令和7年度 心の輪を広げる体験作文 障がい者週間のポスター作品集 ごあいさつ 大阪府知事 吉村 洋文  今年度も、「心の輪を広げる体験作文」と「障がい者週間のポスター」に多 数のご応募をいただきありがとうございました。また、入賞された皆さまに は心からお祝いを申し上げます。  大阪府では、「第5次大阪府障がい者計画」に基づき施策を推進し、計画に 掲げる基本理念である「全ての人間(ひと)が支え合い、包容され、ともに 生きる自立支援社会づくり」の実現に向けて取り組んでいます。  このような社会を実現するためには、府民の皆さまに障がいや障がいのあ る方への理解を深めていただくことが重要です。本事業では、毎年、幅広い 世代の方々を対象に、障がいをテーマとした作文やポスターを募集しており、 特にこれからの時代を担う若い世代の皆さまに理解・関心を深めていただく 良いきっかけになると考えています。  今回入賞されました作文は、色覚障がいがある兄との関わりから、障がい は「壁」でなく、人と人をつなぐ「橋」になり得ることに気づいた経緯を書 いた作品など、どれも心に響くものばかりでした。  ポスターについては、聴覚障がい者のための「耳マーク」や「聴覚障がい 者標識」などを効果的に配置することにより、花が咲いている様子を表現し たもので、これは、本年6月に「手話に関する施策の推進に関する法律」が 施行され、また、11月には東京2025デフリンピックが開催されたこの機 会に、マークの啓発にもつながる、時宜を得た作品でした。  「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに掲げた「2025年大阪・関 西万博」が、10月13日をもって閉幕しました。現在、この万博を契機とした様々 な取組みにより、障がいのある人にも、ない人にも、「居心地の良い大阪」と なることをめざしているところです。  そのためには、障がいの有無にかかわらず、相互に尊重し合い共生する社 会の実現が不可欠です。この作品集を通じて、障がいのある人とない人との 心のふれあい体験を共有し、障がいへの理解を一層深めていただき、理解不 足から生じる差別や偏見をなくすことで、すべての人にとって暮らしやすい まちを実現することを共にめざしましょう。  結びに、今回の募集にあたって、ご協力いただいた関係機関ならびに審査 員の皆さまに、この場をお借りして厚くお礼を申し上げます。 ごあいさつ 大阪市長 横山 英幸  今年度も「心の輪を広げる体験作文」及び「障がい者週間のポスター」に ご応募をいただき、誠にありがとうございました。また、各部門において入 賞された皆さまに、心からお祝いを申し上げますとともに、ご協力いただい た関係者及び審査員の皆さまに、この場をお借りしまして厚くお礼申し上げ ます。  今回入賞された作品は、作者が実際に体験した出来事を通じて、周りの人 を気遣い、行動できるような社会の一員でありたいという思いをつづった作 品、寄り添い続けてくれた支援者や温かく関わり続けてくれる周囲の人へ感 謝をつづった作品、障がいのある人の目線に立ち、誰もが等しくスポーツを 楽しめる時代を願う作品などがありました。  これらの作品は、人と人との関わりの温かさ、そしてその温かさを繋いで いきたいという純粋な思いを感じることができ、心に響くものが多くありま した。周りの人を思いやる気持ちや共感の大切さについて改めて考えるよい 機会になると思いますので、より多くの方々にこの作品集を手に取っていた だき、それぞれの作品に込められた思いに触れていただきたいと感じていま す。  大阪市では、障がいの有無にかかわらず、すべての市民が住み慣れた地域 で安心して暮らすことのできる社会をめざして、「大阪市障がい者支援計画・ 障がい福祉計画・障がい児福祉計画」を策定し施策を推進しています。今年 度につきましては、次期計画の策定に向け、 11月から「大阪市障がい者等基礎調査」を実施しています。これにより、障 がいのある方等の生活実態とニーズを把握し、より一層の施策の充実を図る こととしています。また、様々な障がいの特性や障がいのある方への必要な 配慮を理解し、困っている様子を見かけたときに、一声かけるなどのちょっ とした手助けや配慮を行うことで、誰もが住みやすい地域社会をめざす「あ いサポート運動」に取り組んでおり、より多くの皆さまにこの運動を通じて 理解を深めていただくことで、作品で描かれているような心のつながりや支 えあいの輪が一層広がるよう、積極的な啓発に取り組んでまいります。  この作品集や様々な取組をきっかけに、より多くの方に障がいや障がいの ある方に対する理解と認識を深めていただき、障がいの有無によって分け隔 てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合う共生社会の実現に向けて、 着実に歩みが進んでいくことを心から願っています。 ごあいさつ 堺市長 永藤 英機  「心の輪を広げる体験作文」と「障害者週間のポスター」に応募いただきあ りがとうございました。また、入賞された皆様に心よりお祝いを申し上げます。 それぞれの立場から「障害」というテーマに向き合い、熱心に取り組まれた ことを嬉しく思います。  今回入賞された作文は、避難所生活が必要な時でも障害のあるご家族が安 心して過ごせるよう思いやる気持ちが伝わる作品、ご自身の体験を振り返り 新たな一歩を踏み出す想いを表現した作品、障害の有無に関わらず互いに認 め合うことの大切さを綴った作品など、いずれも障害への理解や認識を深め るきっかけにつながるものと感じました。 障害者週間のポスターでは、障害に関するマーク・コミュニケーション方法 への理解促進や点字ブロックに対する配慮の必要性を訴える作品、障害のあ る方が身近な人に支えられて日常生活を送る様子や学校生活・スポーツを楽 しむ姿を描いた作品など、どの作品も皆が自分らしくいきいきと暮らせる社 会を実現したいという作者のメッセージや行動が表れています。  本市では、市政運営の大方針である「堺市基本計画2025」において重 点戦略の施策に「障害者が生きがいを持って心豊かに暮らせる社会の実現」 を掲げ、暮らしの場の確保や社会参加の促進などに積極的に取り組んでいま す。  また、関連計画として「第5次堺市障害者計画・第7期堺市障害福祉計画・ 第3期堺市障害児福祉計画」を策定し、ライフステージや障害特性等に応じ た途切れのない支援を推進しています。  堺市は、これからも個性と人格を尊重する意識を社会全体に広げ、障害者 福祉の拠点である「堺市立健康福祉プラザ」を中心にスポーツ・文化芸術活 動などを通じた障害のある方とない方の相互交流や、障害のある方の生活を 地域全体で支えるサービス体制の構築を進めますので、皆様には一層のお力 添えをいただけますと幸いです。  そして、この作品集が学校や地域で幅広く活用され、より多くの皆様が障 害について考える機会となることを願っています。 