令和5年度 心の輪を広げる体験作文 障がい者週間のポスター作品集 ごあいさつ 大阪府知事 吉村 洋文   今年度も、「心の輪を広げる体験作文」と「障がい者週間のポスター」に 多数のご応募をいただきありがとうございました。また、入賞された皆さま には心からお祝いを申し上げます。  大阪府では、「第5次大阪府障がい者計画」に基づき施策を推進し、計画 に掲げる基本理念である「全ての人間(ひと)が支え合い、包容され、とも に生きる自立支援社会づくり」の実現に向けて取り組んでいます。  このような社会を実現するためには、府民の皆さまに障がいや障がいのあ る方への理解を深めていただくことが重要です。本事業では、毎年、幅広い 世代の方々を対象に、障がいをテーマとした作文やポスターを募集しており、 特にこれからの時代を担う若い世代の皆さまに理解・関心を深めていただく 良いきっかけになると考えています。  今回入賞されました作文は、作者自身の体験を振り返り、支えてくれた周 囲の人との心のふれあいや感謝を綴った作品や、視覚障がいがある方との出 会いを通して、障がい理解には思いやりと社会啓発が大切であることを実感 していく経過を丁寧に表現した作品、また、障がいがある作者の普段の様子 が丁寧に綴られ、前向きな姿勢に元気をもらえる作品など、どれも心に響く ものばかりでした。  ポスターについても、障がいの有無にかかわらず、手を取り合い、共によ り良く生きようというメッセージが感じられる作品や、点字ブロック上を歩 く2人の交流が生き生きと描かれており、2人の間にある信頼関係が伝わる 作品など力作ぞろいでした。  2025年の大阪・関西万博開幕までいよいよ500日を切りました。この万 博では「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマとして、150を超える国 や国際機関が世界中から「いのち輝く未来社会」への取組みを持ち寄り、 SDGsの達成とその先の未来を描き出します。万博を通した様々な取組みによ り、障がい者を取り巻く環境がより良く変わっていくことにも大いに期待し ています。  そして、このテーマを実現するためには、障がいの有無にかかわらず、相 互に尊重し合い共生する社会の実現が不可欠です。この作品集を通じて、障 がいへの理解を一層深めていただき、理解不足から生じる差別や偏見をなく すことで、すべての人にとって暮らしやすいまちを実現することを共にめざ しましょう。  結びに、今回の募集にあたって、ご協力いただいた関係機関ならびに審査 員の皆さまに、この場をお借りして厚くお礼を申し上げます。 ごあいさつ 大阪市長  横山 英幸  「心の輪を広げる体験作文」、「障がい者週間のポスター」について、本年 も市民の皆様から多数のご応募をいただき、まことにありがとうございまし た。また、各部門において入選を果たされた皆様には、心よりお祝いを申し 上げます。  応募いただいた作文は、障がいのある方との関わりを通じて、障がいや障 がいのある方への理解が深まり、自分ができることを考え、行動しようとす る気持ちを強く感じることができました。また、困っている姿を見かけた際、 声をかけようか迷いながらも、相手の気持ちを考え、勇気を出して行動した 時の作者の気持ちが伝わってくる作品など、実体験をもとに書かれた心温ま る作品が多くありました。  障がい者週間のポスターでは、障がいの有無にかかわらず、誰もが楽しく 過ごせる街になるよう願いを込めて描かれた作品が多くありました。  どの作品も、障がいのある方とない方との関わりを通じた思いやりの心が 表現されており、将来を担う若い皆様の心に、このような気持ちが育まれて いることをとても嬉しく思います。  大阪市では、様々な障がいの特性を理解し、障がいのある方が困っている 様子を見かけたら一声かけるなど、ちょっとした手助けや配慮を行うことで、 誰もが住みやすい社会をめざす「あいサポート運動」に取り組んでおります。  作文やポスターで描かれていたような、心のふれあいや支えあいの輪が広 がるよう、より多くの市民の皆様にこの運動に関心を持っていただき、「あ いサポート」の輪を広めていきます。  また、本市では、すべての市民が住み慣れた地域で安心して暮らすことの できる社会をめざして、「大阪市障がい者支援計画・障がい福祉計画・障が い児福祉計画」を策定し、施策を推進するとともに、様々な分野において市 民の皆様への積極的な啓発に取り組んでおります。  