現在の価格で言うと140億円)の約半分となる37,500両を政府が負担し、残りを他の自治体(藩)が負担しました。政府は旧大和川河川敷の開発権と所有権を地代として民間に売却することで、大和川の付け替えで負担した金額をほぼ賄うことができました。

旧大和川河川敷における新田開発や水路整備などの農業基盤整備により、豪商による大規模農業経営が可能となり、後の綿の大産地化につながりました。

新田の数は42となっており、新田には農地や水路などの維持管理をはじめ、年貢や肥料代の徴収など新田経営の拠点となる「会所」が設置されました。中でも「鴻池新田会所跡」は1976年に国史跡に、「安中新田会所跡旧植田家住宅」は2006年に国登録有形文化財として登録されており、数多くの古文書や工芸品、河内木綿で作られた衣服などが残され、河内の歴史を今も伝えています。


安中新田会所跡
旧植田家住宅(提供元1)


鴻池新田会所跡(提供元2)

1,000haの新田開発で河内木綿の大産地に発展

遮断された旧大和川の河川敷長は広いところで400m(新大和川は230メートル)もある大河のため、河川敷と堤防の堤を利用して1708年には、1,000ヘクタール新田開発も併せて行いました。

新田は旧河川敷のため、砂地で水はけがよく、綿栽培に適していたことから綿栽培を推奨しました。また、水田を畑としても利用できるよう「島畠(しまばた)」と呼ばれる画期的な農地利用方法が開発されました。

河内木綿の独特の栽培風景 島畠「綿圃要務」「島畠」では、水田の中に短冊状に高さ60センチ土を盛り上げて、高い水はけのよいところを畑(綿栽培)、低いところを水田(水稲栽培)として利用しました。水田には新たに整備された水路から各村に樋管を通して配水されました。こうすることで、綿も稲も実りが増えたということです。

これは、当時の綿づくりの全国的な栽培手引書である「綿圃要務」にも紹介されています。

このように、旧大和川河川敷に新たに整備された水路や新田により、河内木綿の商いの風景「河内名所図会」全国の中でも極めて技術レベルの高い農業がおこなわれ、1870年には、木綿生産高は全国3位の生産量を誇りました。加工品は「河内木綿」と呼ばれ、1801年に出版された「河内名所図会」では、染めても色よく、丈夫で他産地にはこれに勝るものなしと紹介されています。


河内木綿の独特の栽培風景 島畠「綿圃要務」(提供元3)


河内木綿の商いの風景「河内名所図会」(提供元3)

75箇村で構成される「築留樋組」で、平等で効率的な水管理

用水樋組合村々絵図
築留・青地樋
用水樋組合村々絵図(北を上に改変)
(小山家文書・作成年不明)(提供元4)
右から玉串川、長瀬川

旧大和川の流域は平坦であったため、新たに整備された2つの水路は、自然流下で広域にかんがいが可能となるよう約1000メートルで1メートル下げる0.1パーセントの水路勾配となっており、当時の土木技術としては革新的なものでした。

水の配分による村同士の争いをおさえるため、石高により細かく定められました。現存する40箇所の配水樋の幅が場所によって違う(幅0.09メートルから0.85メートル)のは、この名残です。

受益規模は流域の75箇村の4,000ヘクタールと非常に大きく、管理もすべての村を構成員とする「築留樋組」という組織が行いました。維持管理は数村単位で完結するものが多かったこの時代に、これだけの大きな組織による管理は他に類を見ないものでした。

また、1734年の築留樋組の取り決め書では、渇水時には下流の村の水が不足するため、上流と下流の双方の当番が取水に立ち会い、公平に配水することがうたわれています。これは、現在の「築留土地改良区」における用水管理方法にも引き継がれています。


用水組合村々定証文(提供元3)
(管理組織の取り決め書)


用水組合村々定証文(提供元3)
(村代表者による記名)