心の輪を広げる体験作文 目次 最優秀賞小学生部門 (堺市)「いざという時のために」 賢明学院小学校 六年 森 葵生(もり あおい) 最優秀賞中学生部門 (大阪市)「後悔の気持ち」 大阪教育大学付属平野中学校 二年 夫馬 綾香(ふま あやか) 最優秀賞高校生部門 (大阪府)「色」 関西創価高等学校 二年 妹尾 和美(せのお かずみ) (大阪市)「バスの中で見つけた優しさ」 ルネサンス大阪高等学校 二年 尾崎 結花(おざき ゆいか) 最優秀賞一般部門 (大阪府)「人は誰かの支えになれる」 糀谷 終一(こうじたに しゅういち) (大阪市)「障がいの有無にかかわらず対等に人と向き合える人との出会い~私を変えてくれた大切な支援者の人とのお話~」 佐野 舞香(さの まいか) 優秀賞小学生部門 (大阪市)「共生社会を考える」 城星学園小学校 六年 矢部 碧子(やべ あこ) 優秀賞中学生部門 (大阪府)「心をつなぐ二輪の花」 関西創価中学校 二年 武田 佳代子(たけだ かよこ) (大阪市)「社会の中のまゆねえちゃん」 桃山学院中学校 一年 谷口 綾音(たにぐち あやね) 優秀賞高校生部門 (大阪府)「五人で行く旅行は、まだないけれど…」 関西創価高等学校 二年 坂口 佳恵(さかぐち よしえ) (大阪府)「障がい者と健常者が過ごしやすい社会の答えとは」 天王寺学館高等学校 二年 杉本 愛恵(すぎもと まなえ) 優秀賞一般部門 (大阪市)「みんな仲良し」 田辺 とよ子(たなべ とよこ) (堺市)「受賞式とその後で」 森田 香奈(もりた かな) (堺市)「理想に向かって」 宮川 清美(みやがわ きよみ) 小学生部門最優秀賞 森 葵生 賢明学院小学校六年 いざという時のために  五年生の三学期、学校から、堺市の広報に載せる作文に応募しました。い くつかのテーマが提案されていて、私はずっと前から気になっていた「避難 所生活」について書くことにしました。その時、ちょうど阪神淡路大震災か ら三十年の年で、当時を振り返る特別番組が多く放送されていたからです。  テレビで見る避難所は、学校の体育館などで、大勢の人と一緒に過ごして います。私はいつも思うのは、「避難所で過ごさないといけなくなったとき姉 は大丈夫かな」という事です。  私の姉は、支援学校に通う中学生です。言葉が話せないけれど、よく笑っ て賑やかで、周りを楽しませてくれる優しい姉です。けれど、静かにするこ とが苦手で、夜も遅くまで眠れないことが多く、周りが寝静まってもずっと 一人で大きな声で笑っていることが多いです。家族のみんなは、姉のことを よく分かっていて誰も文句を言う人はいません。でも避難所では、迷惑がか かると思います。いろんな状況の人がいて、みんな疲れているからです。  災害があったとき、姉のような人は、どうやって過ごしていたのかなと、 とても気になります。そして姉のように、大勢の人と過ごすことが苦手な人 もいると思います。  私は、周りの人たちから、怒られることもなく優しく見守ってもらえると 嬉しいけれど、そんな人ばかりではないだろうなとも思います。南海トラフ 地震の話をテレビでしていたり、学校で災害の勉強をするといつも考えます。  いざという時、どうすればいいのかなと考えて、私は、毎晩寝るときに、 いつまで経っても眠れなくて、ゲラゲラ大きな声で笑っている姉に「シー!!」 を教えています。姉は指で「シー!!」のまねをしてくれるけど、全然静か に出来ません。もう少しがんばって練習しようかと思います。姉は大きい声 で怒られるのが苦手なので、知らない人に怒られるとかわいそうだからです。 中学生部門最優秀賞 夫馬 綾香 大阪教育大学附属平野中学校二年    後悔の気持ち  「大丈夫?」心配そうに母が私の顔をのぞき込んで聞いた。私は軽くうなず いた。  さっき電車の座席に座っていると横のドアから白杖を持った女性が乗り込 んできた。      私は立ち上がり  「ここに座ってください」 と声をかけた。  「ここで大丈夫です。ありがとう」 女性はそのままドアのところに立っていた。隣に母が座っていたので私は元 の席に座り、居心地の悪い気持ちでうつむいてしまった。そんな私を見て母 が声をかけてきたのだ。  私は小学校の時に「視覚障がい体験」をしたことがある。階段を目隠しし て上り下りするという体験だ。毎日使う階段なのに目の前が真っ暗だと足が すくんで一歩を踏み出すのがとても怖かった。その時に手を引いて声をかけ てくれた友達の声にすごく安心した覚えがあった。だから白杖を持った女性 を見て、迷いもなく立ち上がったのだ。でも、結局元の席に座って、声をか けた事を少し後悔していた。  すると母はこう言った。 「さっきの女性はすごいね。きっと毎回同じ場所に立っているからあの場所で 立っている方が降りやすいんだろうね。」そうか、私は困っていることを前提 に考えて声をかけたけれど、そうではない時もあるんだ。「大丈夫です。」と 断られたことは落ち込むことではないような気がした。  続けて母は数年前に起きた視覚障がいのある方がホームから転落して亡く なった事故の話をしてくれた。 「その時に今の綾香のように声をかけてくれる人がいたら事故を防げたかもし れないね。」と言った。そうだ、私が声をかけずにもしさっきの女性が転んだ りしていたら、きっと声をかけなかった事を後悔しただろう。さっきは声を かけたことを少し後悔したが、きっと声をかけなかった時の方が後悔の気持 ちは大きかったのかもしれない。  私の住む大阪市もホームドアのある駅が増えてきた。でも、まだまだ危険 な駅はたくさんある。街中を見ても視覚障がいのある方に安全な街とは言え ない。点字ブロックに自転車が停められていたりする。危険なことに気が付 いて声をかけられるのは私たち、人しかいないんだ。私はこれからも困って いるかもしれないと思ったら声をかけようと思う。後悔しないように。 高校生部門最優秀賞 妹尾 和美 関西創価高等学校二年 色  私には、誰からも愛される優しい兄がいます。兄は小さい頃から色覚に異 常があり、見える色が私や周りの人と違っていました。私はそのことを知っ てはいましたが、兄がどんな気持ちで日々を過ごしていたのか、深く考えた ことはありませんでした。  小学生の頃、兄は図工の時間に「草は緑」「空は青」という当たり前の表現 がうまくできないことがありました。ある日、兄が描いたカブトムシの絵が 緑色で塗られていました。兄にとっては自然な色でも、周りの子どもや大人 たちからは不自然で自分たちとは違うと認識してしまうはずです。周りの子 たちからその絵について色々聞かれたらしく、その時の兄は笑ってごまかし ていたそうですが、心の中では大きな孤独を感じていたのではないかと思い ます。私がもしその場にいたら、きっと兄の気持ちを守りたかった、と今になっ て強く思います。  外で遊ぶときも色覚異常は障がいとなります。例えば誰もが小さい頃やっ たことのある「色鬼」という遊びは、色を瞬時に見分けて走る遊びですが、 色覚に障がいのある兄にとっては、自分は参加することのできない周りと一 緒に楽しむことができない遊びになります。私にとっては小さい頃から身近 にある当たり前の遊びだと思っていたし、その遊びをした中でできた楽しい 思い出もたくさんあります。ですが、遊びという楽しい時間の中でも、兄の ように障がいのある人にとっては取り残される瞬間があります。「ほんの些細 なこと」と周りは思うかもしれません。しかし、周りに馴染めず周りと違う と感じてしまった時には孤独感や劣等感を嫌でも味わってしまい、忘れるこ とのできない思い出になってしまいます。  成長するにつれて、色の違いでの困難はさらに広がりました。友達と待ち 合わせをするときに「赤い看板の前で」などと色で指定された時、見分ける ことができなかったり、学校のプリントや黒板に書かれるチョークの文字が 赤色と青色と区別できなかったり。何色のものを取ってと指示をされてもこ れも区別することが難しく手に取れなかったり。服を選ぶときには「これと これ、どちらが似合うかな」と聞かれても、色合いを判断できずに悩んでし まうことも多かったといいます。私が兄からその話を聞いたとき、自分が想 像していた以上に日常生活に影響があることを知り、自分の色覚異常に対す る浅はかな考えに胸が締めつけられるような思いがしました。  「色覚異常はほかの障がいに比べ小さな障がい」と周りに思われがちです。 しかし実際には、信号、プリント、地図、掲示物、服、看板。色は日常のあ らゆる場所に存在し、避けて通ることはできません。