この作品集や障がい者週間での取組などをきっかけに、より多くの方に障 がいや障がいのある方に対する理解と認識を深めていただき、障がいの有無 によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合う共生社会 の実現に向けて、着実に歩みが進んでいくことを心から期待しています。 ごあいさつ 堺市長 永藤 英機  「心の輪を広げる体験作文」「障害者週間のポスター」へのご応募ありがと うございました。それぞれの立場から「障害」というテーマと向き合い、熱 心に取り組まれたことを嬉しく思います。 入選された皆様に心よりお祝いを申し上げます。  今回入選された作文は、通所する施設で昔の学友と再会したことをきっか けに勇気を得て自立をめざすことを描いた作品、障害のあるご家族が将来も 安心して暮らせる社会の実現を願った作品、障害のある方との出会いを重ね 自分ができることに懸命に取り組んでいる作品など、体験を通じて感じたこ とや心のふれあいが生き生きと表現されています。  入選されたポスターは、歩きスマホの危険性がストレートに伝わる作品、 障害に関係するマークや点字ブロックを描くことで障害のある方への思いや りを訴える作品のどちらも障害への理解が進んでほしいという作者の想いが 伝わります。  堺市では、市政運営の大方針「堺市基本計画2025」において「障害者が生 きがいを持って心豊かに暮らせる社会の実現」を重点戦略の施策に掲げ、障 害のある方が必要なサービスや支援を活用しながら、住み慣れた地域で共生 ・協働のもと主体的に個性や特性を発揮し、生きがいを持って心豊かに暮ら せる社会の実現に取り組んでいます。  今回の応募作品には、健康福祉プラザで障害のある方を見て「障害」に関 心を持たれた方や実際に相談にこられた方の話がありました。障害者福祉の 拠点である「堺市立健康福祉プラザ」では、障害の有無にかかわらず多くの 方に利用され、スポーツや文化芸術活動などを通じて「心の輪」が広がるよ うに障害のある方とない方の相互理解の促進や社会参加に力を注いでいま す。  堺市は、すべての人が地域で安心して暮らせるように障害に対する理解と 認識を社会全体に広げ、障害のある方の生活を地域全体で支えるサービス体 制の構築を進めます。  そして、この作品集が学校や地域で広く活用され、より多くの皆様が障害 について考えるきっかけとなることを願っています。   心の輪を広げる体験作文 目次 最優秀賞小学生部門 (大阪市)「全国ろうあ者大会にさんかして」 大阪教育大学附属平野小学校 3年 冨士居 直都(ふじい なおと) (堺市)「姉のくらしやすい世の中について」 賢明学院小学校 4年 森 葵生(もり あおい) 最優秀賞中学生部門 (大阪府)「ある日 突然」 大阪狭山市立狭山中学校 3年 生野 巧(いくの たくみ) (大阪市)「音楽のちから」 大阪教育大学附属平野中学校 2年 北尾 美尋(きたお みひろ) 最優秀賞高校生部門 (大阪府)「思いやりが社会を変える」 関西創価高等学校 1年 田中 裕子(たなか ゆうこ) (大阪市)「思いやりの深さ」 関西創価高等学校 1年 高田 輝(たかだ ひかり) (堺市)「誰もが認められる社会に」 関西創価高等学校 2年 安田 幸子(やすだ さちこ) 最優秀賞一般部門 (大阪府)「人生の宝箱」 吉冨 一博(よしとみ かずひろ) (大阪市)「勇気の温もり」 大阪医療技術学園専門学校 河合 郁実(かわい いくみ) (堺市)「僕の歩んできた道」 森下 慧大(もりした けいた) 優秀賞小学生部門 (大阪市)「力強いうで」 城星学園小学校 4年 矢部 碧子(やべ あこ) (大阪市)「理かいし合うと楽しい未来」 大阪市立桃陽小学校 5年 岡内 小万里(おかうち こまり) (堺市)「おばあちゃんのこと」 堺市立八田荘小学校 6年 石田 未來(いしだ みらい) (堺市)「個性を分かり合える世界へ」 堺市立八田荘小学校 6年 山本 くるみ(やまもと くるみ) 優秀賞中学生部門 (大阪府)「障害のある同級生から学んだこと」 関西創価中学校 1年 奥田 優莉(おくだ ゆり) (大阪府)「心の繋がり」 関西創価中学校 2年 黒崎 藍(くろさき あい) (大阪市)「出会いとふれあい」 大阪教育大学附属平野中学校 1年 木村 碧(きむら