同和対策審議会答申(昭和40年8月) 第2部第3章

更新日:2023年6月21日


 

3.現在の同和対策とその評価
 太平洋戦争に敗北した日本は、連合軍の占領下に置かれた。占領政策の方針として同和地区を対象とする特別の行政施策は禁止されたので、政府の同和対策は中断され行政の停滞を余儀なくされた。
 戦争によって荒廃した社会経済情勢のもとで、国民一般の生活は極度の窮乏に陥ったが、特に同和地区住民の困窮が甚だしかったことはいうまでもない。しかも、部落差別はいぜんとして存続し、差別事件によるトラブルが各地で頻発した。つまり、戦後のいわゆる民主的改革にもかかわらず同和問題は未解決のままでとり残されたわけである。
 このような情勢のもとで、昭和21年2月「部落解放全国委員会」(のちに部落解放同盟と称された。)が結成され、自主的な解放運動が再組織された。
 戦後の部落解放運動は、水平社運動の伝統を継続し、その経験と理論上にたって発展したものであるが、その特徴は、いわゆる「行政斗争」を中心に同和地区を基盤として組織を拡大したことである。すなわち、部落差別についての認識を深め、従来水平社が行ってきた心理的差別に対する糾弾斗争から前進して、実態的差別の存在を強調し、その責任は行政の停滞にあるとして、地方公共団体及び政府に対し部落解放の行政施策を要求する大衆斗争を全国的に展開するにいたったのである。昭和33年に起った教職員の勤務評定反対闘争に部落解放同盟が積極的に参加し、同和地区住民に大きな影響を与えたことはその顕著な一例である。また、部落解放同盟が労働組合や革新的政党と共同して、生活安定と権利擁護のための斗争や平和を守る斗争に積極的に行動するようになったことは注目される。
 一方では、昭和26年11月、近畿、中国、四国、九州などの地方公共団体の同和対策関係職員を中心とする「全日本同和対策協議会」が生まれた。当初の数年間、全日本同和対策協議会は、部落解放同盟と提携協力し、政府に対して同和対策の積極的実施を要請する運動を行った。しかし結局指導理念を異にする両者の意見が対立し、ついに袂を分つにいたったのである。その後、昭和35年5月、同和地区住民を中核とし、全国民運動を目めざす「全日本同和会」が結成された。この2つの団体は、戦前の部落改善、融和運動の流れを継続し発展したものということができる。そしてこれらの民間団体はそれぞれの立場から、中断された同和対策の復活を強く要望し、総合的な同和対策を国策として樹立し同和問題の根本的解決をすみやかに実現するように政府と国会に対して要請するに至った。
 かくて、講和条約が発効してのち、昭和28年度の国の予算に戦後はじめて、同和地区に隣保館を設置する経費の補助金が計上され、31年度からさらに共同浴場、34年度から共同作業上及び下水排水施設というぐあいに環境改善事業の予算が増額され漸次戦前の同和対策が復活していった。しかし、それは部分的な改善事業にとどまっていたので、同和問題の抜本的解決をはかる総合的対策の樹立を要請する声が次第に高まった。昭和32年、部落解放国策樹立国民会議が結成され、国会に提出した国策樹立の請願が採択された。そこで政府は、昭和33年内閣に同和問題閣僚懇談会を設け、関係各省の行政施策のなかに同和対策をとり入れることとした。また一方、政党でも自由民主党、日本社会党がそれぞれ特別委員会を設けて同和対策を検討し、政策審議会の決定を経て各党が同和対策要綱を発表するにいたった。民間においては、昭和35年に部落解放同盟を中心とする「部落解放要求貫徹請願運動」が全国的な規模で展開されたのをはじめ、全日本同和会および全日本同和対策協議会の国策樹立要請運動が強力におしすすめられた。その結果昭和35年の第35回臨時国会に、自由民主党、日本社会党及び民主社会党が人権尊重の建前から超党派的に連携して、同和対策審議会設置法案を共同提案し、国会は全員一致を持ってその法案を可決した。
