楠木正成・楠正行ゆかりの地

更新日:2021年7月28日

楠木正成とは

今も「楠公さん」の愛称で知られ、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将。永仁2年(1294年)に生まれ、千早赤阪村の豪族出身とされている。

(参考)河内長野市観光ポータルサイト(外部サイトを別ウインドウで開きます)

楠正行とは

楠木正成の長男。父の正成戦死後、遺志を継いで四條畷の戦いで南朝方として戦い、23歳の若さで討ち死した。

(参考)もっと四條畷(外部サイト)

ゆかりの地

【楠木正成】
≪生誕から幼少期≫
(1)楠公誕生地(千早赤阪村)  
(2)伝大江時親邸(河内長野市) 

≪挙兵から倒幕まで≫
(1)楠木七城
 ・下赤坂城跡、千早城跡、上赤坂城跡(千早赤阪村)
  ・金胎山(金胎寺城址)(富田林市)

(2)楠木正成ゆかりの寺社
  ・腰神神社(富田林市)
 ・観心寺(河内長野市) 
 ・楠木正成公お手植の楠木(極楽寺)(大阪市)

≪晩年≫
 ・史跡桜井駅跡史跡公園(島本町)
 ・観心寺(河内長野市)
 ・恵光山徳蔵寺(大阪市)

【楠正行】
≪四條畷の戦い≫
 ・飯盛山(大東市)

≪晩年から後世≫
 ・四條畷神社(四條畷市)
 ・伝楠正行墓(小楠公墓所)・四條畷楠正行墓のくす(四條畷市)
 ・四條畷楠公まつり(四條畷市)
 ・楠妣庵観音寺(富田林市) 

【楠木正儀】
松尾寺(和泉市)
  

集積する楠公史跡
(1)楠公誕生地(2)建水分神社(3)奉建塔(4)下赤阪城跡(5)千早城跡(6)上赤阪城跡(7)郷土資料館(8)道の駅

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鎌倉時代の末から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成の数々の史跡が残っています。この歴史上の人物である楠木正成は、千早赤阪村の山里に生まれ、金剛山一帯を本拠地とし、さまざまな奇策を用いて戦ったことは、余りにも有名です。この戦いぶりは「太平記」に詳しく書かれています。

所在地
(1)千早赤阪村大字水分265
(2)千早赤阪村大字水分1061-1.2.3
(3)千早赤阪村大字二河原辺47-1
(4)千早赤阪村大字森屋1132‐乙
(5)千早赤阪村大字千早1112‐1
(6)千早赤阪村大字桐山803の甲
(7)千早赤阪村大字水分266
(8)千早赤阪村大字二河原辺7
最寄駅近鉄長野線「富田林駅」
関連大阪ミュージアム登録物

集積する楠公史跡(1)楠公誕生地(2)建水分神社(3)奉建塔(4)下赤阪城跡(5)千早城跡(6)上赤阪城跡(7)郷土資料館(8)道の駅(外部サイトを別ウインドウで開きます)



伝大江時親邸

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楠木正成に兵法を教えた大江時親の邸宅跡である。現在、邸宅の敷地と18世紀の築造とみられる茅葺民家があり、初代より48代目の当主が居住している。幼少期の正成の行動を後世に伝える舞台となっている場所。

※一般非公開

所在地河内長野市加賀田1638及び1639
最寄駅南海高野線「三日市町」駅
関連大阪ミュージアム登録物

伝大江時親邸(外部サイトを別ウインドウで開きます)

 金胎寺山(金胎寺城址)(こんたいじさん)

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城のあった金胎寺山は標高296.4mで富田林市で一番高い山です。この金胎寺城は後醍醐天皇に仕えた楠木正成が鎌倉幕府と戦うため、南北朝時代の元弘3年(1333年)に楠木7城の一つとして築城されたものです。楠公の有名な戦法である岩石・木材落としをこの城でも行い幕府軍を苦しめたと伝えられています。
 その後、南北朝時代の争いが続き、正平15年(1360年)畠山氏が勝って畠山氏の支城となり、室町時代の中期には畠山氏のお家騒動の末、寛正4年(1463年)落城しました。山の頂上からは金剛・葛城山はもちろんハルカス・関空・淡路島等360度の素晴らしい眺望が望めます。