みどり) (大阪市)「助け合える存在」 大阪教育大学附属平野中学校 1年 平野 颯大(ひらの はやと) 優秀賞高校生部門 (大阪府)「私を変えた二日間」 関西創価高等学校 2年 奥村 百合(おくむら ゆり) (大阪府)「対話を諦めない」 関西創価高等学校 2年 茂山 聖菜(しげやま せな) (大阪市)「差別やいじめのない世界を作っていくために」 関西創価高等学校 2年 松峯 奈穂(まつみね なお) (大阪市)「違うことは当たり前」 関西創価高等学校 1年 永田 弘美(ながた ひろみ) (堺市)「共生社会」 関西創価高等学校 1年 田村 優衣(たむら ゆい) (堺市)「話すということ」 関西創価高等学校 2年 松原 千尋(まつばら ちひろ) 優秀賞一般部門 (大阪府)「我が家とアンプティサッカー」 池田 慶子(いけだ けいこ) (大阪市)「心の内を知ることの重要性」 大阪医療技術学園専門学校 植山 愛翔(うえやま まなと) (大阪市)「考えること」 大阪医療技術学園専門学校 吉本 羽流(よしもと はる) (堺市)「成人を迎えて」 菊田 智子(きくた ともこ) (堺市)「弱者と呼ばれてきたけれど・・・」 杉谷 昂律(すぎたに たかのり) 全国ろうあ者大会にさんかして 大阪教育大学附属平野小学校 3年 冨士居 直都  ぼくは、六月十日と十一日の二日間、お母さんと大分けんで開かれた全国 ろうあ者大会に行きました。大分空こうに着いたら、ろう者に「大阪から来 たのね。」と、かんげいしてもらいました。会場近くの駅は、ろう者がいっ ぱいで手話の町に来たみたいでした。ぼくは、かんたんな手話はできるけど、 上手ではありません。でも、ろう者とよく会うので、手話が上手にできなく ても心と心がつうじることを知っています。  ぼくは、この日、「ちびっこの会」にさんかして紙コップやじしゃくをつかっ たスピーカーを作りました。スタッフの人は、ちょう者とろう者で、作り方 しどうは、しょうがい者がたくさんはたらいている会社から三人、来てくれ ました。一人目は、足がぼくと同じくらいの長さで車いすをつかっている人、 二人目は、耳がほとんど聞こえない人、三人目は、生まれつきうでがひじく らいの長さの人です。ぼくは、うでがひじくらいの長さの人をすごくかわい そうだと思いました。でも、じこしょうかいの時に「かわいそうに見えるけ ど、かわいそうではないよ。ふべんなこともあるけど、笑顔で元気ですよ。」 と教えてくれました。色々なことができて、とても器用な人だと思いました。  夜は、ろう者と一緒におんせんに入りました。おゆにつかりながら手話で 話すと、顔におゆがピチャピチャとかかりました。ぼくは、面白くて、おん せんでする手話が大好きになりました。  次の日、黄色のふくをきたちょうどう犬とはじめて会いました。東京から 来たろうのおばあちゃんのちょうどう犬でした。ほご犬からちょうどう犬に なってかつやくしている話を教えてもらいました。ちょうどう犬の顔はあま えんぼうみたいに見えたけど、すごくかしこくて、音を知らせる仕ごとがで きてかんどうしました。  もう一つはじめてのことがありました。それは、盲ろうの人と話したこと です。手をにぎって手話で「こんにちは」とするとつうじました。「はくしゅ」 の手話をしたら、すごくよろこんでくれました。ぼくは、手話でたくさんお しゃべりができないけど、心を大切にしたらつうじるので、うれしいなぁと 思いました。  大分けんからもどって、全国ろうあ者大会でとったしゃしんをたんにんの 島本先生にタブレットで送りました。先生は、へんじをくれました。「直都 さん、大分に行った時のしゃしんをありがとう。色々と学んでいることがう かがえました。すばらしいですね。よかったらしゃしんをもとに、みんなに お話ししてみたらどうですか。」と書いてありました。ぼくは、いっぱい話 したいことがあったので、はっぴょうしました。友だちは、しつもんをした り、かんそうを言ってくれました。友だちが、いろいろなしょうがいを知っ たら、みんながたすけ合える世界になれると思うので、先生がはっぴょうを させてくれてうれしかったです。  ふべんな思いをしている人をたすけ合う世界になったらしあわせになれる と思うので、みんながしょうがいをたくさん知って、しょうがいのある人を 守れるほうほうを考えたら、もっとくらしやすくなると思います。全国ろう あ者大会に行ってよかったです。