同和対策審議会答申(昭和40年8月) 第2部第2章

更新日:2023年6月21日


 

2.解放運動と融和対策
 同和問題が政府をはじめ社会一般から注目され、深い関心を持たれるようになったのは、大正時代後半のことであり、その契機となったのは7年7月勃発した米騒動と、11年3月に結成された全国水平社の運動である。
 米騒動は、米価の暴騰により生活難に陥った広範な低所得階層の憤激が自然発生的に暴動化したものである。この暴動に京都、岡山、広島、津、名古屋等の都市における同和地区住民が、勤労者や市民など一般大衆とともに多数参加し、激烈な行動に出たことは事実である。また、滋賀、奈良、和歌山、富山、香川、山口、福岡等の各地で地区住民が暴動に参加したことも事実である。けれども、同和地区住民のみで米騒動を起こしたのでもなければ、差別問題が原因で暴動化したものでもなく、また、同和地区住民が計画的、組織的に暴動を指導した物でもなかった。しかし、第一次大戦の経済的影響による未曾有の好景気のなかで、同和地区住民の大多数が差別の中の貧困とも言うべき劣悪悲惨な生活状態におかれていたことと相まって、多年にわたってうっせきした差別圧迫と憤まんが爆発して、多数の地区住民をして米騒動に参加させた。政府をはじめ社会一般の関心は、そのような反社会的エネルギ−が潜在する同和問題の深刻さと重大さに集約される。言いかえれば、米騒動によって同和問題は新しく再発見され、重大な社会問題として認識されたのである。それを立証したのが、帝国公道会主催の同情融和大会であり、大正9年度の国の予算に地方改善費が5万円計上されたことである。
 帝国公道会が東京築地本願寺で第1回同情融和大会を開催したのは大正8年2月であった。大会には貴衆両院議員、関係各省大臣をはじめ、華族、学者、宗教家および同和地区の有力者など340余名が出席した。
 大会宣言をみると「もしこれ斯の如くして其途を改めずんば彼等の内過激思想を抱くものに至っては、或いは社会を呪詛するものを出すなきを保すべからず」とのべ、為政者の反省を促している。この大会に参集した同和地区の有力者は別に会合を持ち対策を協議した結果、内務省、陸軍省、海軍省、文部省などの関係各省および各政党に対し、部落改善に関する陳情を行うとともに、翌3月第41帝国議会に請願書を提出した。ついで大正10年2月第2回同情融和大会を開いたが、この大会には、全国各地の同和地区代表が多数参加した。大会のあと和歌山県、広島県、山梨県等の同和地区有力者数名が実行委員に選ばれ、関係各省に陳情して部落改善施策の積極的な実施を要請した。
 そしてさらに、第42回帝国議会に次のような請願を行った。
一、部落民を官公吏に採用すること。
一、官公文書、身元調査等に特殊部落又は其他忌むべき文学を記載せしめざること。
一、隊内に於ける差別待遇を廃止すること。
一、教育上に於ける差別待遇を廃止すること。
一、部落改善団体を組織すること。
一、部落改善調査機関設置のこと。
一、部落改善費は国庫より支出せられたきこと。
一、内務省に部落改善事務の局課を設け、専任の官吏を置くこと。
一、地方庁内に社会課を設け、部落改善の専任官吏を置くこと。
一、北海道に団体移住する戸数の内規制限を撤廃すること。
 この請願の内容は、当時の同和地区指導者が同和対策としてどのような具体的施策を要求していたかを知る好資料である。それは一言でいえば、明治、大正初期の改良主義運動と基本的には変わりない要求であるが、内部改善第一主義から脱却して行政施策の要求に発展したという点で前進が見られる。
 このような情勢のなかで政府は、全国部落調査を行うとともに、9年8月新設された社会局の諮問機関である社会事業調査会の答申「部落改善要綱」を採択して行政方針を確立し、翌10年度には予算を21万円に増額して施策の拡充をはかった。かくて、同和問題が政府の政策のなかにちりあげられたのに呼応して8年10月高知県公道会、9年8月岡山県協和会、10年3月広島県共鳴会などの新しい融和団体が相次いで結成された。また、全国的な組織を有する団体としては、有馬頼寧を会長とする同愛会が10年9月に結成され、この時期における民間団体の改善、融和運動はようやく全国的に拡がっていった。 そして、指導理念や運動方針も、労働運動や社会主義の抬頭、国際的潮流としての民族自決、人種平等の思想的影響を受けて、大きく変化した。すなわち従来の部落改善を第一とする改良主義から差別撤廃に重点を置く融和主義の方向へと転換したのである。