だからこそ、その中で 不便を感じない日は一日もないはずです。色は誰にとっても当たり前にそこ にあるものですが、兄にとってはいつも挑戦の対象だったのです。私はその ことに気づき、これまで兄の心の痛みを十分に想像できていなかった自分を 恥ずかしく思いました。  それでも兄の笑顔を絶やさず、人に優しく接する兄の姿は、私にとって誇 りであり尊敬をしています。周りから「明るいね」「誰とでも仲良くできるね」 と言われる兄は、本当は数えきれない苦労や悔しさを乗り越えてきたからこ そ、人の気持ちを深く理解できるようになったのだと思います。兄は、自分 が孤独を感じた分だけ、人に孤独を感じさせまいとするように接しています。 その姿は、何よりも強く、そして温かいと感じます。  私はそんな兄から、「障がいとは何か」ということを考え直しました。障が いは、その人を弱くするものではありません。むしろ、周囲の理解や支えが あれば、その人の中にある強さや優しさをさらに引き出すものだと思います。 兄を見ていると、障がいは「壁」ではなく、人と人をつなげる「橋」になり 得るのだと気づきます。「共生社会」という言葉があります。障がいのある人 とない人が互いを理解し合い、支え合って生きる社会のことです。兄の存在は、 私にとってその共生社会のあり方を教えてくれる手本です。  私はこれからも兄と共に過ごす中で、違いを受け入れる優しさや、困難に 立ち向かう強さを学んでいきたいと思います。そして、兄から受け取った学 びを自分の周りの人たちにも伝えていきたいです。誰かが孤独を感じそうに なったとき、私は兄のようにそっと寄り添える人間でありたい。そうすれば、 私自身も「心の輪」を広げる一員になれると信じています。兄が教えてくれ たことは、何よりも「人の価値はできることの数ではなく心の在り方で決まる」 ということです。その気づきを胸に、私は障がいのある人もない人も共に輝 ける社会をつくっていきたいと強く願っています。 高校生部門最優秀賞 尾崎 結花 ルネサンス大阪高等学校二年 バスの中で見つけた優しさ  私は、人と人とのつながりや思いやりについて考えることがある。日常生 活の中で、私たちはさまざまな人とすれ違い、時には助け合いながら過ごし ている。しかしその大切さは、普段はなかなか意識することができない。け れど、ある日の登校日、私はその「思いやり」を強く感じる体験をした。それは、 バスの中での出来事だった。今でもそのときの温かな気持ちをはっきりと思 い出すことができる。  その日、私は登校日のためバスに乗った。いつもより少し混んでいたバス の車内に座り、窓の外を眺めながら学校に着くのを待っていた。すると、次 の停留所で一人の車いすの人がやって来た。私はその瞬間、「どうやってバス に乗るのだろう」と不安に思った。大きな段差のあるステップを車いすで上 るのは難しいように思えたからだ。けれど、次の瞬間、運転手さんがすぐに バスを停め、慣れた様子でスロープを取り付けた。さらに車いすが安全に乗 れるように、バスの座席を畳み始めた。私はその動きに思わず見入ってしまっ た。  その席には、一人のおばあさんが座っていた。年齢も高そうで、立ち上が るのは大変そうに見えた。私は心の中で「どうするんだろう」と少し心配になっ た。しかしおばあさんは迷うことなく席を譲り、自ら立ち上がった。その姿 を見て、胸の奥にじんとするものを感じた。けれど、それ以上に私の心を温 かくしたのは、その後に起こったことだった。  おばあさんが立ったのを見ていた周りの人が、すぐに席を譲ろうと動いた のだ。ある人は「こちらへどうぞ」と声をかけ、自分の席を空けた。おばあ さんは安心したように微笑んで、そこに座った。その光景は、言葉にしなく ても人と人とが自然に支え合っている瞬間だった。車いすの人も周囲の協力 を受けて安心して座ることができ、バスの中にはどこか温かな空気が流れて いた。私はその様子を見ながら、自分まで優しい気持ちに包まれていくのを 感じた。  それまで私は、車いすの人がバスに乗る場面を実際に見たことがなかった。 テレビや本で見ることはあっても、自分がその場に居合わせるのは初めてだっ た。正直に言えば、最初は「時間がかかるのではないか」「周りの人がどう思 うのだろう」などと少し不安な気持ちを抱いていた。しかしその心配はすぐ に消えた。そこにあったのは、周囲の人たちが当たり前のように協力し合う 姿だったからだ。  私は気づいた。私が勝手に「大変そう」「迷惑になるかも」と思い込んでい ただけで、実際には自然に助け合える場がそこにあった。運転手さんも、乗 客の人たちも、誰一人としていやな顔をせずに協力していた。その雰囲気の 中で車いすの人は安心して座り、周りの人も笑顔で過ごしていた。ほんの短 い時間だったが、私にとって大切な学びの瞬間になった。  私はその出来事を通して、「障がいがある人とない人」という区別を意識す るよりも、「同じ空間にいる人同士」として向き合うことが大切だと感じた。 おばあさんが席を譲り、そのおばあさんにさらに席を譲った人がいたように、 思いやりの連鎖は広がっていく。そこにあったのは「特別な助け合い」では なく、ごく自然な「心の輪」だった。  こうした思いやりの姿を目にして、私は「人は一人では生きられない」と いうことを改めて実感した。普段は自分のことで精一杯になってしまいがち だが、少し視野を広げれば、困っている人に手を差し伸べたり、誰かを気づ かうことができる。私もまた、そうした一員でありたいと思った。  これからの私は、そんな心の輪を広げていける人でありたいと思う。次に もし同じ場面に出会ったら、今度は私が声をかけたり、席を譲ったりしたい。 小さな行動でも、それがきっと誰かの安心につながるはずだ。そしてその一 歩が、社会全体を少しずつ優しくしていくのだと思う。  また、この経験は学校生活にもつながっていると感じる。教室や廊下など、 身近な場所でも同じように助け合いは生まれる。例えば忘れ物をした友達に ノートを貸したり、困っている人に声をかけたりする。そうした日常の小さ な行動こそが、人と人との関係を温かくしていくのだと思う。  日常の中にこそ、心の輪は生まれている。私はこれからも、その小さな温 かさを大切にして生きていきたい。 一般部門最優秀賞 糀谷 終一 人は誰かの支えになれる  昭和55年8月8日。交通事故で私は首から下が動かなくなりました。まだ 33歳。これから夢をかなえようとしていたときの、まさかの出来事でした。  ベッドに横たわり、天井を見つめながら毎日考えました。「これから先、いっ たい何ができるんやろう」と。現実を受け止めきれず、ただ時間だけが過ぎ ていきました。  その後の5年間は、リハビリに明け暮れました。長く、苦しい日々でしたが、 そんな中でも、思いがけない出会いに、何度も助けられました。  同じ病院でリハビリをしていた若い車いすの男性が、ある日ふいに声をか けてくれました。明るく、冗談まじりで。「この人、なんでこんなふうに笑え るんやろう」と、最初は戸惑いました。自分にはそんな余裕、なかったからです。  でも、彼の言葉の端々から、自分と同じような悔しさや痛みが伝わってき ました。それに気づいたとき、自分の中にあった分厚い壁が、少し崩れた気 がしました。  「できないことを数えるより、できることを見つけていこうや」  その一言が、胸に深く残りました。それから、少しずつ前を向けるように なり、リハビリにも気持ちが入りはじめました。  退院後、私は「頚損友の会」という小さな集まりを作りました。同じよう に障がいを持つ人たちが、気軽に話せる場所がほしかったからです。  活動を続けるうちに、障がいのない人たちとも出会うようになりました。 大学生のボランティア、地域の主婦や高齢者の方々。