らい年は和歌山けんで開かれるのでたのし みにしています。 姉のくらしやすい世の中について 賢明学院小学校 4年 森 葵生  私の家は、いつもにぎやかです。二つ年上の姉がとても元気だからです。 私の姉は特別支援学校で勉強する六年生です。言葉はまだ話せないけれど、 いつも何か独り言を言っていて、とてもにぎやかです。  私が、姉のことを少し分かり始めたのは、ごく最近のことです。 小さい頃、私は姉の行動が不思議で理解できませんでした。夜中の三時頃ま で寝ずにさわいでいたり、突然いなくなってしまったり、あぶない所に登っ ていたりすることが日常だったからです。  けれど、私の姉は家族の人気者です。私も姉が大好きです。周りの人から 見れば、私たち家族のことを「大変そう」とか「かわいそう」と思うかもし れません。  私も姉がいなかったら、障害のある人との関わり方を知ることはなかった だろうし、考えるきっかけもないままだったと思います。   私の姉は、言葉は話せないけれど、絵カードや写真で自分の行きたい場所 や欲しいものを伝えてくれます。私も、姉に何か伝える時は、絵カードを伝っ て目を見ながらゆっくり伝えるようにしています。これは、初めから出来た わけでなく、お母さんが勉強会に行き、絵カードを使いこなせるようになる まで訓練したからだそうです。姉のように、言葉を使うことが出来ない人で も、自分の意思を伝える手段があるということはすごいことだし、この方法 を考えた人もすごい人だと私は思います。  世の中には、様々な障害を持つ人がくらしています。姉の通っていたりょ う育園や、支援学校でもいろんなお友だちに出会ってきました。そして、そ の子たちに必要ないろんな工夫があることを知りました。  私は、姉が将来お母さんやヘルパーさん無しでもくらしやすいぐらい、す ごしやすい世の中になっていればいいなあと思います。そのためには、障害 のある姉のような人のことを、もっとたくさんの人に知ってもらうことが必 要だし、公共の場に点字の支援があるように、絵カードやイラストを使った 知的障害者向けの視覚的な支援も行うことが当たり前の世の中になってほし いと思います。 ある日 突然 大阪狭山市立狭山中学校 3年 生野 巧  小さい頃の夢は警察官だった。運動は昔から得意で、運動会では毎年リレー 選手だった。中学から陸上部に入って、一年生で駅伝の選手になれた時は嬉 しかった。剣道も習っていた。稽古は厳しかったけれど、おかげで初段審査 も順調に合格したから二年生で二段取得を目指していた。一ヶ月後に運動会 を控えた九月の夕方。僕の心臓は止まった。本当に突然だった。剣道の稽古 は大会前の調整稽古で、ちょっと気持ちを落ち着かせた瞬間、急に身体が熱 くなって、目の前は真っ暗になった。  その後の記憶は全くない。ただ、真っ暗な世界。お花畑もなかったし、川 の向こうでひいばあちゃんが手招きすることもなかった。次の記憶は救急車 の中。何度も呼びかける救急隊員の人、泣きながら名前を呼ぶお母さん。  当初、熱中症で倒れたと思われていた。でも、眼球が上転し、色黒の肌が 紙のように真っ白になった時、剣道の先生は異常に気づき、すぐにAED と救急車の手配をしてくれた。学校には先生が残っていて、呼びかけにすぐ に、AEDを取って走ってきてくれた。心臓が停止してから二十分が生死 の分かれ目らしい。平日で学校が開いていた。夜八時だけど先生が残ってい た。すぐにAEDを使ってもらえた。僕はいくつもの幸運のもと五分ほど で心肺蘇生をしてもらえた。  最先端医療技術を誇る病院で、僕の心臓を止めた原因は突き止められるは ずだった。何度も全身麻酔をした。何度も造影剤を入れた。心筋を採取した。 冠動脈も調べた。家族みんなの遺伝子も調べた。だけどどんな検査をしても 僕の心臓に異常はなかったんだ。  「特発性心室細動」これが僕の診断名だ。心臓が突然止まったけど、原因 が分からないから、いつまた止まるか分からない。という状態だ。「埋め込 み式の除細動器」を体内に入れることになった。この石鹼大の機械は、一生 外れることはない。それは、心臓機能障害一級に値し、僕は一生、身体障害 者手帳を所持することになった。  僕は勉強が苦手だ。成績は中の下ぐらい。真面目に勉強しているけど、成 績はふるわない。だけど運動という強みがあった。陸上は好きだったし、運 動は得意だったから消防士とか、剣道を続けていけば警察官になれるかも… なんて思ったりしていた。