三好長慶ゆかりの地

更新日:2022年5月23日

三好長慶とは

 永禄3年(1560)、三好長慶は芥川山城から、飯盛城に拠点を移し、天下人として活躍します。また、飯盛城を堅固な山城にする為、石垣などを多用し、その遺構も随所に残ります。一方、文化人としても評判が高く、連歌や茶の湯にも優れ、飯盛城で開催された連歌会は「飯盛千句」として記録が残ります。また、70余名の武将にキリスト教の洗礼を受ける事を許したというエピソードが残っており、これが「河内キリシタン」の発祥となりました。

(参考)「大東市魅力発信サイト エエトコ!だいとう」ホームページ(外部サイトを別ウインドウで開きます)

ゆかりの地

≪三好長慶ゆかりの城≫
 ・飯盛城跡(四條畷市・大東市)
 ・田原城跡(四條畷市) 
 ・芥川山城跡(高槻市) 

≪キリシタン墓碑≫
 ・田原礼幡キリシタン墓碑(四條畷市)
 ・満所キリシタン墓碑(八尾市)

≪晩年≫
 ・真観寺(八尾市)
 ・三好長慶の墓(八尾市)      

飯盛城跡

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大阪府と奈良県の境界を南北に連なる生駒山地の北支脈である標高約314mの飯盛山の山頂一帯に立地し、城域は南北約700m、東西約400mに及ぶ、西日本有数の規模を誇る山城です。戦国時代末期の永禄3年(1560)に三好長慶が入城したあとは、当時の日本の中心であった京都や五畿内を支配する拠点として機能し、連歌や茶の湯などの最先端の文化交流の場ともなりました。また当時、城を訪れたイエズス会宣教師を通じてヨーロッパで刊行された文献や地図でも紹介されています。城跡には多数の曲輪や石垣、土塁、竪堀、畝状空堀群などの遺構が良好な状態で残っています。また発掘調査により、「織豊系城郭」に共通する3つの要素とされる石垣、礎石建物、瓦を先行して取り入れられたことが判明した、城郭史上貴重な城跡です。

所在地四條畷市大字南野
大東市大字北条
最寄駅JR片町線(学研都市線)「四条畷」駅、「野崎」駅
関連大阪ミュージアム登録物

飯盛城跡(外部サイトを別ウインドウで開きます)



田原城跡

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生駒山地から東に延びる丘陵の先端部に位置し、天然の堀と考えられる北谷川と天野川に囲まれており、北側には古堤街道が通じています。城跡には、本丸、二の丸と呼ばれる曲輪や堀切などが残っています。城主は、鎌倉時代頃からこの地域を治めていた田原氏で、その菩提寺である千光寺跡には、田原対馬守の墓と伝わる五輪塔が現存しています。
田原氏は、戦国時代末期に三好長慶の被官となり、この城は、大和方面の守りの要である支城として機能しました。

所在地四條畷市大字上田原
最寄駅JR片町線(学研都市線)「四条畷」駅
関連大阪ミュージアム登録物

田原城跡(外部サイトを別ウインドウで開きます)



芥川山城跡

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芥川山城跡は、高槻市大字原の三好山(標高約183m)に所在する城郭遺構です。城域は東西約500m、南北約400mと当時の摂津国で最大の規模を誇り、曲輪や堀切、土塁などが今も良好な状態で残っています。多くの文献史料により築城から廃城までの経緯が明らかになっている全国的にも稀有な城です。摂津国を束ねた守護の細川高国が築城、1553年には戦国大名の三好長慶が入り、ここを拠点として畿内に政治支配を及ぼしました。長慶のもとには武家をはじめ京都の寺社や公家、裁きを求める周辺の村の人々が訪れ、連歌師や儒学者といった多くの文化人も登城しました。1568年、足利義昭を擁して上洛を目指す織田信長は、芥川山城に籠る三好氏を破り、2週間ほど滞在しました。その間、天皇の勅使をはじめとする様々な人を迎え、この地で新たな支配を表明していることなどからも、戦略的、政治的に重要な城郭と位置づけられていたことが伺えます。時代の趨勢とともに芥川山城は歴史の表舞台から消えていきましたが、近年の研究によりその重要性が再評価されています。
(三好山は全域が私有地となっています。整備はされていませんのでご注意ください。)