 このような融和運動に対抗して、大正11年3月3日京都の岡崎公会堂で全国水平社の創立大会が開かれた。近畿地方を中心に、中国、九州、四国、関東、中部各地方の同和地区代表約2,000名が参集し、会堂にみなぎる悲壮な感激と昂奮のなかで、人権宣言ともいうべき全国水平社結成宣言が発表され、つぎのような運動方針の大綱を示す綱領が満場一致で採択された。
一、我々特殊部落民は、部落民自身の行動によって絶対の解放を期す。
一、 我々特殊部落民は、絶対に経済の自由と職業の自由を社会に要求し、もって獲得を期す。
一、 われらは人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す。
 全国水平社は、改良主義の部落改善ではなく完全な解放を目ざし、協調的な融和主義ではなく差別撤廃のための斗争する自主的団体として発足した。これは融和団体と根本的に異なる性格である。この全国水平社の運動は燎原の火のごとき勢いで全国的に拡がり、「我々に対し幾多及び特殊部落民の言行によって侮辱の意思を表示したる時は徹底的糾弾をなす。」という大会決議が実践に移されたため、初期の段階において一面では反社会的現象もあらわれたことは否定できない。けれども他面において、同和地区住民の基本的人権に関する自覚を高めたこと、部落差別の不合理性についての社会的認識を普遍化したことなど、水平社運動が果たした役割は大きかったといわなければならない。
 全国水平社が結成された翌年の国の地方改善費予算は、一躍前年度の2倍を超える491,000円に増額された。政府は、12年8月内務大臣訓令を出して、差別的偏見打破の必要性を力説するとともに、積極的に融和運動の奨励助成に努めたので、全国の関係各府県にもれなく融和団体が組織された。そして、さらに民間融和団体を統合した全国的連合体である中央融和事業協会が作られ、平沼麒一郎が会長となり内務省の外郭団体としての水平社の運動に対処する陣容が整えられたのである。
 昭和5から6年に我が国農村を襲った農業恐慌に対処するため、政府は時局国救対策を実施したが、そのさいに同和対策の応急施策として貧困な地区農民を救済する事業が行われた。それが契機となって、従来の観念的な融和運動から自覚更正の経済施策に重点をおく運動へと発展した。そしてさらに昭和10年「融和事業の綜合的進展に関する要綱」が決定され、それに基づいて昭和11年度を起点とする「融和事業完成10カ年計画」なるものが立案された。その内容をみると、経済更正施策と教育文化施策を大きな2本の柱とし、経済更正施策としては、中堅人物の要請と自覚更正運動に重点をおき、教育文化施策としては、同和教育の振興と差別解消のための啓発教育活動に力点をおくものであった。このことは従来、無計画であった同和対策に統合、統一性と計画性とを与えたという意味で、画期的な意義を持つものであった。しかし、政府はその計画を全面的に採用する予算措置を講じなかったので、せっかくの計画も中途半端におわり、やがて太平洋戦争の勃発により同和対策は戦争政策の犠牲にされ、険しい時局の暗闇の中に埋没されてしまった。それと同時に中央融和事業が指導する融和運動もまた次第に国家主義の傾向を強め戦争目的に順応する国民精神総動員運動の一翼と化し、本来の目的と役割とを喪失していったのである。

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府民文化部 人権局人権擁護課 人権・同和企画グループ

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