最初はぎこちなかった けれど、顔を合わせるたびに、少しずつ打ち解けていきました。笑顔が増え、 気がつけば、なんでも話せる仲になっていました。  ある日、道明寺南小学校での交流会で、一人の男の子が言いました。  「車いすの人って、ただ足が動かへんだけなんや。心は一緒なんやな」  その言葉に、胸がじんわり熱くなりました。子どもは本質をちゃんと見て います。障がいがあるかどうかより、大事なのはどう心を通わせるかや、と 改めて思いました。  その後、「アジア障害者友の会」を立ち上げ、フィリピンやタイの障がい者 施設を訪ねました。言葉が通じなくても、笑顔や手のぬくもりで心は通じます。  フィリピンの施設で、ひとりの少年がそっと私の手に花を握らせてくれた ことがありました。そのとき、「人のやさしさには国境も、障がいの壁もない」 と、心から思いました。  今は、地域のバリアフリー活動や、認知症サポーターの養成にも取り組ん でいます。障がいがあっても、ただ「助けられる存在」じゃない。誰もが誰 かの支えになれる。これまでの出会いや経験が、そう教えてくれました。  今は週に2回、デイサービスに通っています。ヘルパーさんとの何気ない 会話や、利用者どうしの笑い声が、日々の元気の源になっています。  障がいは、たしかに不便です。でも、不幸ではありません。  人と人が、心を通わせ、助け合い、笑い合える——それこそが、私が歩ん できた道で得た、何よりの宝物です。  私の「心の輪」は、今も少しずつ広がり続けています。手と手をつなぎ、 声をかけ合い、心を寄せ合えば、きっとどんな壁も越えられる。私は、そう 信じています。 一般部門最優秀賞 佐野 舞香 障がいの有無にかかわらず対等に人と向き合える人との出会い ~私を変えてくれた大切な支援者の人とのお話~  1年前、私は今までしたことがなかった「ものづくり」が作業内容の作業 所に通所し始めました。今までいくつかの作業所を転々とし、ここ数年は家 に引きこもり、社会に出ることがとても怖く感じていました。そんな中、元々 興味のあった絵を描くことを作業にしている、今の作業所に出会いました。 最初は何もわからず泣いてしまうこともありました。しかし、スタッフさん が懸命に私のことを考えてくださり、今では作業所に週4回通うことができ るようになったのです。その中で、私を変えてくれたスタッフさん、Оさんと の今までを書きたいと思います。  Оさんは、利用者さんみんなから愛されているスタッフさんです。しかし、 私は元々対人関係が苦手で、すぐに心を開くことができませんでした。中々 打ち解けることができず、「この作業所も合わないのかな…」と諦めていまし た。諦めている私とは裏腹に、Оさんは必死に私が打ち解けられないかと考え てくれていたそうです。そして月日は過ぎ去り、私とОさんは通所するたび に笑いあえる関係になっていきました。しかし、私の中でОさんは「一緒に 笑いあえる存在」と思っていたため、弱音を吐くことはできずにいました。 そんな中、私が心の安定が保てなくなる時期がやってきました。  誰にも弱音を吐くことができず、フラッシュバックや自傷行為、泣き叫ぶ ことが多くなりました。そんな時、いつもОさんは、自傷行為を止めながら もそれ以外は隣で何も言わず、そばに居続けてくれたのです。私が落ち着く まで手を握りながらずっと。そして、落ち着き始めた時、Оさんはこう言って くれました。 「佐野さん、私の目を見て。」その言葉に私はとても救われ、心を動かされた のを今でも鮮明に覚えています。「Oさんは信頼できる人なのかもしれない」 そう心から感じたのです。その出来事から私はOさんにいろんな話をするよ うになりました。今のことも、過去の怖かったことも、人が怖いことも、自 分が怖いことも、本当にいろんな話をして、時には二人で本音を話し合った こともあります。  それでも自分に余裕がなくて「しんどい。助けてほしい」その言葉が言え なくて、一人で抱えてしんどくなってしまうことがありました。そんな時、O さんは小さなメモに手紙を書いて渡してくれるようになりました。最初は「大 丈夫?どうしたの?」と書かれたメモを渡してくれていました。そのメモに 私が返事を書くことで、しんどいを吐くことができていました。そのメモを 何枚も貰ううちに「自分からしんどいを伝えられないか」と私自身が模索す るようになりました。そして誕生したのが「しんどいを伝える言葉カード」 です。不安、怖い、わからないけどしんどいなど、いくつかのしんどいをカー ドにして持ち歩くようにしました。そして、しんどい状況に合わせてカード を見せながら「しんどい」と自分から発信できることが増えたのです。  そうして伝えられることが増えたおかげで、自傷行為をすることは少なく なり、しんどいことを伝えた時、Oさんは「ゆっくりでいい。佐野さんのペー スでやっていこう」と言ってくれたり、作業内容を臨機応変に変更してくれ たりします。時には二人で絵しりとりをすることもあります。「私らしさ」を 常に引き出してくれて、出会った時から私という人を見てくれているOさん には、本当に感謝しかありません。  ある時、Оさんはこう言っていました。「私は障がいがある人ない人にかか わらず、その人を一人の人間として対等に向き合いたい」と。この考えは、 現代ではいろんなところで普及し始めている考えかもしれません。しかし、 私は普及だけが先走りして、実際に行動へと移せている人は、あまりいない のではないかと思います。実際に私は「障がい者だからできないだろう」と 何度も言われてきました。人は「障がい者」と聞くと「自分よりできること が少ない」などの考えを持つことが多いように感じます。Оさんがまっすぐ対 等に向き合える人だったからこそ、私は心から信頼することができ、自分も 変わっていきたいと思うようになれたのだと思います。  私はこれからもОさんと笑い、時に本音をぶつけ、弱音を吐ける関係でい たいと思っています。そして、Оさんのような、人と対等に向き合い、優しさ を分けられるような人になりたいです。Оさんと出会って本当に良かったで す。  Оさん、いつもそばで変わらずいてくれてありがとう。 小学生部門優秀賞 矢部 碧子 城星学園小学校六年 共生社会を考える  先日、万博のイタリア館前で、車いすに乗っている日本人とイタリア人の 選手の試合を間近で見ました。車いすは固定されていて座ったまま長い剣で ぐいぐいと手を伸ばして相手を突きにいくのを見てハラハラしました。手を 伸ばすたびに「ガチャン」と固定している鉄板の音がして迫力が伝わってきて、 見ていてとても楽しかったです。  私は車いすに座った時にこわい思いをしたことがあります。それは学校の 体験授業でのことです。友達に車いすを押してもらったのですが、少しかた むいただけでも後ろへたおれてしまうのではないかとひやひやしました。見 るのとはずいぶん違うんだなと思いました。そんな時、新聞で車いすの国際 パラリンピック委員会理事のマセソン美季さんが、ある小学校へ訪問し、ク ラスのみんなで車いすに乗っている友達もいっしょにドッジボールを楽しむ にはどのようなルールが必要なのかと話し合いをしたら、色々な意見がでた という記事を読み、私も万博で車いすに乗っている人も押す人もみんなが楽 しめるようにするにはどうすればいいかを考えてみました。万博はとても広 く暑いので、私はまず車いす専用レーンが必要だと思いました。スマホを見 ながら歩く人や、よそ見をする人も多く危ないので、大屋根リング下に車い す専用レーンがあれば安心して移動できるのではないでしょうか。また、各 パビリオンの移動には近道があれば良いと思います。  今回私は車いすフェンシングの試合や、学校の体験授業から、万博でも車 いすの人を気をつけて見るようになりました。