槻の木(つきのき)高等学校(高槻城跡)

更新日:2017年3月31日

高槻城の歴史

 高槻城は、高槻市城内町(じょうないちょう)他にあります。標高約7メートルの沖積地に立地します。
 本丸・二の丸・三の丸・外堀からなる平城(ひらじろ)で、城の範囲は、東西約600メートル、南北約640メートルです。三層の天守閣が、そびえていました。
 城の起源については、正暦(しょうりゃく)の頃(990年頃)、近藤忠範(こうどうただのり)が築いたと伝えますが、位置や規模は不明です。室町時代には、入江氏の居城でした。

元亀4 年 (1573)  入江氏が滅び、和田惟長(わだこれなが)が城主の時、和田氏の家臣であった高山氏(たかやまし)との争いで、高槻城は焼失しまし 

            た。
            その後、キリシタン城主高山右近(たかやまうこん)によって、城内の復旧・整備工事が行われ、教会堂も建設されました。

天正13年 (1585)  高山右近(たかやまうこん)は、豊臣秀吉によって明石に移封されました。

元和元年(1615)  内藤信正が城主となると、徳川幕府直轄の二万石の米蔵が本丸南方に造営されました。

元和3年 (1617)  土岐定義が城主となると、幕府直轄の城改築が行われました。

寛永12年(1635)  岡部宣勝(おかべのぶかつ)が城主となると、出丸(でまる)が増築されました。

慶安2年 (1649)  永井直清(ながいなおきよ)が城主となると、外曲輪(そとくるわ)が増設され高槻藩3万6千石の城下町が完成しました。
            以後、高槻城は、永井氏13代の居城となりましたが、明治4年(1871)、廃藩置県により廃城となりました。

明治7年 (1874)  京都から大阪間の鉄道建設用に高槻城石垣が、工部省によって取り崩されました。

明治42年(1909)  高槻城跡地に陸軍第四師団工兵第四大隊(だいよんだいたい)の兵営が設置されました。

昭和22年(1947)  工兵第四連隊の跡地に高槻市立中学校・教育研究所・母子寮が設置されました。

昭和26年 (1951) 旧本丸跡に府立島上(しまがみ)高等学校が設置されました。

平成15年(2003)  島上(しまがみ高等学校は府立高槻南高等学校と統合され、府立槻の木(つきのき)高等学校が設置されました。

【図】たかつきじょうあとのいちずとはっくつちょうさちてん

高槻城跡位置図と発掘調査地点

【図】めいじじゅうはちねんのちずにえがかれたたかつきじょう。ほりやくるわのこんせきがよくのこっています。

明治18年(1885)の高槻城 堀や廓の痕跡がよく残っています。

 高槻城跡の上に建てられた高校

 昭和56(1981)年に、島上高等学校から発行された30周年記念誌には、昭和40年代の高校の様子が載っています。

 「雨が降ると、グラウンドに水たまりができた。豪雨になると、水が帯状にたまった。木造2階建のB校舎で、床にボールを置いたら、必ずごろごろところがった。教卓の上に置いた鉛筆は、必ずコロコロと下まで落ちた。底割れしたプールは、漏水が激しかった。傾いたプールは、南側が浅く、北側からは、水がジャブジャブあふれていた。松丸太(まるた)基礎の体育館は、床が波をうち、壁に亀裂が入り、雨漏りがした。」

 これらの現象は、当時の教職員や生徒の誰もが気付いていたように、明らかに高校が高槻城の上に建てられたことによるものです。堀がグラウンドを泥んこにし、プール・体育館・校舎を傾けていたのです。

 現在は改修工事も済んで、校舎が傾いたり、グランドに水がたまったりすることはありません。

 学校を掘る

 昭和50年(1975)5月、島上(しまがみ)高等学校正門前で行われた下水道工事で、一辺1メートル以上もある花崗岩が7個発見されました。
 この地点は、絵図から、本丸の正門にあたる桝形門に比定されることから、桝形門に付随した石垣の一部と推定されました。この発見により、高槻城の遺構が地下ふかくに残っていることが判明しました。

 同年12月、島上(しまがみ)高等学校体育館の改築工事現場で、地表下3メートルのところから花崗岩の石列が発見されました。工事はストップされ、翌年3月まで、急遽、発掘調査が行われました。

 発掘調査の結果は、驚くべきものでした。検出された遺構は、元和年間(1615年頃)の高槻城本丸石垣だったからです。
 
絵図には、本丸南西部に天守閣が描かれ、その下にL字形の石垣が描かれていますが、その石垣が見つかった訳です。この発見により、高槻城の本丸の所在地が確定できました。

【写真】昭和50年の発掘調査のときのこうくうしゃしん 高槻市教育委員会提供)

調査時の航空写真    (写真:高槻市教育委員会提供)

【写真】昭和50年の発掘調査で見つかった石垣 高槻市教育委員会提供

石垣検出状況      (写真:高槻市教育委員会提供)

【写真】昭和50年の発掘調査では石垣の下からはしごどうぎが発見されました 高槻市教育委員会提供

検出した石垣の下から梯子胴木(はしごどうぎ)が発見されました。(写真:高槻市教育委員会提供)