所在地富田林市嬉1004-130
最寄駅近鉄長野線「汐ノ宮」駅
関連大阪ミュージアム登録物

金胎寺山(金胎寺城址)(外部サイトを別ウインドウで開きます)



腰神神社(こしがみじんじゃ)

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腰神神社は、富田林市内最高峰金胎寺山より派生する巨岩をご神体とする神社です。御祭神は箕島宿祢・八大竜王・猿田彦尊・国光大明神で、創始は大化の改新(645年)頃、文武の師範箕島宿祢をお祀りしました。
 建武元年(1334年)に楠木正成が後醍醐天皇の命で鎌倉幕府討伐の途中、愛馬千早丸の腰が立たなくなり、この神社の藤の木につないでおいたところ治ったと伝えられています。樹齢700年のその藤の木は現存しており、その御礼として1寸8分の黄金毘沙門天像と菊水の御紋を賜りました。このことから、腰痛に霊験あらたかとして参詣する人が多いと言われています。

所在地富田林市嬉62
最寄駅近鉄長野線「汐ノ宮」駅
関連大阪ミュージアム登録物

腰神神社(外部サイトを別ウインドウで開きます)


観心寺

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観心寺は、中世に学問寺として栄え、楠木正成を育んだ地域の文化や社会環境を整え、南朝の拠点となった寺院。後に正成を祀り奉賛する舞台ともなった。三重塔の塔として建設途中だったが、湊川での戦死を受けて一段で未完となった建掛塔や、楠木正成の首塚など正成ゆかりの文化財を多数所蔵している。

所在地河内長野市寺元475
最寄駅南海高野線及び近鉄長野線「河内長野」駅
関連大阪ミュージアム登録物

観心寺(外部サイトを別ウインドウで開きます)



楠木正成公お手植の楠(熊野街道古戦場)

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地区で有名な巨木。夏は涼やかさを提供して、冬は暖かみの溢れるスポットです。地元の憩いの地です。

所在地大阪市住吉区遠里小野5−11−2 極楽寺
最寄駅南海高野線「我孫子前」駅 
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楠正成公お手植の楠(外部サイトを別ウインドウで開きます)



史跡桜井駅跡史跡公園

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『太平記』によると、延元元年(1336)足利尊氏の大軍を迎え撃つため兵庫に向かった楠木正成が、途中、桜井の宿(駅)で子の正行(まさつら)に遺訓を残して河内に帰らせたとあります。この伝承は、「桜井の(子)別れ」として後世の人々に広く知られ、絵や詩、歌の題材として多く取り上げられました。駅跡は近代以降整備され、石碑の建立や敷地拡張などが行われました。大正10年には国史跡に指定されています。敷地内には楠公父子の石像や多くの石碑が建ち、楠公にちなんだクスノキの木が生い茂っています。また、JR島本駅の東側にある史跡桜井駅跡史跡公園は、古代、中央と地方の連絡のため伝馬などを備えた駅の跡といわれています。

所在地島本町桜井一丁目3番
最寄駅

JR京都線「島本」駅

関連大阪ミュージアム登録物

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恵光山徳蔵寺

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恵光山徳蔵寺は、遠く慧信僧都の開創と伝えられ、当時は天台宗でしたが、室町時代、浄土真宗本願寺派となって今に至っています。境内には「楠木正成の首塚、五輪の塔」があり、これは、落ち武者たちが楠木正成の遺骨を徳蔵寺近くに仮埋して去り、そのままになったという言い伝えから、供養のために江戸時代に建てられました。その後戦災に遭い、本堂の再建などに合わせて移設され現在に至っています。

所在地大阪市東淀川区東中島1-5-5
最寄駅地下鉄御堂筋線「西中島南方」駅
関連URL徳蔵寺(外部サイトを別ウインドウで開きます)

 