まわりの人の事を考える事は 共生社会の第一歩だと思いました。また万博では、フェンシングと車いすフェ ンシングが同じ場所で交互に行われていたので、同じフェンシングでも色々 な見方ができどちらも楽しめましたが、どうしてオリンピックとパラリンピッ クを分けているのか疑問に思いました。調べてみると『目的と運営主体が異 なるため』とありましたが、運営を同じにしていっしょに行うのは可能だと 思います。私が大人になったころには、わけへだてなく様々なスポーツを楽 しむことができる時代になっていてほしいと思います。 中学生部門優秀賞 武田 佳代子 関西創価中学校二年 心をつなぐ二輪の花  赤、オレンジ、ピンク、紫色のカラフルな毛糸。その中央には、青く光るビー ズが一つ。二輪の花を結ぶ折り紙の包みには、大きく「ありがとう」と書か れていた。  これは、私が一年生の冬、近所の支援学校との交流会でいただいた宝物だ。  支援学校には、体が不自由な人や、うまく話すことが難しい人など、様々 な人が通っている。私たちの学校では、一年に一度、その生徒さんたちと交 流会を行っている。私はその冬、初めて参加することになった。  企画担当になった私は、「どうすれば、参加したみんなに楽しんでもらえる か」を班で何度も話し合った。みんな積極的に考え、様々な考えが出された。 「まずはお互いを知ることから始まるよね。自己紹介タイムは欠かせないね。」 「ダンスでサプライズ登場したら、盛り上がって雰囲気が良くなるんじゃない かな。」 「ボッチャというゲームは、障がいのあるなしにかかわらず楽しめるものらし いよ。」 わいわい言いながら相談は進み、折り鶴の贈り物もすることに決まった。役 割分担も決まり、準備が本格的に始まった。  交流会の説明動画を作る班、心を込めて折り鶴を作る班、ダンスの振り付 けを練習する班。それぞれが協力し合いながら、交流会に向けて力を合わせた。  そして迎えた当日。会場の体育館に着くと、私たちは大きなカーテンの裏 に集まり、息をひそめてサプライズダンスの出番を待った。  司会の先生の合図でカーテンが開く。私たちが飛び出すと、驚きと笑顔が 一気に広がった。音楽に合わせて手拍子をし、ステップを踏むうちに、緊張 は喜びの歓声へと変わっていった。  自己紹介では、 「同じ名前だね」 「同じアニメが一緒だ!」 と笑顔がはじけた。支援学校では、一人の生徒に一人の先生がつき、その子 の好きなことや得意なことを教えてくださった。暑いのが苦手な子、近づい てじっと目を見つめてコミュニケーションをとる子、大きな声を出して笑う 子。一人一人の個性を紹介してもらう中で、心の距離がぐっと縮まった。  次はボッチャ。白い「ジャックボール」に近づけたチームのボールが得点 になる。私は車椅子の男の子とペアになり、長い筒を使って投げる方法を選 んだ。  「どこに転がそうか?」と相談し、「せーの!」で一緒に手を放す。ボール は真っすぐ進み、相手のボールをはじいてジャックボールのそばに止まった。 周囲から「うまくいったね!」と声が飛んだ。男の子は満面の笑顔。うまく 言葉は出なくても「やったね!」と喜んでいる気持ちが伝わってきた。その 後も好投が続き、私たちのチームは勝利した。  試合後、全員で作った折り鶴をプレゼントすると、みんなとても喜んでく れた。全員で集まって記念撮影をする時、一人の先生が担当の子の背中をずっ とさすっておられた。その先生は「こうしてさすってあげると、安心して力 が抜けるんだよ」と教えてくださった。私たちも、声を掛けながら、そっと 背中をさすった。すると、その子の表情が和らぎ、心が通じたように感じた。  この交流会を通して、私は「心と心がつながる大切さ」を学んだ。話すこ とや動くことに不自由があったとしても、相手を知ろうとする気持ちと、違 いを理解し受け入れる温かさがあれば、心は自在につながることが出来る。  あの日いただいた二輪の花は、今も私の机に飾ってある。花と花を結ぶ毛 糸は、私たちの心をつないでくれた証だ。あの笑顔の心の花の輪を、これか らも日本中、そして世界中へ広げていきたい。 中学生部門優秀賞 谷口 綾音 桃山学院中学校一年  社会の中のまゆねえちゃん  「あやちゃん、はよ、これかたづけてかえりや。」  「わかってるよ、まゆねえちゃんちょっと待ってや。」  これは、私が祖母の家に遊びに行った時に、必ず交わすやりとりです。ま ゆねえちゃんは私の叔母にあたる人で、明るい障がい者です。障がいの程度 はわかりませんが、とても几帳面で、シリーズになっている本の順番をきち んと並べ替えたり、トランプを使った後に、数字順に一から四枚ずつマーク の順番も決めて並び替え片付けます。  そして、小学校から今まで公文に通い続けひらがなとカタカナの練習をずっ と続けています。日本一長く公文に通い続けているのかもしれません。きっ と三十年以上の公文歴です。  スヌーピーのぬいぐるみが大好きで、ソファーで四匹くらい飼っています。 四匹の家族構成が決まっていて、置く場所を間違えると鋭い指摘がとんでき ます。姪の私から見ても、とっても可愛らしい面白い叔母さんなのです。家 が近いので、私が生まれた時からまゆねえちゃんと関わっています。まゆね えちゃんのことを、ちょっと人と違うな、と思ったのは私が年中くらいだっ たと思います。父にまゆねえちゃんのことを聞いた時に、笑いながら、そう いう人やねん、という一言で特に障がい者であることを説明された記憶はあ りません。色々なことに対してこだわりが強い分、関わり方が難しいなと思 うことも多々ありますが、そのコツさえつかめば、明るく面白い人です。  まゆねえちゃんは、一人で電車に乗り、作業所へ仕事に行っています。朝 潮橋から地下鉄で弁天町まで行き、JRに乗り換えて芦原橋まで行き、更にそ こから作業所のバスで通っているのです。昔、通勤途中の電車で迷子になっ たようで、警察にも届け、家族総出で探し回ったこともあったそうですが、 だいぶ経ってから作業所へたどり着いたそうで、未だにその経路は謎のまま です。おそらく、電車に乗っていた人が、迷っている様子を見て、持ってい る定期などから乗り換えを教えてくれたりしたのではないかとのことです。 そうやって周りの人に助けてもらいながら、まゆねえちゃんは社会と関わっ ているのです。近くの市場に行っても、買い物のメモを持っていたら、顔見 知りのおばちゃんがその品物を一緒に探してくれる。レジでちゃんとお金も 払える。駅まで行く道で、近所の人に会った時、まゆねえちゃん特有の大き な声で「おはよう」と言ったら「おはよう、まゆちゃん気を付けて行きや。」 と声をかけてくれる人がいる。あまりに当たり前になっているこの光景が、 実はとても優しさにあふれているのだと気付かされます。  私の祖母は、〝ふらっと〟という就労継続支援B型の仕事場の代表者です。 そこには、様々な障がいを持った人がいて、それぞれ違った個性があります。 視覚障がい者だけれど、画用紙を数えたら誰よりも正確で早いプロ。知的障 がい者で、ガチャガチャの景品を詰めるのが得意なプロ。他にも、色々な特 性を持ちながらも、一生懸命仕事をする人たちがいます。時折、言い争いや、 間違えて怒られたりしながらも、和気あいあいと仕事をする姿を見ると、障 がいがあっても居場所があって、仕事をして役に立てているという実感が持 てるいい職場だなと感じます。  障がい者だからと差別したり、特別扱いするのではなくて、人としての個 性だと思えるような人が増えていけばいいなと思います。そのためにまずは 私が、まゆねえちゃんだけではなく、色々な特性のある人に出会ったときに、 それを理解し配慮しながらも、〝普通に〟接することができる人でありたいと 思います。 高校生部門優秀賞 坂口 佳恵 関西創価高等学校二年 五人で行く旅行は、まだないけれど…  私が小学二年生のとき、妹が生まれました。