堺市に所在する宮園遺跡(みやぞのいせき)は、泉北丘陵上の緩い傾斜地に立地しています。東西800メートル、南北430メートルの範囲が遺跡とされており(図1)、中世(鎌倉から室町時代 おおよそ12世紀から16世紀)を中心とする時期の遺跡と考えられています。宮園遺跡(みやぞのいせき)の周辺には、主要な遺跡として、北に深井清水町(ふかいしみずちょう)遺跡(古墳時代から中世)、東に深井幡池(ふかいはたいけ)遺跡(古墳時代・奈良時代)、南に平井遺跡(旧石器時代から中世)などがあり、このうち深井幡池(ふかいはたいけ)遺跡で8世紀の土師器と5世紀後半の須恵器を焼成した遺構が見つかっていることがとくに注目されます。
発見された遺構の中で多いのは、土壙(どこう)と溝、そして水田の畦畔(けいはん)(あぜ)で、その他にかつてこの場所に自然の谷があったこともわかりました。谷の最下部には砂、その上部には泥が溜まっており、徐々に水の流れがなくなっていくようすがわかります。その後、この谷は埋め立てられ、中世後期(14から15世紀)には調査地の全域が水田として利用されていました。この時期の遺構として、水田の畦畔(けいはん)などを検出しています。また、水田耕作を営むかたわらで、土採りを目的とすると考えられる土壙(どこう)も多く掘られています。この土採りは粘土を対象としていることから、周辺で焼き物の生産が行われていたのかもしれません。調査区一帯が水田として利用される景観は、その後、1960年代に八田荘住宅が建設されるまで続くこととなります。
■ 調査区と発見された遺構(いこう)
今回の調査で見つかったなかでもっとも古い遺物は、縄文時代のサヌカイト製石鏃(せきぞく)(写真1)や剥片(はくへん)(石を割り取る際に生じた破片)などです。新しい時代の土に紛れ込んだものではありますが、調査地の周辺で、このころからすでに人々の暮らしが営まれていたことがわかります。
弥生時代を挟んで古墳時代(3世紀後半から6世紀)になると、再び遺物が認められるようになります。谷の中に溜まった泥からは古墳時代の須恵器(写真2)が出土しているほか、新しい時代の土器に混じって須恵器窯のものと思われる窯の破片が出土しており、調査地の周辺で窯業が営まれていた物証として注目されます。
その後、古代(7から11世紀)の土器は少なく、周辺での活動は低調なようです。ただ中世になると状況は一変し、多くの土器が出土しています。これらの多くは、普段使いの土器である瓦器椀(がきわん)や、煮炊きや料理に用いる瓦質土器(がしつどき)の羽釜(はがま)・擂鉢といった生活に密着した土器ですが(写真3)、破片資料ながら当時高級品だった中国から輸入された磁器もあります。また、ごく少量ですが瓦も出土しており、周辺に寺院が存在したことを窺わせる資料として注目できます。
■ 写真1 石鏃(せきぞく)(縄文時代) 長さ2.5センチメートル
■ 写真2 須恵器ハソウ(古墳時代後期 6世紀頃)
■ 写真3 須恵器・瓦器(がき)・瓦質土器(がしつどき)(中世後期 14から15世紀頃)
今回の調査によって、宮園遺跡にはいまは埋没した谷があり、この谷は6世紀頃にはほとんど水流がなくなっていたこと、その後、14から15世紀頃になると大規模に開発され、一帯が水田化されたこと、また水田耕作を行う傍らで粘土の採取が行われたいたことなどが明らかになりました。地域の歴史を明らかにするうえで、地上からはわからないこうした知見を得ることができたことは、貴重な成果といえるでしょう。
印刷用はこちらから→宮園遺跡現地公開資料 [PDFファイル/1.14MB]今回の発掘調査は、府営八田荘住宅の建て替えに伴って実施しています。その成果として、中世を中心とする時期の遺構・遺物や、いまは埋没した谷が見つかっています。現在の地表面からはわからない、かつての地形やむかしの暮らしのようすがわかるという意味で、重要な成果を得ることができました。
■ 図1 宮園遺跡の位置と周辺の遺跡
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教育庁 文化財保護課 調査事業グループ
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