和泉市に所在する府中遺跡は、海岸から標高10メートル前後までの低地と標高40 から 60メートルの信太山丘陵の間に形成された段丘上(だんきゅうじょう)に立地しており、槇尾川(まきおがわ)の右岸にあたるところに位置しています。和泉国府跡や和泉寺跡(いずみでらあと)などの推定地を含む東西1キロメートル、南北1.2キロメートル に拡がる広い遺跡です。時代は弥生時代から古墳時代ころの集落跡と考えられています。
都市計画道路大阪岸和田南海線(おおさかきしわだなんかいせん)の建設に伴って、平成17 年度から府中遺跡に関わる埋蔵文化財調査を実施しています。その成果としまして、弥生時代や古墳時代の集落にかかわる遺構・遺物、奈良時代の遺構・遺物、中世の集落に関わる遺構・遺物などが出土しています。中でも注目されるのは、弥生時代後期から古墳時代前期の大量の土器が出土したことや、奈良時代の遺物で和泉国や和泉寺跡(いずみでらあと)に関係すると思われる、古代氏族の人名が書かれた文字瓦などが多数出土したことです。
今回現地公開をしますのは、これまでの調査地の更に北側に当たり、府中遺跡の東端にあたるところです。出土した遺構は、中世の建物跡や土坑(どこう)、中世から近世の耕作痕です。遺物は、縄文時代の石器、古墳時代前期の土器、中世・近世の土器などが出土しています。
■ 府中遺跡と周辺の遺跡
■ 流路から出土した大量の土器(弥生時代後期から古墳時代前期) 平成20年度調査
■ 「珎縣主廣足(ちぬのあがたぬしひろたり)作と記された文字瓦(奈良時代) 平成21年度調査
出土遺構の中で最も目立つものは、溝状、方形、円形、不定形などの土坑(どこう)です。これらは調査地の黄色い粘土層がある部分に掘られています。調査地の北や南の、礫層が厚くなり粘土層が薄いところには無いことから、この黄色粘土を採取した跡かもしれません。
土坑内(どこうない)の堆積土からは5 世紀から10 世紀頃の土器と共に、12 世紀から14 世紀頃の土器が出土することから、土坑(どこう)の大部分は中世前半(12 世紀から14 世紀頃)のものと思われます。また土坑群(どこうぐん)の南側で掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)1 棟を検出しています。建物は1間×3間で北東側に庇のある建物です。作業場か倉庫のような用途と思われます。
また調査地を斜めに縦断するように掘られた南西から北東方向の溝や、この溝に直角に接する畦畔(けんはん)や調査区の各所で残る小溝などがあります。これらは出土遺物などから中世末・近世の耕作地の区画や耕作痕と思われます。
他に調査地の南側で傾斜する地形を確認しています。小さな谷が埋もれているようです。しかし、そのおかげで調査地の大部分で開発に伴って削られたりして失われた中世前半以前の堆積層が残っていました。この堆積層は何層にもなっていて、土器などの残りも比較的良好で、古墳時代前期から中世前半までの、この付近の地形の変化が分かりました。A区は中世以降の耕作などで北側が削られ、遺構の上面は良好に残されていませんでしたが、竪穴住居跡3棟と掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)1棟が残されていました。
主な遺構
■ 調査地を真上から見た様子
最も古い遺物は、形状や風化の度合いから、縄文時代のものと考えられる石鏃(せきぞく)や石器を作るときにできるサヌカイト片(へん)が土坑(どこう)などから出土しています。他に弥生時代の土器かけら・サヌカイトのかけら、古墳時代前・中・後期の土器のかけら、奈良・平安時代の土師器や須恵器のかけらが土坑(どこう)や堆積層から出土しています。また、小さいはへんですが、土坑群(どこうぐん)や溝などの時期を判断した中・近世の土器・陶磁器のかけらも出土しました。
主な遺物
■ 縄文時代の石鏃、縄文・弥生時代のサヌカイトの破片
■ 弥生時代の土器底部
■ 古墳時代前期の壷(つぼ)
■ 中近世の 陶磁器・土器
印刷用はこちらから→府中遺跡現地公開資料 [PDFファイル/846KB]
このページの作成所属
教育庁 文化財保護課 調査事業グループ
ここまで本文です。