所在地:豊中市南桜塚(みなみさくらづか)3丁目
種類:古墳群(こふんぐん)
時代:古墳時代
調査期間:平成25年11月から平成26年8月
主な遺構:溝、谷など
主な遺物:埴輪、須恵器、土師器、木製品
1.調査成果の概要
桜塚古墳群(さくらづかこふんぐん)は、豊中台地のほぼ中央部の標高約20から25メートルの段丘に立地します。古墳時代前期から後期にかけて形成された古墳群(こふんぐん)で、西群(にしぐん)、東群(ひがしぐん)など、さらに小さな古墳のまとまりがみられます。西群(にしぐん)の小石塚古墳(こいしづかこふん)、大石塚古墳(おおいしづかこふん)、東群(ひがしぐん)の大塚古墳(おおつかこふん)、御獅子塚古墳(おししづかこふんん)、南天平塚古墳(みなみてんびんづかこふん)の5つの古墳は、現在国指定史跡として保護されています。
今回の発掘調査は、大阪府警豊中警察署の建て替え事業に伴い、平成25年度後半から平成26年度前半にかけて行われたものです。調査地点は、御獅子塚古墳(おししづかこふん)の南にあたります。調査は南北2ヶ所の敷地で行いました(図1・北地区、南地区)。
【北地区(1区・2区)】
調査前の敷地内には、マウンド上の高まりが3か所あり、古墳の一部の可能性もあるため、調査により古墳の発見が期待されましたが、結果的にこれらは、近世以降の盛り土であることが判明しました(写真1)。推測になりますが、調査地内ではため池も発見されており、これらのため池を掘ったり、水田や畑を整備する際に出た土を積み上げた可能性が考えられます。
他の地点を含め、調査地からは古墳は発見されませんでした。その一方で、北東から南西の方向に谷が発見されました(写真2)。
谷に堆積した土層の観察によると、付近で古墳が作られていた時期には埋まっておらず、谷底付近にたまった土砂の中から、埴輪の破片が出土しています(写真3)。豪雨などの出水により、付近の古墳から流されてきたものと考えられます。
この谷が埋まり切るのは、近世から近代にかけてで、古代の堆積層からは11世紀頃の灰釉陶器(かいゆうとうき)とよばれる東海地方(愛知県)の窯でつくられた椀が出土しました(写真4)。底部の外側には墨書(ぼくしょ)がみられます。
(図1) 発掘調査の位置
(写真1)マウンド1の断面(東から)
(写真2) 北地区で発見された谷(南から・奥に御獅子塚古墳が見える)
(写真3)谷から発見された家形埴輪の破片
(写真4)谷から発見された灰釉陶器椀(かいゆうとうきわん)
【南地区(3区・4区)】
南地区では、北地区の調査によって発見された谷の延長部分と、その谷へ流れ込む溝が発見されました(写真5)。谷の堆積層は北地区と同様でしたが、北地区より下流に位置していることもあり、土層はいずれも厚みを増していました。谷が埋まり切るのは近世から近代にかけての時期です。堆積土中からは埴輪の破片が出土しています。また4世紀に堆積したと考えられる最下層からは儀仗(ぎじょう)や矢柄(やがら)と考えられる有機質の遺物が発見されています(写真6)。
谷に流れ込む溝はからは5世紀頃の須恵器甕(かめ)が出土しました(写真7)。この溝は谷とは方向が異なり、北西から南東にむかって流れていました。出土した須恵器は上流部から土砂に押し流されてきたような状態で発見されていました。上流部に古墳がある可能性が考えられます。
(写真5)南地区で発見された谷(奥)と溝 (北から)
(写真6)谷から発見された木製品(祭祀用の儀仗(ぎじょう))
(写真7)溝から発見された須恵器の甕(かめ)
2.まとめ
今回の桜塚古墳群の発掘調査では古墳は発見されませんでした。しかし、予想に反して谷や、そこに流れ込む溝が発見されました。調査区は豊中台地に立地し、現在は比較的平坦な地形となっています。しかし古墳時代、大塚古墳(おおつかこふん)、御獅子塚古墳(おししづかこふん)、南天平塚古墳(みなみてんびんづかこふん)が築かれた時代には、平坦な地形ではなく、今回発見されたような谷が存在することが明らかになりました。おそらく近隣には幾筋もの谷が存在したものと考えられます。したがってこれらの古墳は、その築造場所が、谷地形によってある程度制約を受けていた可能性が指摘できます。桜塚古墳群(さくらづかこふんぐん)の造営背景を考える上での貴重な成果ということができます。
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教育庁 文化財保護課 調査事業グループ
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