ずっと妹がほしかった私は、 家族と一緒に跳ねるように喜びました。学校帰り、お母さんと妹がいる病院 へ向かったあの日。いつもと違う帰り道を歩く優越感。病院に入るとき、熊 鈴の音を手で押さえて胸の奥でワクワクが膨らんでいくあの感覚。妹とお母 さんを見ると夏の暑さが吹き飛ぶくらい嬉しかったです。  妹は三歳くらいまで、とても静かで大人しい子でした。あまり喋らないこ とも、「きっと成長がゆっくりなだけ」と思っていました。けれど、三歳児検 診の日。お母さんから聴いた医師の言葉は、私たちには重すぎる響きをもっ ていました。 「自閉症スペクトラム症、ADHD、睡眠障害——。」 さらに、保育園に上がる前の検査では 「軽度から中度の知的障害」 という診断。意味を全部理解できたわけではありません。それでも、胸の奥 が冷たい水で満たされるような感覚と、「普通」という道が私たちから遠ざかっ ていく音を、確かに感じました。  成長するにつれ、妹の特性ははっきりと表れました。  買い物に行こうとしても、気に入らないことがあると奇声のような声を上 げて動かなくなり、スーパーの通路で立ち往生しています。夜は眠れずテレ ビをつけることもあり、家族全員の眠りが奪われます。言葉が通じないもど かしさから、泣き叫ぶこともありました。変化に弱い妹と一緒だと、家族そろっ てのお出かけは難しく、私の十七年間で、五人そろって旅行したことはあり ません。夢見てきた外出は、今も棚の奥にしまわれたままです。周りの友だ ちのように家族との思い出が少ないことが、今でも辛くなることがあります。  何よりも、妹が泣き叫ぶときに浴びせられる周囲の冷たい視線が、私を刺 しました。それは私に向けられたものでなくても、「邪魔者を見る」ような眼 差しが、大好きな妹に向けられているのが耐えられませんでした。  でも、一番頑張っていて笑顔が素敵なお母さんは、時々悲しそうな、つら そうな眼をしています。 「手が痛いせいで働けなくてごめんね」 「ちゃんとお小遣いあげられてないよね…」 ——そんなふうにお母さんは言います。 「もし、ママが亡くなったら、ともちゃんをよろしくね」 と最近はよく私と弟に言っています。私はそのたびに、大好きなお母さんと の時間が亡くなってしまいそうで、胸がしめつけられます。不安から出る言 葉だと分かっていても聞きたくない言葉です。  寮で生活している私は、必要な時だけお母さんにお金をお願いしています。 先日、部活動で遠くに行くから振り込みを頼むと、LINEで写真が送られて きました。千円札、五千円札、一万円札が扇子のように広がった写真です。 それは、リウマチで痛む手を我慢しながら、かけ持ちの仕事で一生懸命に貯 めたお金なのだとわかりました。その写真には、「振り込み遅くなってごめん ね」というメッセージが添えられていました。  ——私は、その「ごめんね」が嫌です。お母さんには事情があるのに、謝 らないでほしい。心まで痛めて私たちのために無理をしないでほしい、そう 思います。  他にも胸の詰まるような思いを抱くことがあります。祖母は、時に少し強 い口調で母の負担が大きすぎるのではないかと口にします。母もまた、諦め をにじませながら不満をこぼすことがありました。  でも、今は分かります。祖母は、母の負担を心から心配していた。お父さ んはちょっぴり家事が雑だけど、おいしいご飯も作ってくれるし、私たちの 送り迎えをしてくれます。だけど、妹の細かいところまで気づかなかった。 母は仕事と妹の世話に追われ、自分を追い込み、持病のリウマチを悪化させ てしまった。それでも、私や弟の学費を気にかけ、無理をして働いています。 だから、欲しいものがあったときには、母に負担をかけないように自分のお 小遣いで買っています。私は、そんな母の苦しさに気づけなかった自分を情 けなく思います。  妹にも事情があります。祖父母にも、父にも、母にも、私にも事情があります。 誰にでも、その人にしか分からない「事情」があります。きっと、冷たい視 線を向けてしまった人にも事情があります。  泣いている子に冷たい視線を向けてしまったのは、その子や家族の「事情」 を知らなかっただけかもしれません。人は疲れていれば、小さな行動にも苛 立ちを覚えることがあります。だけど、相手にも必ず見えない「事情」があ ることも、忘れないでほしいです。  障がいは、誰かのせいではありません。誰か一人が背負い込むべきもので もありません。それぞれが抱える「事情」を理解してみんなで支え合うこと が必要です。  妹を通して私は知りました。優しさは、相手を想像すること、思いやるこ とから始まるのだと。そして、その思いやりは、世界を少しずつ変える力を持っ ているのだと。  今、九歳になる妹は、明日や明後日、クリスマスがいつ来るのかもわかっ ていません。それでも、たしかに成長しています。毎日楽しそうに養護学校 から帰ってきているそうです。泣き叫ぶこともなくなりました。私の大好き な妹の変化は、家族や周囲の人たちの理解と協力があってこそだと、実感し ています。  ——五人で行く旅行は、まだ叶っていません。遠くに行けなくても、大好 きな家族との楽しい思い出はたくさんあります。同じ時間を重ねながら、そ れぞれの「事情」を抱えながらも、笑顔で支え合っています。その待ち望ん だ光が射すまで、私は歩み続けます。父と母と弟と妹と幸せな思い出を積み 重ねられるように—— 高校生部門優秀賞 杉本 愛恵 天王寺学館高等学校二年  障がい者と健常者が過ごしやすい社会の答えとは  私には年が3つ離れた、自閉症の弟がいる。幼いころから可愛がってきた 彼は今や中学生になり、身長も靴のサイズも追い抜かされたが、ちょっぴり 甘えん坊なところは昔と変わらず、今でも時々ハグなどのスキンシップを求 めてくる。癇癪を起こすことはたびたびあるが、兄弟どうしの喧嘩はほとん ど経験していない。弟は私のことを正直どう思っているか分からないが、私 は弟のことが大好きだ。  私自身、障がいを持つ弟がいる環境で育ったため、弟のことを考え出すと どうしても、本人や周りの人の意向を確かめもせずに「弟のためにこうした 方がいい」と勝手に判断してしまうような、「障がい者が身近にいる人の考え」 になってしまっていた。周りの人の意見を聞くと、「こちらの努力を何も知ら ないくせに」嫌悪感をも抱いてしまっていた。  例えば、弟が小学校入学の時。初めから特別支援学校に入学させるべきだっ たかもしれないのに、両親が「弟のため」と言って、特別支援学級のある地 元の小学校に入学させていた。当時の私はまだ幼く、両親の言うことがすべ てだと思っていたため、周りの人が弟について何か言おうと、「周りの人は私 たちの苦労を知らないからそういうことを言ってしまうんだ」という思考回 路になってしまっていた。今思い返せば私のこの考え方は両親から影響され たものだったように思う。  自分が年齢を重ね、弟が普通学校特別支援学級から特別支援学校への転校 が決まったこと、また、SNS などで自分とは違う意見に目を通すようになっ たことにより、自分の持ち合わせていない、ほかの人の障がい者に対する価 値観や感覚について考えるようになった。そして、自分を含めた世の中の障 がい者に対する感じ方や考え方には、大きく分けて3つ『世間一般の考え』、『当 事者の考え』、『障がい者が身近にいる人の考え』があると感じるようになった。  先ほどの、弟の小学校入学の例で話すと、「本人の意向も確認せずに物事を 決めてしまうのは、親のエゴではないか」「癇癪を起すなどのトラブルが授業 中にあった際、周りの生徒たちの迷惑にもなりうる」などの、『世間一般の考え』 を数年前になって初めて知ったのだが、どれも今までの私にはなかった、も しくはきちんと受け入れようとしなかった考えばかりだった。  