 政府のこれまでの同和対策は、厚生省と文部省及び建設省の所管に属する行政施策が主なものであるが、同和問題閣僚懇談会が内閣に設けられてからのちは、モデル地区の設定に基づき総合的施策を実施する方向に進展し、労働省、農林省、通産省、自治省、法務省などの所轄に係る各種の施策も新たに加えられ、国の同和対策予算も逐次増額されていった。このような政府の同和対策の発展にともない、その行政区域内に多数の同和地区を有する地方公共団体においても、政府の行政施策の実施に協力するだけでなく、独自の立場で自己の財政負担によって従来から行ってきた同和対策をより一層積極的に実施するようになった。
 以上述べた戦後の同和対策を戦前のそれと比較すれば、一歩前進したことはたしかである。このことは正当に評価されなければならない。
 本審議会は、以上概観した同和対策の経過にかんがみ、これまで政府によって実施された行政施策に対し次のような総括的評価を行ったのである。
(1) 明治の末から大正の初め頃までの政治による同和対策は、治安維持と窮民救恤の見地から行われた行政施策であって、その基本的性格は慈善的なものであったことを否めない。ことに、当初地方改善行政の一環として行われた部落改善施策は、同和地区住民の自発的精神と自主的行動を基調とする部落改善運動として推進し発展させる方策がとられず、観念的、形式的な指導と奨励による風俗矯正にとどまったきらいがあった。
(2) 大正の中頃全国的に勃興した自主的な改善運動は同和地区住民の自覚のあらわれであったが、政府はそれにこたえて改善施策を積極的に行うことをせず、限られた僅かな予算で改善事業を慈恵的に行っていたにすぎなかった。
(3) 政府が同和問題の重要性を認識するに至った契機は、米騒動と水平社運動の勃興であった。また明治時代から現代に至るまで一貫して、政府の同和対策は多分に切実な要求と深刻な苦悩に根ざす同和地区住民の大衆的な運動に刺激され、それに対応するための宥和の手段として行われた場合が多かった。
(4) 従来、政府によって行われた同和対策としての具体行政施策は、応急的であって、長期の目標に基づく計画性と複雑多岐な側面を持つ同和問題に即応する総合性とに欠けていたことは否定できない。このような行政施策の欠点は、いわゆる縦割行政の弊害から生ずるだけではなく、同和問題の基本的解決に対する政府の姿勢そのものに問題があったといわなければならない。
(5) 現段階においても、同和対策は一般行政に比し複雑困難な問題として扱われているかの感があるが、その正しい位置づけがなされないと差別的な特殊行政となるおそれがある。したがって政府によって行われる国の基本政策の中に同和問題を明確に位置づけ、行政組織のすべての機関が直接間接に同和問題の抜本的解決を促進するため機能するような態勢を整備し確立することが必要である。
(6) 国と地方公共団体の同和対策が一本の体系に系列化され、政府、都府県、市町村、それぞれの分野に応じた行政施策の配分が行われ、国が地方公共団体の財政上の負担を軽減する配慮が十分になされるごとき組織的な同和対策が確立されていないことも、大きな欠陥として指摘される。そのため、同和対策を積極的に実施するところと、ほとんどそれを実施していないところと、地方公共団体の態度如何によって生ずる格差が大きく、全国的にきわめて不均衡な状態である。
(7) 国の予算に計上される同和対策の経費は逐年増額されている。しかしながら、同和問題の根本的解決をはかるために必要な種々の経費としてはきわめて僅少であった。政府が真実に同和問題の抜本的解決を意図するならば、なによりもまず、国が同和対策のために投入する国庫支出は、その社会開発的意義と価値を正しく認識し、飛躍的増大をはかることこそもっとも必要なことである。
(8) 以上の評価に立つと、同和問題の根本的解決を目標とする行政の方向としては、地区住民の自発的意志に基づく自主的運動と緊密な調和を保ち、地区の特殊性に即応した総合的な計画性をもった諸施策を積極的に実施しなければならない。

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府民文化部 人権局人権擁護課 人権・同和企画グループ

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