飯盛山

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標高約316m、京から高野街道を下ってくると飯を盛ったように見えることから飯盛山と呼ばれています。
南は起伏して生駒山に連なり、細く尖って北に張り出し、東は権現川が深い谷をえぐり、西は嶮しく大阪平野に面しています。
 南北朝時代には、四条畷の戦いで楠木正行と高師直が戦い、戦国時代には飯盛城が三好、松永氏らの居城となり、織田信長により滅ぼされるまでの間、中世の山城としては日本最大級かつ堅固な要塞を誇りました。
 山頂には展望台、楠正行像、FM放送中継所等が並び、大阪平野の高層ビル群が一望でき、ハイカーをはじめ多くの市民からふるさとの山として愛されています。

所在地大東市東部
最寄駅JR学研都市線「野崎」駅
関連大阪ミュージアム登録物

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四條畷神社

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南北朝時代の武将・楠木正成の長男、楠正行(くすのきまさつら)と、そのほか24人の将士を祀る神社です。 
境内には、「櫻井の別れ」を表した父子像があります。

所在地四條畷市南野2-18-1
最寄駅JR片町線(学研都市線)「四条畷」駅
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伝楠正行墓(小楠公墓所)・四條畷楠正行墓のくす

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楠正行(くすのきまさつら)は楠木正成(くすのきまさしげ)の子で、南北朝時代の正平三年(1348)の四條畷の戦いで北朝方の高師直(こうのもろなお)と戦って討ち死しました。
正行の遺骸はこの地に葬られ墓石が建てられたと伝えられています。その後80年経ってクスノキ2本が植えられ、成長を続けたクスノキは墓石を包み込み2本が1本となって現在に至っています。
現在墓所にある石碑は明治11年に建てられたもので、大久保利通の揮毫(きごう)による「贈従三位楠正行朝臣之墓」の銘が刻まれています。

所在地四條畷市雁屋南町27−5
最寄駅JR片町線(学研都市線)「四条畷」駅
関連大阪ミュージアム登録物

伝楠正行墓(小楠公墓所)・四條畷楠正行墓のくす(外部サイトを別ウインドウで開きます)



四條畷楠公まつり

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ふるさとの活性化と新たな文化の創造を目指して、平成17年から開催されています。小楠公墓所から四條畷神社への武者・稚児行列とメイン会場となる四條畷神社でのイベントが主体です。なお、四條畷神社では、音楽演奏や飲食・体験ブースが出展されます。

所在地小楠公墓所→四條畷神社(メイン会場)
四條畷市南野2丁目18番1号 (四條畷神社)
最寄駅JR片町線(学研都市線)「四条畷」駅
関連大阪ミュージアム登録物

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楠妣庵観音寺(なんぴあんかんのんじ)

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山間にある禅宗の寺院で、楠正成公の夫人、久子が夫・正成とその子・正行の四條畷討死の後に出家し、草庵を結んで一族の冥福を祈ったところとして知られています。
境内には、本堂の他、大正初期に建立された楠妣庵や簡素な小堂、楠母子像などがあります。
また、秋の紅葉シーズンには、種々の落葉樹と建物が独特の景色を創り出し、多くの観光客やカメラマンでにぎわいます。

所在地富田林市甘南備1103
最寄駅近鉄長野線「富田林」駅
関連大阪ミュージアム登録物

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松尾寺


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修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)が開創したと伝える名刹。10世紀末ごろに成立した『日本往生極楽記』(にほんおうじょうごくらくき)という記録には「松尾の山寺」として記載がみえる。現在の御本尊である如意輪観音坐像は江戸時代に作られたもの。毎年4月の第1日曜日には御影供(桜まつり)が行われる。

松尾寺には、数多くの古文書が残されており、うち鎌倉時代から江戸時代におよぶ65点の古文書は、大阪府の指定文化財となっている。そのうち、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)2点、後村上天皇の綸旨8点、楠木正儀(くすのき まさのり)の下知状(げちじょう)2点は、松尾寺が南朝の勢力下にあったことを示す。楠木正成(くすのき まさしげ)の三男である正儀は、和泉国の守護として、松尾寺にまつわる紛争を裁定している(詳細は和泉市編さん委員会編『松尾寺所蔵史料調査報告書』1999年)。

所在地和泉市松尾寺町2168番地
最寄駅泉北高速鉄道「和泉中央」駅
関連大阪ミュージアム登録物

松尾寺(外部サイトを別ウインドウで開きます)

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府民文化部 都市魅力創造局魅力づくり推進課 魅力推進・ミュージアムグループ

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