岸和田高等学校(岸和田城跡)

更新日:2021年3月30日

岸和田城の歴史

 岸和田城は、岸和田市岸城町(きしきちょう)にあります。標高約8メートルの洪積段丘上(こうせきだんきゅうじょう)に立地し、すぐ西には海が迫っています。本丸・二の丸・三の丸・総曲輪(そうくるわ)からなる平城で、城の範囲は、東西約840メートル南北約940メートルです。城の北西には、紀州街道があり、南・東には古城川(こじょうがわ)が流れています。

 城の起源については、建武の頃(1314年頃)、楠木正成に属した和田高家が築城したと伝えますが、位置や規模は不明です。以来、細川氏・三好氏・松浦氏など城主は変りますが、その頃の城域は、後の二の丸の範囲までで、櫓や石垣もない簡素な掻き上げ城でした。

 天正13年(1585)、豊臣秀吉の叔父小出秀政(こいでひでまさ)が城主となると、秀政(ひでまさ)は城普請に努め、3年かけて五層の天守閣などを造りました。

 元和5年(1619)、松平泰重(まつだいらやすしげ)が城主となると防潮堤を築きました。これによって、以前は二の丸の石垣付近まで海水が及んでいたのが、町家が並ぶようになりました。また、元和9年(1623)には、伏見城から三層の伏見櫓を移築しました。

 寛永17年(1640)、岡部宣勝(おかべのぶかつ)が城主となると、城の整備がさらに進められ、外郭も築かれ、岸和田藩5万3千石の城下町が完成しました。以後、岸和田城は、岡部氏13代の居城となりましたが、明治4年(1871)、廃藩置県により廃城となって櫓や門などは撤去されました。なお、天守閣は、それより44年前の文政10年(1827)、落雷によって、焼失していました。

 昭和29年(1954)、天守閣は岸和田市民の要望と寄附により、127年ぶりに再建されました。

 昭和44年(1969)、城壁・城門・隅櫓などが再建されました。

 平成4年(1992)、市制70周年記念事業として、天守閣の屋根葺き替え・外壁塗り替えなどの大改修工事が行われました。

 【図】岸和田城跡位置図 

 岸和田城跡位置図             

明治18年の地図にえがかれたきしわだじょう おしろがうみぞいのだんきゅうじょうにきずかれていることがわかります

 明治18年の岸和田城

 お城が海沿いの段丘上に築かれていることがわかります

 蛸が救った岸和田城

 岸和田市南町にある天性寺(てんしょうじ)(蛸地蔵)には、不思議な伝説が残っています。

 「建武年間、岸和田を大津波が襲った。しかし、人家に被害がなかった。不思議に思った人々が海岸に出ると、大ダコの背に乗った地蔵菩薩があった。これを岸和田の守り本尊として、城内に祀ったが、戦乱の世のため、濠に隠した。その後、天正年間、紀州の根来・雑賀の軍勢が岸和田に攻め込んできたが、白法師(しらほうし)と無数の大ダコ・小ダコが現れ、敵軍を殺さずに退却させた。城主の夢に、白法師(しらほうし)は地蔵菩薩の化身と告げられ、濠の中の地蔵菩薩を探し出し、城の中に安置した。その後、文禄年間、天性寺(てんしょうじ)の泰山和尚(たいざんおしょう)の願いによって、当寺にそれを移した。」というのです。

 なるほど、それで、天性寺(てんしょうじ)に地蔵菩薩、通称蛸地蔵がご本尊として、国内最大級の地蔵堂にお祀りされていることが分かりました。天性寺(てんしょうじ)は、現在、市街地の中にあって、その立地がよく分からなくなってしまいましたが、明治18年の地図によると、天性寺(てんしょうじ)が江戸時代には、波打際にあったことがよく分かります。

【写真】てんしょうじ(たこじぞう)のさんどういりぐちにあるたこじぞうとかかれたひょうせき えどじだいのがか、しょかであるいけのたいがかきました。ほうれきにねん(1752年)のめいがあります  

 参道入口左側にある標石

宝暦(ほうれき)2年(1752) 池大雅 筆 

【写真】てんしょうじのほんぞん せきぞうじぞうぼさつりゅうぞう 市指定文化財でしょうへいじゅうななねんのめいがあります。きしわだしさいこのせきぶつです。

市指定文化財 石造地蔵菩薩立像 (正平17年(1362)の在銘)

 岸和田市最古の石仏

 【写真】てんしょうじ つうしょうたこじぞうのしゃしん

天性寺(てんしょうじ) 通称蛸地蔵 岸和田城の西方にあります

                      