所在地高槻市大字原
最寄駅

JR京都線 「高槻」駅

田原礼幡キリシタン墓碑

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田原城主の菩提寺である千光寺跡から出土したキリシタン墓碑です。
戦国時代末期の永禄3年(1560)に飯盛城へ入城した三好長慶は、キリスト教の布教を許可してキリシタンの保護を命じます。永禄7年(1564)には、飯盛城で2度にわたり、三箇城主三箇サンチョ(大東市)、池田教正シメアン(後の若江・八尾城主)など70余名の家臣が洗礼を受けました。これを契機として「河内キリシタン」が繁栄していきます。
この墓碑には、十字架の下に『天正九年 辛巳 礼幡 八月七日』と刻まれています。「礼幡」は洗礼名で、「レイマン」と読みます。天正2年(1574)のルイス・フロイスの書簡に「田原の城主がキリシタンに改宗したこと」、天正3年(1575)のルイス・フロイスの書簡に「三箇マンショや結城ジョアンといった河内のキリシタンとともに田原レイマンが織田信長に拝謁した」ことが記されており、その人物が田原城主である「田原礼幡(れいまん)」です。国内で確認されている190数例のキリシタン墓碑のうち最古のもので、文献史料と発掘資料が一致する唯一のものです。
墓碑は四條畷市歴史民俗資料館(http://www.shijonawate-rekishi.jp/)で常設展示しています。

所在地≪千光寺跡移築広場≫
四條畷市大字上田原

≪歴史民俗資料館≫
四條畷市塚脇町3番7号
最寄駅≪千光寺跡移築広場≫
JR片町線(学研都市線)「四条畷」駅、近鉄生駒・奈良線「生駒」駅

≪歴史民俗資料館≫
JR片町線(学研都市線)「四条畷」駅
関連大阪ミュージアム登録物

田原礼幡キリシタン墓碑(外部サイトを別ウインドウで開きます)

満所キリシタン墓碑

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永禄6年(1563年)、三好長慶が飯盛城下での布教を許可し、キリスト教の保護を命じたことで、多くの家臣が受洗・入信し、河内地域においてキリスト教が広く受容されていきました。
これは、八尾市内の西郷墓地に残されていたキリシタン墓碑で、日本で2番目に古いものです。
砂岩製で、大きさは横幅51.2cm、高さ89.1 cm、奥行21.1cm。台座まで一石にて彫り出し、横幅・高さ・奥行は、全国のキリシタン墓碑のなかで最大級です。
墓碑の内容は、碑面上段に十字架と、イエズス・ホミヌム・サルバトーレ(キリストのこと)の略である「IHS」、下段に被葬者名「満所/MAИ(NTIO」と没年「天正十 壬午年/五月二十六日」(1582)が刻まれています。
この墓碑は、漢字とその語音をローマ字にて表した金石文(きんせきぶん)としての最古級の資料でもあります。

★八尾市立歴史民俗資料館で展示中

所在地八尾市千塚3丁目180-1(八尾市立歴史民俗資料館)
最寄駅近鉄信貴線「服部川」駅


真観寺

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萬松山真観護国禅寺(ばんしょうさんしんかんごこくぜんじ)と称し、臨済宗南禅寺派金地院末(りんざいしゅうなんぜんじはこんちいんまつ)で、八尾地蔵で名高い常光寺とは兄弟寺です。三好長慶の葬儀はこの真観寺で行われ、境内には墓所があります。

所在地八尾市北亀井町2丁目7-20
最寄駅JR大和路線「久宝寺」駅


三好長慶の墓(八尾市)

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三好長慶の葬儀が行われた真観寺の境内には、長慶と甥の義継の、二基の宝篋印塔があります。銘には、各々の法名と没年月日が刻まれています。
三好長慶墓 銘「永禄七甲子 聚光院殿大禅定門 七月初四日」(1564年)
三好義継墓 銘「天正元載癸酉 十一月十六日 般若院殿大禅定門」(1573年)

所在地八尾市北亀井町2丁目7-20(真観寺内境内)
最寄駅JR大和路線「久宝寺」駅

このページの作成所属
府民文化部 都市魅力創造局魅力づくり推進課 魅力推進・ミュージアムグループ

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