堺環濠都市遺跡(さかいかんごうとしいせき)

更新日:2018年8月30日

所在地: 堺市堺区市之町西1丁

種類: 集落跡

時代: 弥生・古墳・奈良・平安・中世・近世

調査期間: 平成30年7月から8月まで

主な遺構: 建物、井戸、溝、路地(ろじ)、埋甕、落込みなど

主な遺物: 土師器(はじき)、瓦質土器(がしつどき)、肥前陶器(ひぜんとうき)、瀬戸美濃焼、備前焼、中国産磁器、金属器(銭貨など)、石器(砥石など)、動物遺体(骨・貝など)

■堺環濠都市遺跡の概要

 堺環濠都市遺跡は南北3.0キロメートル、東西1.2キロメートルの範囲に拡がる遺跡で、西側は海に面し、その名が示す通り濠によって周囲を囲まれていました。

 14世紀後半から発展し、15世紀後半には日本有数の貿易都市に成長します。また、千利休など優れた茶人を輩出する文化都市でもありました。

 こうした都市としての発展は各時代の権力者の目に留まり、とりわけ織田信長や豊臣秀吉は積極的に堺と関わろうとしました。ただ、権力者との関わりは戦乱に巻き込まれることを意味しており、豊臣家が滅んだ慶長20(1615)年の大坂夏ノ陣に伴って、堺は全焼しています。その後、江戸幕府の直轄地となった堺では町域を拡大するため新たな濠を掘って街区を整備し、現在につながる新たな町づくりが行われました。

■今回の調査成果

 今回は、堺警察署の非常用電源設備工事に先立ち、平成30年7月から8月にかけて約16平方メートルを発掘調査しました。調査地の場所は南北のメインストリートである大道(だいどう)(紀州街道)と東西のメインストリートである大小路(おおしょうじ)が交わる地点で、遺跡の中心部に当たります。

 現地表下約1.6メートルから約4.0メートルまで掘り下げ、その間、10面の生活面を調査しました(写真1)。生活面の時期は14世紀の終わり頃から1615年の大火による被災面に及び、火災による焼亡と盛土を行った復興が繰り返し行われたことがわかりました。

各生活面で検出した遺構としては、建物(写真2)、井戸(写真3)、溝、路地(ろじ)、埋甕(写真4)、落込みなどがあります。

 また遺物としては、肥前(ひぜん)陶器や瀬戸美濃焼、備前(びぜん)焼などの国産陶器類や土師器(はじき)、瓦質(がしつ)土器といった普段使いの器のほか、中国や朝鮮半島からもたらされた高級な陶磁器類も多く出土しています。そのほか、建物の壁土(写真5)や釘といった建築部材のほか、銭貨(せんか)や当時の食生活を示す貝や骨などが出土しています。

 これまでの発掘調査で明らかにされているところですが、こうした輸入陶磁器類の多さや、たび重なる火災をものともせずに復興を繰り返す営みは、国際都市・堺の繁栄を表す物質的な証拠といえます。今回の調査により、堺環濠都市遺跡における生活文化の一端を知ることができました。

調査地位置図写真1 壁面写真2 遺構面

■図 慶長20年以前の堺の町と調査地(『茶道具拝見−出土品から見た堺の茶の湯−』堺博物館発行、2006年 所収図に加筆)

■写真1 調査地の壁面
(赤い層は各時代の火災で生じた焼土)

■写真2 10面の遺構
(石は柱を建てるための礎石)

写真3 井戸写真4 埋甕写真5 木舞

■写真3 井戸(井戸の壁を瓦で組み上げています。1615年の大火で廃絶したとみられます。)

■写真4 埋甕(瓦質土器の甕の中に、
瓦質土器の鉢や土師器皿が納められていました。)

■写真5 1615年の大火で焼けた壁土
(木舞(こまい)と呼ばれる壁の芯材が焼けて炭になっています。)

このページの作成所属
教育庁 文化財保護課 調査事業グループ

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