大和川の流れをせき止め、新たな堤防に樋管を通し、大和川からの水を引き込んでいましたが、渇水期には、十分な水量がなく、水をめぐってたびたび争いが起きました。

このため、大和川下流の村に配慮し、かつ大和川から一定量の水を確保するため、取水口には「元関」と言われる石を詰めた俵を、川の中には「砂関」と言われる砂を詰めた俵を樋の前に川幅の半分ほどの位置まで並べて水を導水し、渇水期にはその砂関の前に溝を掘って水を流すようにしていました。

配水樋の大きさを細かく定めたことや、築留樋組の取り決め書などと合わせ、当時、既に平等で効率的な水管理システムが構築されていたことがうかがえます。

また、玉串川の中間地点となる寺井樋の前には定石(さだめいし)と呼ばれる石が据えられています。干ばつになっても、この石が水面から出ないよう水を調整しなければならないことが、今も土地改良区役員に代々語り継がれ、下流への用水の確保に配慮されています。

1880年には築留樋組により用水井路測図が作成され、水路の用水管理について各村々が確認しています。


築留樋前堀関仕切り絵図(提供元4)


砂関・元関設置による取水のイメージ


玉串川定石

築留二番樋が有形文化財に指定


築留二番樋

「築留二番樋」は1705年に設置されましたが土や石積みの護岸であったため、補修を繰り返しながら、300年以上もの間、適切に管理されてきましたが、1887年の洪水で壊れたため1888年に現在の樋門に改修されました。

材料は地域の要望もあり、大災害を未然に防止することが可能な堅牢なものとすることとし、当時ヨーロッパから日本に導入された最先端の建築資材であった煉瓦を使用しました。下流側の坑門部はイギリス積みでより強固な構造となるよう工夫されています。アーチ部の側面は垂直ではなく、馬蹄形をしており、樋管としては非常に珍しい構造となっています。

2001年に国の登録有形文化財となっており、かんがい施設の登録有形文化財の中では日本最古の煉瓦造構造物となっています。さらに、延長は55メートルとなっており、これだけの長さの煉瓦造構造物は非常に珍しく貴重なものとなっています。

綿や葉物野菜、キクなど大阪農業を支えてきた大阪を代表する水路として、2006年に農林水産省の「疎水百選」にも選定されました。

親しまれる水辺に

長瀬川を学ぶ出前授 水辺のいきもの解説
水路への水生植物植栽 透視度計を使った水質調査
市民による水路清掃活動 打ち水大作戦
水辺まつりでのボート乗船体験 水辺まつりでの工作体験(水生植物を使用)

周辺の都市化の進展に伴い、1950年代以降、工場や家庭から水路に流入する雑排水が問題となったため、水路を農業用水と雑排水を分離して流す「3断面構造」へと改修を行いました。この構造は、水路を分離するための壁を設け、3つに分けた水路の中心に農業用水、その両側に雑排水が流れるようにしたもので、下水道の歴史資産としても評価されています。現在はこの雑排水が流れる部分の上を歩道とし、かんがいの役割だけでなく、住民が憩える水辺空間として活用しています。

1965年には玉串川が通過する八尾市の自治会長が「玉串川を美しく。緑あふれる街にしよう。」と住民に寄付を呼び掛け、桜の植樹を行いました。この運動はやがて玉串川の流れと共に広がり、今では春には約1,000本のソメイヨシノが咲き誇っており、桜は春になると淡いピンクの花で水路をアーチ状に囲み、桜並木と水路のコントラストが非常に美しく、「大阪まちなみ100選」や「大阪みどりの100選」の一つとして有名な場所となっています。

また、長瀬川では、2003年より築留土地改良区・大阪府・柏原市・八尾市・東大阪市・市民環境団体・近隣小学校等で構成する「長瀬川水辺環境づくり推進協議会」を発足させ、市民による水路の清掃や水生植物植栽など環境保全活動への支援を行っています。
長瀬川水辺環境づくり活動についてはこちら

※現在の大和川分水築留掛かり
長瀬川 14.2キロメートル 玉串川13.4キロメートル(旧玉串川跡含む)

(資料・写真提供協力 提供元1:八尾市 提供元2:東大阪市教育委員会 提供元3:八尾市立歴史民俗資料館 提供元4:柏原市立歴史資料館)

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