大阪市 瓜破北遺跡(その2)現地公開資料

更新日:2017年3月31日

 瓜破北遺跡は、瓜破遺跡の北西に位置し、大阪市平野区瓜破二丁目・瓜破西一丁目を中心に広がる遺跡で、その規模は東西1,300メートル、南北500メートルほどの広さです。本遺跡と南側に隣接する瓜破遺跡は、大阪平野南部の丘陵地から北に延びた河内台地の先端部に当たり、瓜破台地とも呼ばれる台地先端の大半が両遺跡の範囲となっています。瓜破北遺跡で発見された遺構・遺物は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、中世などであり、長期にわたる複合遺跡であることが明らかになっています。

 今回の調査地は、瓜破北遺跡の中央に位置しており、瓜破台地の北西先端の斜面部にあたる地域で、2007年度に財団法人大阪市文化財協会が調査を行った地区の東側にあたります。その時の調査では、旧石器時代の石器製作跡などが検出されています。

 今回の調査は、府営瓜破二丁目住宅建て替えに伴い、1,300平方メートルの調査を実施しています。調査は、A(東側)・B(西側)の2地区に分けて実施し、現地公開はB地区を中心に報告します。

 これまでに検出した遺構面は、5面にわたります。

 第1面(近世)では、B地区西側で、条里(じょうり)に伴うと思われる南北方向の溝群(みぞぐん)。A地区では、牛の足跡を検出しました。

 第2面(中世)は、洪水堆積層上面で、砂層がベースとなっています。 

 第3面(平安?)は、砂層を取り除いた粘土質シルト層上面で、人の足跡が多数見つかりました。一部の足跡には歩行を示すものもあります。

 第4面は、安定した面ですが、遺構が見つかりませんでした。

 第5面では、溝、土坑(どこう)などが見つかりました。A地区西側で、南北にのびる溝2本と東北から南西に延びる溝1本で、それぞれの溝の中から古墳時代前期の土器が出土しています。今回現地公開を行なっているB地区西側では、「L」字形の溝とそれに注ぎこむ3本の溝が見つかりました。これらの溝は、用水路として掘られたものと推定しています

 土坑(どこう)は、古墳時代前期のものが3基とそれ以外に弥生時代後期のものが1基あります。

 第1面の溝群(みぞぐん)はB地区の西側で見つかりました。幅は大小さまざまでありますが、8本見つかりました。すべて南北方向に平行してのびています。条里(じょうり)に伴う溝と推定され、用水路として機能していたものと思われます。時期は、出土遺物から、近世(江戸時代)と推定されます。

【写真】第1面のみぞぐん

 第1面の牛の足跡はA地区で見つかりました。足跡の形状から牛と推定されます。A地区全域から多数見つかっていることから、水田を耕作するために牛を使用したものと思われます。時期は、近世(江戸時代)と推定されます。

【写真】第1面からみつかった牛の足跡

 第5面の溝群(みぞぐん)は、A地区では南北に延びる溝2本と東北から南西に延びる溝1本が見つかりました。それぞれの溝の中から古墳時代前期土器が出土しています。B地区西でも同様な溝がみつかっています。

【写真】第5面からはっけんされたみぞぐん

 今回の調査では、住居跡や建物などの集落に伴う遺構は検出されませんでした。しかし、古墳時代前期と推定される溝が、A地区の西側、B地区の西側で集中して多数見つかりました。これらの溝は、用水路と考えられることから、溝の下流には水田が広がると想定されます。

 それ以降、近世に至るまで、洪水などの自然災害にみまわれながらも長期にわたって耕作地として土地利用されてきたことがわかります。

 遺物は、以前の大阪市の調査で旧石器時代の石器が多数出土していますが、今回は、その時代の遺物はなく、弥生時代後期から始まり、古墳時代中期、古墳時代後期、中世(鎌倉・室町時代)、近世(江戸時代)のものが少量ながら出土しています。これらのことから調査地周辺に集落が存在し、弥生時代後期から現代まで連綿と続いていたものと推定しています。

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教育庁 文化財保護課 保存管理グループ

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