和泉市に所在する府中遺跡は、東から延びる丘陵と海岸に沿う平坦地の間に位置し、遺跡の南には槇尾川(まきおがわ)が西流します。遺跡の範囲は、和泉国府跡(いずみこくふあと)や和泉寺跡(いずみでらあと)などの推定地を含んで東西1.0キロメートル、南北1.2キロメートルと広く、弥生時代から古墳時代ごろの集落跡を中心とする遺跡と考えられています。
大阪府教育庁文化財保護課は、都市計画道路大阪岸和田南海線の建設に伴って、平成17年度から府中遺跡に関わる埋蔵文化財調査を実施しています。その成果として、弥生時代(約2000年前)以降、中世(約500年前)に至る各時代の遺構・遺物がみつかっています。中でも注目されるのは、弥生時代終わりごろ(約1800年前)の大量の土器(写真1)が出土したことや、和泉国や和泉寺跡に関係すると思われる、古代氏族の人名が書かれた奈良時代(約1200年前)の文字瓦など(写真2)が多数出土したことです。
今回の調査地は、府中遺跡の東端にあたるところで実施しています。おもな遺構の時期は2つあり、古い順に、(1)弥生時代中期(約2000年前)と(2)弥生時代の終わりごろから古墳時代前期(約1800年前から1600年前)に区分できます。遺物としては、この2時期の土器などのほか、縄文時代の石鏃(せきぞく、石で作られた矢じり)や、古墳時代の須恵器(すえき)などが出土しています。
■図1 府中遺跡と周辺の遺跡
■写真1 流路から出土した大量の土器(平成20 年度調査)
(弥生時代終わりごろ/約1800 年前)
■写真2 「坂合部連前(さかいべのむらじまえ)」と記された文字瓦(平成21 年度調査)
(奈良時代/約1300 年前)
(1)弥生時代中期(約2000年前)の遺構:
竪穴建物65。平面形は直径約6.2メートルの円形で、床面積は約30平方メートルです。建物の周囲には溝を巡らせ、建物の中心には炭と灰で埋まる穴がありました。煮炊きをするための炉の跡と考えられます。また、床面には土器や磨石(すりいし)が残されていました。なお、建物の中に土坑(どこう)はありますが、柱の痕跡は明確でないため、屋根を支えた柱は抜き取られ、リサイクルされたものと考えられます。
(2)弥生時代終末期から古墳時代前期(約1800年前から1600年前)の遺構:
竪穴建物10・85、土坑6・60など。このうち四角形の竪穴建物10は、一辺が約3メートルで、床面積は約9平方メートルと小形です。建物の中心には炉があり、地面が赤く焼けていました。建物の周囲には溝が巡ります。建物から時期を示す土器などは出土していませんが、すぐ近くの土坑6・60から約1800年前の土器が出土していることから、建物も同じ時期の遺構なのでは、と考えています。
竪穴建物85は、調査区の南東隅で検出したため全体の形がわかりませんが、一辺6メートルほどの四角形になりそうです。やはり周囲には溝を巡らせています。
そのほかに、時期を特定できていませんが、掘立柱建物2棟と、土坑100、溝70などがあります。掘立柱建物には2間×1間、3間×1間の2棟がありますが、柱の間隔が不自然に空く部分があることから、本来存在した柱穴が失われてしまったのかもしれません。
土坑100は、溝70によって壊され全体の形がわかりませんが、竪穴建物である可能性があります。
溝70は東西方向に流れ、幅は約3メートル、深さは最大で80センチメートルほどです。溝が掘られた時期はよくわかりませんが、約1400年前の土器類が出土することから、この頃に埋まったことがわかります。
■ 検出した遺構の図と写真
今回の調査によって、調査地一帯では約2000年前から集落が営まれ、その後、断絶はありますが1400年前ごろまで人びとの生活の場となっていることがわかりました。地域の歴史を明らかにするうえで、地上からはわからないこうした知見を発掘調査によって得ることができたことは、貴重な成果といえるでしょう。
★印刷用はこちらから→H29府中遺跡現地公開資料 [PDFファイル/1.02MB]
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教育庁 文化財保護課 調査事業グループ
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