でも、もう無理だ。だって、僕の心臓はいつ止ま るか分からない。そんな危ない心臓では警察官になれない。消防士の厳しい 訓練はできない。僕は何もかも無くした。目の前に存在した幾つもの道が消 えた気がした。僕に価値は?息が苦しい。真っ暗な世界に一人きり。涙が溢 れた。  そんな時、「子供は親より先に死んでは絶対ダメなの。」と、お母さんが抱 きしめてくれた。「生きてりゃあ、なんとかなる。」と、おじいちゃんが言っ た。「あなたが居てくれるだけで、それだけで嬉しい。」と、おばあちゃんが 言った。「こうして、家族で一緒に食事できることが一番幸せだ。」と、父さ んが言った。「世の中色んな道がある。おまえに合う道は必ずある。」と、剣 道の先生が言った。僕は一人じゃない。幾つもの温かい手が僕を抱きしめて くれていた。前とは違う温かい涙が溢れた。  この先僕は、容赦ない現実を見るかもしれない。理不尽な壁を感じて自暴 自棄になるかもしれない。人の目を気にして下を向くかもしれない。だけど 僕は、命を救ってくれた多くの人に対して恥ずかしい人間にはなりたくない。 剣道の先生、学校の先生、消防隊員の人、病院の先生、看護師さん、リハビ リの先生、たくさんの人が僕の蘇生を喜んでくれた。家族が、親戚が、友達 が、「生きていてくれて嬉しい。」って言ってくれた。  これまでの入院生活の中で、いつも笑顔で接してくれた看護師さんや検査 技師さん、リハビリの先生の仕事に興味を抱くようになった。今後は僕も、 人を助けられる人間になりたいと思っている。 音楽のちから 大阪教育大学附属平野中学校 2年 北尾 美尋  私は小学二年生のときに、母と一緒にコーラス団体に入団しました。今も 所属しています。  このコーラスグループは、大人から子供まで一緒に歌う混声合唱団で、地 域にゆかりのある歌を歌ったり、お寺や施設でコンサートを開かせていただ いたりと、地域とのつながりが深い団体です。  年に数回行われるコンサートでは、子供から高齢の方まで幅広い年齢層の 方が来場してくださります。演目もわらべうたや手あそびなど、みんなが楽 しめるよう工夫されています。また、障がいがある方にも理解していただき やすいように、手話を振り付けに盛り込むこともあります。様々な人が楽し めるよう、耳から入ってくる音楽だけではなく、目で楽しんだり、空気を感 じたりする音楽というものもあるのだと、この活動を通して気付かされまし た。  ある時、コーラスの活動として、重度の障がいがある方々が入院されてい る病院を訪問しました。その時のことで、とても心に残っていることがあり ます。それは、歌を通して得られた一体感です。ジブリの有名な曲を披露さ せていただいた際、車いすやベッドの上であっても、手足・体を使ってリズ ムをきざんだり、一生けん命声を出して歌ってくださったり、一人ひとりが 自分らしく曲に参加してくださりました。会場が一つになっていく感じがし ました。音楽をやっていて、とても充実した瞬間でした。  このような経験をしたことで、障がいがある方々への向き合い方が少し変 わったように思いました。はじめは、正直いい印象はなく、私が幼かったこ ともあり「障がい者は変だな」と思っていました。でも、音楽を一緒に心か ら楽しんでいる姿をみると、そんな印象もすっかり変わりました。今は、私 たちと何も変わらない、いつも前を向いて進もうとされている姿を本当に かっこいいと思います。音楽が、私たちを出会わせてくれて、大切なことに 気付かせてくれて…と考えると、本当に音楽のちからはすごいなと思います。 障がいがある・ない関係なく、全ての人の心に届くものだと思うので、この 気持ちを忘れずに続けていきたいです。 思いやりが社会を変える 関西創価高等学校 1年 田中 裕子  私はある日、ひとりの女性が片手に杖を、片手にホワイトボードを持って 立ち止まっているのを見かけた。ホワイトボードには赤い字で「SOS! 私は目が見えません!点字ブロックが何かでふさがれているので助けてくだ さい」と書いてあった。女性の足元に目をやると、女性の持つ杖が、点字ブ ロックの上にのったトラックのタイヤをつついているのが見えた。女性の周 囲にはたくさんの人が歩いていたが、見て見ぬふりをするどころか全く気づ いていないようにすら見えた。トラックの作業員、多くの通行人の無関心さ に驚きつつ、「見なかったことにして通り過ぎる」という選択肢が一瞬だけ 頭をよぎった自分を恥じた。