学校を掘る

 現在の岸和田高等学校の前身である旧制岸和田中学校の校舎は、明治30年(1897)の創立時には、岸和田城の二の曲輪(くるわ)の位置(現グラウンド)にありました。それが、昭和9年(1934)、室戸台風の被害を受けたため、昭和13年(1938)、現在の位置に移転しました。オール鉄筋コンクリートの校舎は、白色の建物だったため、当時、「白亜の殿堂」と形容されました。その校舎の解体および改築に伴い、平成8年(1996)と平成13年(2001)に発掘調査が実施されることとなりました。

 平成8年の調査では、江戸時代の石垣・土塀・堀・櫓跡などが検出されました。調査地が江戸時代の岸和田城絵図によると、筆頭家老(ひっとうかろう)中家屋敷地(なかけやしきち)の門付近に当たるため、検出した石垣・土塀は、家老屋敷の門およびそれに接続する築地塀の跡と想定されました。堀は、幅20メートル、深さ5メートルの大きなもので、南北方向に長さ26メートルにわたって検出されました。堀の中からは、大量の瓦と共に唐津焼や伊万里焼・丹波焼などの陶磁器・漆器椀・石硯・一石五輪塔・石臼・砥石・箸・下駄・寛永通寶・銀メッキのキセル・玩具などの遺物が出土しました。堀の中に瓦礫を投棄した様子です。また、堀に接して検出された櫓跡は、石垣はすべて撤去されていましたが、石垣裏込め用のぐり石と石垣下敷用の胴木が残っていました。堀と櫓跡は、絵図に載っている岸和田城の二の丸を囲む外堀および櫓跡と想定されました。

 平成13年の調査地は、平成8年の調査地の北側50メートルの所にありますが、江戸時代の炭や鉄滓(てっさい)・フイゴの羽口(はぐち)などが土坑中(どこうちゅう)から出土しました。城の中枢部になぜ、このような鉄生産の遺構があるのか、よく分かっていません。

【写真】はっくつちょうさでみつかったほりのあと(はば20めーとる、ふかさ5めーとるあります)にのまるをかこむそとぼりのあとです 

堀跡。幅20メートル、深さ5メートル。  二の丸を囲む外堀です。 

【写真】はっくつちょうさでみつかったやぐらあと いしがきはのこっていませんでしたがきそとなるどうぎやうらごめのぐりいしがのこっていました。

 櫓跡。石垣の基礎となる胴木(どうぎ)が残っていたので、石垣の存在がわかります。

 ぐり石は、石垣の裏込め用です。

岸和田城の悩み

 慶長2年(1597)年、小出秀政(こうでひでまさ)が天守閣を完成させてから、平成26年(2014)の現在に至るまでの417年間、城の管理者達を悩ませ続けている問題があります。何か、お分かりですか?

 答えは、崩れ続ける石垣です。その原因は、石垣に使われた和泉砂岩の脆さにあります。泉南の山でふんだんに採れる和泉砂岩は、岸和田までの運搬のコストと時間が省ける最良の石材でした。しかし、この石は風化に弱く、胴割れをおこすため、常に石垣が崩れ続けているのです。このことは、天守閣の築造者達も充分に分かっていたらしく、城の防衛にとっては不利な犬走り(いぬばしり)石垣という周堤帯(しゅうていたい)を石垣下部に設けています。少しでも崩れないように工夫した結果なのでしょう。

 なお、岸和田城の石垣は、自然石を使い、隙間の多い野面積みですが、積み石の面を加工し、隙間の少ない打込み接ぎ(うちこみはぎ)や切込み接ぎ(きりこみはぎ)といった新しい技法も使われています。野面積みの石材がやわらかい和泉砂岩製であるのに対し、打込み接ぎ(うちこみはぎ)・切込み接ぎ(きりこみはぎ)の切石は、硬い花崗岩製です。石垣の補修工事を延宝3年年(1675)以降続けた結果、灰色の和泉砂岩と薄茶色の花崗岩が同じ石垣に混在することになりました。

【写真】きしわだじょうてんしゅかくのいきがきのしゃしん しゅうふくに、はだいろのかこうがんをつかっているのでいろがかわっています。またさがんをつかっているいぬばしりのいちぶがくずれています

向かって右側の石垣のピンク色に見える石は、修復に使用した薄茶色の花崗岩です。

現在も、周庭帯の石垣が一部崩れているのが見えます。

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教育庁 文化財保護課 保存管理グループ

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