瓜破北遺跡の東部は、河内台地北端部にあたる瓜破台地上に広がっています。西方を大阪城のある上町(うえまち)台地に、東方を生駒山地(さんち)にはさまれた地形です。北方の河内平野は、弥生時代中頃から古墳時代頃には、広大な河内湖が形成されていました。今回の調査区は、瓜破台地の段丘面(だんきゅうめん)とその東側に開かれた西谷部にあたります。
調査区(対象面積1135平方メートル)を、A・B・Cの3区に分けて、順次、発掘調査を進めており、現段階はA区の埋め戻し、B区の掘削をほぼ終了しています。
調査成果
A区では、瓜破台地上面(地山面)にて環状に巡る2条の溝(溝1、2)を検出しました。溝からは弥生時代末から古墳時代初め(3世紀頃)の土器が出土しています。当時の人々が給排水などの目的のため、台地の縁辺部に溝を設けたと考えられます。
台地の段丘面(だんきゅうめん)が北および東方に傾斜する地点では、古墳時代後期(6世紀頃)の湿地や沼地の堆積層(4層)から、準構造船の部材をはじめとする木製品が大量に出土しました。準構造船とは、丸太の内側を刳り抜いた丸木舟(刳り船(くりぶね))を船底部とし、側面に舷側板とよぶ板材をのせて大型化したもので、弥生時代から出現しています。これら準構造船の導入によって、人・物資の積載量が増大するとともに、波よけの機能が高まり、安定した操縦が可能となりました。
出土した準構造船の部材は、船底部分が切り落とされていました。これは、不要になった船の底部を井戸枠などに転用するために加工し、残りの部分を捨てたものとみられます。その他、隔壁(仕切り板)や舷側板と推定される部材も見つかっています。
おわりに
今からおよそ1500から1600年前、瓜破台地上で生活を営む人々は、漁労、または湖・河川での水運の手段として船を活用していたのみならず、高度に改良された準構造船をあやつり、河内湖から大阪湾、さらに瀬戸内海から大陸へと外洋航海に出ていたものとみられます。
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教育庁 文化財保護課 調査事業グループ
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