また、先日見たSNSの投稿で「障がいを持っているから何をしてもいい わけではないし、すべての行為が仕方ない、と済まされるわけではない。」「障 がいのハンデを背負って生きているのは確かだが、そのハンデを背負ってい るからと言ってなんでもかんでも優しくしてあげるのは、それはそれで違う。 特定の人に必要以上に優しくしてしまうのも、障がい者の差別になるのでは ないだろうか。」という発言をしている方がいたことに対し、こういった新し い視点に色々と気づかされ、これまでの自分の言動を見直すきっかけになっ た。『障がい者が身近にいる人の考え』のようなものとして、今まで自分の中 にあった、「周りの人は私たちの苦労を知らないからそういうことを言ってし まうんだ」という考えも、未だに私の頭の片隅に残り続けているが、世間一 般の方々からすれば「当事者のことを思って必死になってるようだけど、そ れは本当に『当事者の考え』に寄り添った言動なのか。空回りしていたり余 計なお世話な可能性だってある。」と思っているのかもしれない。  今までの経験や、近年の考え方の変化を通して、同じ世界を生きる人でも、 それぞれ意見の内容や視点、立場に大きな違いがあるため、各々の考えの本 質ををきちんと理解することで、障がい者と健常者がともに、より一層過ご しやすい環境を構築していくための自分の意見を、初めて言うことができる のではないか、と考えるようになった。今までのように、相手の言い分を何 も理解しないままに頭ごなしに否定するのでは、単に自分のエゴを吐き出し ていることになりかねないと思う。  実際問題、この課題は白黒はっきりできない、グレーで、またシビアなも のなので、答えを導き出すには熟考する必要があるように感じる。  私には弟がいる分、障がい者と健常者の過ごしやすい社会について幾度も 考えを巡らせてきたが、未だに自分の明確な答えは出ていない。なかなか簡 単にはいかないし言語化することも難しいが、時間を掛けて多くの意見に触 れ、様々な人の立場について考えることで、いずれは自分の中での答えを見 つけられるようになりたい。 一般部門優秀賞 田辺 とよ子 みんな仲良し  今から33年前、脳性麻痺と視力障がいを持つ娘当時11才、母私44才の時も 作文をださせて頂きました。娘は私が作文を書いた時の44才になりました。 近所の小さい子ども達のふれあいの中から、これから先、51 億人の世界の人々にできるだけ多くふれあえることを喜びに生きていきたい と最後を結びました。その後どんな生き方ができたのかな。  盲学校を娘は18才で卒業し社会人になりましたが、なかなか行く所があり ませんでした。障がい者の仲間のお母さんが、今行っている作業所(夢飛行) を紹介してくれました。そして面接に行き、どんな子も受け入れますよ、自 立とは私達のことを受け入れてくれることなんですと話して下さいました。 私は自立とはなんでも一人でできることだと思っていましたが、この考えは 間違っていることに気がつきました。できないことをまわりの者が補ってで きたら自立なんだと思えるようになりました。合格できて通所できることの あの喜びは今でも忘れることはありません。  夢飛行では、絵画(皆でビー玉をころがして作品を作ったり)、作った作品 を交代で歯医者さんに届けに行っています。スタッフの方とペアを組んで先 生に車いすダンスを習い、一年に一度発表会もあります。また旅行にも行き、 パスポートを取って初めて飛行機に乗り韓国に行ってきました。今年は万博 にも行きフランス館に入りました。行く時娘が「暑いなあ」と言ったら、通 りすがりの方が「暑いねえ」と、また歌を歌っていると「うまいね」と声を かけてくれたようです。小さなふれあいがとても嬉しいことなんです。いろ んな取り組みをして地域へのふれあいをしていますが、その中で、ワーキン グホリデーの受け入れをしていて、いろんな国からスタッフの方が来ます。 その方々の言葉を聞き、いつの頃からか娘は、意味はわかりませんが英語の 発音で話をするのが得意になりました。以前日本語が話せない方が来て、娘 が英語で話しかけていると聞き、行く機会があったので行ってみると言葉が 通じているかのように英語でスタッフの方と話していました。とても楽しそ うでした。最近もフランスの方の声を聞いただけで英語に切り替えるバイリ ンガルな展子さんですと連絡がありました。また我が家でも娘の姉がアメリ カの方と国際結婚をしたので、毎年夏になると子どもを地域の学校に入れる ため2ヶ月ほど帰ってきます。皆が帰ってきた時、とくに義兄の声を聞くと 娘は、「アイムソーリー、ハロー、OK」とか知っている単語をならべて、英 語調で話しかけて迎え入れています。それに上手にこたえてくれるので嬉し そうにしゃべります。外国の方が日本語で話しかけても、娘の耳には違うよ うに聞こえるのか英語の発音になります。夏の2ヶ月は我が家は英語がとび かう生活をしています。娘も仲間に入って英語調でしゃべり、時にはあって いることもあり、おもわず皆笑ってしまいます。それでもお母さんは娘のよ うに英語調で話が出来ません。私には通訳が必要です。どこの国の方にも物 怖じせずにコミュニケーションをとるのが大好きな娘に、どなたも心のこもっ た対応をして下さり感謝ですね。人の出会いによって大きなつながりの輪が でき、娘の心も豊かに成長させてくれています。  最後に娘は歌が大好きなのですが、その中のひとつハッピーバースデーも 好きで、夢飛行で誕生日会があると歌いながら帰ってきます。いつも姉の家族、 おじさん、おばさん、お友達にハッピーバースデーの歌を歌ってプレゼント しています。歌のあと「おめでとう」と言います。皆さんとても喜んで、す ごいなあと言ってくれます。  これからもいっぱい歌って、おしゃべりして皆さんと喜んだり、楽しんだ りできるように頑張ります。 一般部門優秀賞 森田 香奈 受賞式とその後で  昨年、急に思い立ち経験もないのにこの体験作文に応募したところ、自治 体の方から入賞したとのお知らせを受けた。  大変光栄で嬉しかったが表彰式への参加にはかなりためらいがあった。出 席を決めるまで色んな考えが頭をよぎった。  どうしても他人には隠しがちな精神病。人前に晒すことの後先やオープン にする勇気、発症年齢が若く物事を自分で判断する経験が極端に少なくて自 分を信じる経験に欠けていたことに気が付いて思い切って出席することを自 分で決断した。  行ってみて驚いた。周囲の人たちが温かいのだ。それも想像もしなかった くらいに。何か特別な出来事があったわけではない。でも滲み出るお人柄、 安心感(神経が過敏でそういうものに影響を受けやすくなっている)。それか ら醸し出される雰囲気の中で式を終えることができた。出席者間での会話も あり見ていて羨ましかった。  人に怯え表面だけを取り繕い猜疑心の中で生きてきた私には考えられな かった事だ。その時に発想の転換が頭の中で起こった。  「心の輪」とは英文字のОではなく実はCなのではないだろうか。これまで は輪の内径を大きくするものだと思い込んでいたが(それも方法の一つだと 思う)まずは閉ざされた輪の入口を開いて伸ばして一本の棒のように線にす ることが必要だと感じた。そして同じような人達とつながって新たに作り直 す。  そこには差別も偏見もなく、新たな大きな内径のОがあり自分にも役割が ある。  助ける、助けられるの二択ではなくて支えあい、良い意味での利用し合え る関係。それがあれば共生も無理なく持続できる気がした。  当然それには相互に協力が不可欠で、助力を得るためには、まず自分の弱 みや強みの棚卸が必要でそれが今の自分にできる事だと痛感した。  自身の経験として、本当にどん底を意識することで這い上がる気力に縋り 付くしかない。