  また、石垣基底部の構造が明らかになったことも重要な成果です。ふつう、お城の石垣と言えば、大阪城でも岸和田城でも、堀に水が溜まっていたり、土に埋まってっていたりで、基底部を見ることはできません。それが、今回、明らかになりました。

 検出された石垣は、二重積みになっており、内側の石積みは、横目地が通った打込み接ぎ(うちこみはぎ)になっていました。外側の石積みは、石垣の基礎を固めるために落し込まれた根固め石(ねがためいし)でした。石垣裏込めのぐり石は、厚さが4メートルにも及ぶものでした。

 これらの石積みの下には、松やくぬぎで作った幅6メートルの大きな梯子胴木(はしごどうぎ)が組まれていました。胴木の上に根石(ねいし)を並べ、根石の上に勾配を付けて石垣を積んでいることが分かりました。
 高槻城のような軟弱地盤な所に、重量のある石垣を設置して崩れないように、周到な基礎工事が地表下5メートルのところに行われていたのです。

 調査によって出土した遺物には、瓦・天目茶碗・キセル・鋤・かけや・下駄などがあり、石垣中からは、石臼・五輪塔・石仏などが出土しました。

 なお、この調査によって検出された石垣については、マサ土で覆い、地下に保存されました。根石(ねいし)は、槻の木(つきのき)高等学校の一角に復元されています。

 平成15年(2003)、槻の木(つきのき)高等学校の北東の音楽室建設に伴う発掘調査で、江戸時代の本丸を囲む内堀が検出されました。
 深さ5メートルの堀の中からは、元和3年(1617)から元和4年(1618)にかけての瓦が出土し、その中の軒平瓦1点は、金箔を押した瓦でした。
 また、明治7年(1874)の高槻城破却工事に伴うヘドロ層中からは、高槻藩御庭焼(おにわやき)の窯壁(ようへき)・窯道具(かまどうぐ)・未製品などの遺物が大量に出土しました。
 高槻藩御庭焼(おにわやき)とは、京都の陶工永楽保全(えいらくほぜん)が嘉永5年(1852)、藩主永井直輝(ながいなおてる)に迎えられて高槻で焼いたものが保全(ほぜん)の高槻焼きとして有名だったのですが、何分、これまで窯場が未発見でした。
 今回の発見により、どうやら本丸北東角部に窯場があったと推定できそうです。

堀のなかから出土した高槻阪おにわやきのようへき、かまどうぐ、未成品

堀の中から出土した高槻藩御庭焼(おにわやき)の窯壁(ようへき)・窯道具(かまどうぐ)・未製品

石垣の行方

 明治7年(1874)、廃城となった高槻城に着目したのが、鉄道寮です。鉄道寮は、京都から大阪間の軌道敷設のため、多量の石材を必要としていました。
 そこで、鉄道頭(てつどうかみ)であった井上勝(いのうえまさる)は、工部卿(こうぶきょう)伊藤博文(いとうひろふみ)に、高槻城石垣を石材に転用したいので、その許可を内務省から得て頂きたい旨の上申書を提出しました。
 この上申書は諒承され、鉄道寮は多量の固い花崗岩石材を入手することができました。
 現在、その石垣石材は、お城から1キロメートルから2キロメートル離れた東海道本線の芥川鉄橋の橋脚やガードの基礎部に小さく割られて使用されているのを見ることができます。
 なお、その花崗岩は、その質によって、小豆島・六甲・能勢・加茂などの産地から運ばれてきたものと判明しています。また、刻印の刻まれた石も多数認められます。

【写真】芥川にかかるJRの橋脚に高槻城の石垣の石が使われています

芥川にかかるJR鉄橋の橋脚に高槻城の石垣の石が転用されています。

【写真】JRのガード下にも高槻城の石垣の石が使われています

JRのガードに高槻城の石垣の石が転用されています。

発掘調査で発見された石垣に刻まれた刻印

検出した石垣に見られる刻印 (写真:高槻市教育委員会提供)

 ( 語句の説明)

 ぐり石: 直径10センチメートルから15センチメートルぐらいの丸石。石垣の安定を高めるために石垣の背後に入れます。

 胴木(どうぎ): 太い丸太などで石垣の沈下を防ぐために、石垣の下に基礎として横たえます。

 御庭焼(おにわやき): 江戸時代、諸藩の城内、邸内に窯を築き茶器などの優品を焼きました。

 窯壁(ようへき): 陶磁器などを焼く窯の壁。堅く焼け爛れています。

 窯道具(かまどうぐ): 陶磁器を焼く窯の中で使われる小道具のこと。「さや(匣鉢)」や「とちん(土鎮)」などがあります。

 永楽保全(えいらくほぜん): 江戸時代の後期(19世紀前半)に活躍した京都の名工です。

 刻印(こくいん): 高槻城の石垣には刻印が刻まれた石が多数あります。ただし、現在のところこれらの刻印が何をあらわしているのかわかっていません。

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このページの作成所属
教育庁 文化財保護課 保存管理グループ

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