大和川今池遺跡(やまとがわいまいけいせき)3

更新日:2017年3月30日

所在地:松原市天美我堂(あまみがどう)五・六丁目

種類:集落跡

時代:旧石器、縄文、弥生、古墳、奈良、平安、中世

調査期間:平成28年1月5日から平成28年1月29日

主な遺構:掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)、溝など

主な遺物:須恵器、土師器、瓦など

 

府道堺港大堀線(さかいこうおおぼりせん)の道路拡幅工事に伴う大和川今池遺跡の発掘調査では、鎌倉時代の屋敷地や、平安時代の屋敷地が発見され、これまで2回にわたり本ホームページで紹介してきました。今回の発掘調査で、平安時代の屋敷の様子がさらにくわしくわかったので、紹介します。

図1は、前々回に紹介した平安時代の屋敷地に今回の調査で見つかった遺構を描き加えたものです。この結果、溝2001と溝7001は屋敷地を東西に区画する溝であることがわかりました。溝間の距離は約58.5メートルです。

(図)平安時代の屋敷地図

■ 図1 平安時代の屋敷地

写真1は、今回の調査地を東から撮影したものです。調査地の奥が屋敷を囲むと考えられる溝7001です。

写真の中央は掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)(3間×3間以上)です。今回検出した平安時代の屋敷の中では一番立派な建物です。建物は左の道路の下にのびているようで、東西5.0メートル、南北5.6メートル以上の大きさになります。柱穴から出土した土器で、建物は9世紀初頭以降に建てられたことがわかります。

【写真】溝7001と掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)

■ 写真1 溝7001と掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)

写真2は、溝7001を南東から撮影したものです。平安時代に掘られた溝が、その後中世と近世にも同じ場所で溝として使われ続けたようです。溝の底の水のたまり方で一部を掘り残して高くしていることがわかります。出入り口があったのかもしれません。

屋敷地を区画する溝7001

■ 写真2 屋敷地を区画する溝7001

今回の調査によって、新たに発見された平安時代の屋敷の規模と内容がより明確になった事が大きな成果です。

また、井戸2130には、井戸枠が残っており、倭櫃(やまとびつ)を転用しているとホームページでも紹介しました。発掘調査で発見された木製品は、そのまま乾燥させると壊れてしまいますので、今回保存処理を行いました。

写真3は発見されたときの井戸枠の様子です。丸太を井桁(いげた)に組み、その周りを板材で囲っていました。その板材を取り上げてみると、板材には板どうしを組み合わせるための切り欠きがあり、また打ち込まれた釘や塗られたウルシが残っていたので木櫃(もくひつ)とわかりました。

【写真】井戸2130のいどわく

■ 写真3 倭櫃の板材を転用した井戸枠

写真4は保存処理前の木櫃(もくひつ)の側板です。井戸の下側は水につかっていますのでよく残っていました。写真5はやはり保存処理前の側板に取り付ける「持ち手」です。これによって大和川今池遺跡の木櫃(もくひつ)が倭櫃(わびつ)とわかりました。

【写真】保存処理前のもくひつの側板

 ■ 写真4 保存処理前の木櫃(もくひつ)の側板                                             

【写真】保存処理前のもくひつの持ち手

 ■ 写真5 保存処理前の木櫃の持ち手

図2は、木櫃(もくひつ)の構造模式図です。木櫃(もくひつ)とは箱型の木製収納具で、脚の付く「唐櫃(からびつ)」と持ち手の付く「倭櫃(わびつ)」があります。出土資料としては、飛鳥時代(あすかじだい)から平安時代前半にかけて、平城京などから15例ほどが知られています。なお今回の木櫃(もくひつ)の大きさは長さ105センチメートル、幅72センチメートル、高さ37センチメートルくらいに復元できます。

(図)もくひつの模式図

■ 図2 木櫃(もくひつ)の構造模式図

写真6は保存処理の終わった木櫃(もくひつ)の側板と底板です。写真7のように、塗られたウルシがはっきりとわかるようになりました。

【写真】保存処理の終了したもくひつの側板など

■ 写真6 保存処理の終了した木櫃(もくひつ)の側板など               

【写真】保存処理の終了したもくひつの底板 うるしがぬられています

■ 写真7 底板に塗布されたウルシ

このページの作成所属
教育庁 文化財保護課 調査事業グループ

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