体に感じる重い重力というか水の中にいるような抵抗力とそ れらにまとわりつかれながら抗い続ける日々は今後も続いていくがこの体験 は強みにならないだろうか。  出席に際し根深い偏見は誰よりも他でもない自分が作ったものだと自覚し たときに大きな障壁は乗り越えた感じもあり風穴を開けるきっかけでもあっ たと思う。穿った一点をあとは押し広げるだけだ。  その一点はとても重くて長い歳月だった。焦りや苛立ちなどで病気の受容 はなかなか簡単ではなかった。  式にいた他の人達からはどんな私が見えていたのかはわからないが知らな いということが偏見の原因につながることはあると思う。  私が思ってきたほど「世間の(普通の?)人達」は怖くなかった。お互い に恐れるのではなく、まずは信じることから始められないものだろうか。ま ずは慣れることから。  自身が病気であると気が付けない統合失調症はそれが悪さをするのが晩年 には落ち着くこともあると言われている。私はもうその年齢に差し掛かり始 め、またそうではなくてもたとえ若年でエネルギーがありあまっていたとし ても、何がしかの気付きが問題行動の抑止力とはならないものか。  思うように動けないもどかしさだけにとどまらず迷惑で恐ろしい存在だと 無条件に疑われるのはつらいものがある。  自分や他者への信頼を損ねずにすむ方法はないか。これからは果たしてそ の一助となれないものだろうか。  疲労感を酷くしたようなだるさと頭の働きを抑制する見えない力。それで ももがき続けるしかない現実。  病気でできなくなっていることも少なくはないが、無自覚のまるで皮膚の ようにへばりついている偏見が見えない枷となり、本来の自分の能力や性能 を妨げてきた部分も少なからずあると思う。  このような発信の機会をいただき、まだまだ閉ざされた世界から一歩を踏 み出したばかりだが、どのような形であったとしても表現することで見えて くるもの、景色や進む未来が輝かしく素晴らしいものであればと希望を込め て末筆としたい。願いも込めて。 一般部門優秀賞 宮川 清美 理想に向かって  私が初めて障がいを持つ人を見たのは、小学校の特殊学級に通っている数 名で、交流を持つ事は一度もありませんでした。だから障がいを持つ人の事 はまるきりわかりませんでした。  中学校に上がった時(私が通っていた中学校は三つの小学校が合併したマ ンモス中学校でした。)となりの小学校から来た右半身が不自由な子と知り合 いました。きっかけは小学校から一緒だった数名に露骨に罵倒されたり、い じめを受けているのを見たことです。そんな感じで、何故その子がいじめら れていたのかわからないまま、私から声をかけました。  私が通っていた中学校の制服はセーラー服で、彼女は、セーラー服のリボ ンもスニーカーのひもも自分では結ぶ事ができません。私と一緒にいる時は、 私が不器用ながらも結んであげていました。二年になって、すっかり仲良く なったからか、彼女の甘えがでてきました。 リボンもスニーカーも綺麗に結べないと何回もやり直しをさせるのです。私 も「大丈夫やよ、結べてるよ。」と言っても気分を害した態度をとってきます。  私も障害を持つ人の気持ちがわからなかったので、どんどん疲れ、離れて いきました。それから高校生、社会人になり私は、誰一人として障がいを持 つ人とかかわらない日々を淡々と過ごしていきました。  そして、三十歳半ば、色んな事が気になって、完璧じゃないといけない、 仕事ができないといけないという思いで首がしまる思いをするようになって きたのです。あきらかにメンタル不調。初めてメンタルクリニックのドアを たたきました。診断名は、〝強迫性障がい、うつ、複雑性PTSD〟でした。 それでも私は苦しくても会社へ行かなければいけない。四十歳まで普通に働 き続けました。そしてアメリカ滞在の機会に恵まれ、アメリカにいた三ヵ月 間は、本当に色々な症状が起こらず開放され充実した日々を過ごしました。  しかし、日本に戻ると、また苦しい毎日に逆戻り。ドクターから精神障が い者手帳を交付してもらうようにアドバイスを受けました。  私自身、障がい者に偏見はありませんので他の人もそんなものだろうと思 い込んでいました。ところがふとした時に私の障がいが人に知られるように なると、一人また一人と友達が去っていきました。その時、言葉にならない 悲しみと怒りが沸いてきました。そして「そうなんだ健常者は障がい者を受 け入れないんだ。」としみじみ思いました。  しばらくして日本人のいない英会話学校に通い、何故かわかりませんが、 何の知識もないままキリスト教に興味を持ち始めました。  少人数レッスンや個人レッスンの時に講師にクリスチャンかどうかたずね、 クリスチャンだという講師にキリスト教の教えを聞いていきました。そして その中の一人が堺の教会に通っている事を知り、私も連れて行ってもらいま した。プロテスタントのその教会はとてもシンプルで、賛美歌を歌ったり。 聖書の解説を牧師様がしてくれました。それだけなのにとても居心地がよく、 私は毎週通うようになりました。数年がたち、教会は大きくなり、中百舌鳥 に新築の教会が建ちました。私が住む場所から車で四十分かかるので、教会 の近くに引っ越すことにしました。そこでは毎日近くに居場所があり、いつ も皆が受け入れてくれました。健常者の方も普通に接してくれ、次第に気持 ちが軽くなり、楽しく通っています。  また以前に住んでいた市とかなり違い、福祉施設が充実していて、まずは デイケアに通うことにしました。そこでは看護師さんや、作業療法士さん、 精神保健福祉士さん、臨床心理士さん達がそろっていて充実したケアを受け る事ができました。また地域包括支援で、趣味を楽しむこともできました。 そして、作業所という場所がある事を知り、家の近くの作業所に通う事に決 めました。わずかですが工賃をいただき、できる範囲でいろんな仕事をさせ て頂ききました。  また、作業所で「ピアカウンセリング(障がい者による障がい者へのカウ ンセリングやサポート)」の講習会がある事を知り、自分の為にも、他に困っ ている人の為にも知識を得たいと思い、作業所に通いながら講習をうけまし た。講師は実際にピアカウンセリングを続けている方々で生の声を聞け、色々 と気づきができました。  さらに、ヘルパーさんや訪問看護師さんに来ていただくようになり、かな り生活が助けられています。  健常者の友達はまだできてはいないですが、作業所、ヘルパーさん、訪問 看護師さんと交わっていくうちに、私の中の健常者に対して持っていた「きっ と理解してくれないだろう」という思いや、卑屈な思いが小さくなっていき ました。しかし、まだ福祉事業所の方々や教会の方々になっているだけで、 これからは機会があればできるだけ積極的に交流を持ちたいと思います。  私の望みは障がい者と健常者の垣根を越えて、お互いがそれぞれの特性を 認め一人の人として接し合う事ができる社会になることです。 障がい者週間のポスター 目次 最優秀賞小学生部門 (大阪府)「誰かを喜ばせたらさき始める花」 松原市立天美北小学校 五年 大賀 珀空(おおが はく) 優秀賞小学生部門 (大阪府)「みんなの気持ちいいきもち」 松原市立天美北小学校 五年 日笠 栄都(ひがさ えいと) (大阪府)「一緒に歩こう」 茨木市立穂積小学校 四年 道下 咲(みちした さき) (堺市)「てつだってください」 賢明学院小学校 六年 森 葵生(もり あおい) (堺市)「いっしょにいこう!どこまでも!」 北八下小学校 一年 眞鍋 夢結(まなべ ゆい) 優秀賞中学生部門 (堺市)「みんなの社会」 羽衣学園中学校 二年 中﨑 由唯(なかざき ゆい) (堺市)「ノーマライゼーション」 羽衣学園中学校 二年 木村 羽来(きむら わこ)