あまりに多くの人が無視していたため、困って いる人を助けるという行為が間違っているように思えた。だが、私は勇気を 出してその女性に声をかけた。行き先をたずね、点字ブロックがある場所ま で手を引いていった。その時、女性はくるっと後ろを振り向いて「ここにト ラックを停めないでください。私のような人が困ります。」と作業員に向かっ て言った。この女性は自分の意志を主張できる強い人なのだと感じた。周り の雰囲気に流されかけた自分とは大違いだ。  それはたった数分の出来事だったが、私の心は大きく動かされた。同時に、 視覚障がいについて、ほとんど深く考えたことがないことに気づいた。そこ で私は、自分の中の無関心を打ち破るべく、目が不自由な人々にとって、ど んな状況が困るのか、その状況でどういった補助があると便利なのかを調べ てみることにした。あの女性が持っていた杖は白杖といい、路面状態や障害 物を事前に察知するために必要なこと。点字ブロックの近くに看板や木の枝 が飛び出していたら危ないこと。盲導犬に食べ物を与えられたり、撫で回さ れたりすると困るということ。食事の際は、食べ物の配置を詳しく教えてほ しいということ。どれも私たちの思いやりひとつでできることだった。「障 がいを持つ人も生きやすい街」づくりのカギは私たちの関心と思いやりにあ るのだ。障がい者を支援する法や体制、設備を整えることはもちろん大切だ と思う。しかし、人々のなかに困っている人を見逃さない意識が根付かない 限り、本当の「共生社会」の実現はできないのではないだろうか。  しかし、私は障がいを持つ人への思いやりを持つことと、障がいを持つ人 を特別視することは別物であると思う。無意識のうちに「障がい者は助けて あげなければいけない存在」だと思っている人は少なくないように感じるが、 決してそうではないと思う。障がい者は無力ではないし、無力だと決めつけ ることにこそ差別の原因があるのではないだろうか。たとえ障がいを持って いても、持っていない人のようにできることもある。障がい者に対して、全 くの無関心でいるのではなく、すべてのことに手を出すわけではなく、困っ ているときにさりげなく手を差し伸べられる。そういう人になりたいし、そ んな人が増えればいいなと思う。あの日出会った女性のおかげで、障がいを 持つ人との向き合い方について考えることができた。彼女のように困る人が ひとりでも減るよう、自分の身近なところからこの体験を広めていきたい。 思いやりの深さ 関西創価高等学校 1年 高田 輝  中学二年生のとき。帰りの電車のホームで、同じ年ぐらいの男の子を見か けた。その子は電光掲示板をスマホのカメラで撮影し、画面に顔を近づけ、 一生懸命拡大していた。そして手には白杖を持っている。もしかすると、目 が見えにくい「弱視」なのかな。そう思った私は、掲示板に書いてある文字 を教えてあげようと思い、声をかけようとした。しかし、勇気がでず、オロ オロしているうちに電車が来てしまい、結局見ているだけで終わってしまっ た。次の日私は、いつも親しくしている保健室の先生のところへ行き、昨日 の出来事を話した。やはり一言でも声をかけたほうが良かったのか、私はど うするのが正解だったのか。一連の出来事と私の思いを聞いた先生はこう いった。 「ひかりちゃんが声をかけようとしたことはすごくいいことだと思う。きっ と助かることに間違いはない。でも、もしかするとその子は『自分の力』で その文字を読みたかったかもしれないよ。」  その言葉を聞き、私の中に衝撃が走った。そして同時にとある昔の記憶が 蘇ってきた。小学一年生のとき、私は腕を捻挫してしまい、病院に行ってか ら学校へ行くことがあった。登校中の電車の中。暑くなった私は着ていたブ レザーを脱ぎ、カバンに詰め込もうとした。しかしカバンにはすでに荷物が 沢山入っていて、うまくチャックを閉めることができない。包帯と首から吊 るした布で腕がしっかりと固定されていて、うまく肘を曲げることができな かったのだ。どうしても閉めることができず困っていたその時、向かいに座っ ていた女性が「ここを閉めたらいいのかな?」と優しく声をかけ、かわりに 閉めてくれた。普段乗らない昼間の電車、もちろん友達がいるわけもなく心 細かった私は見ず知らずの人が助けてくれたことが本当に嬉しく、そして心 底ホッとした。この出来事は今でも「良い」思い出として心の中に残っている。  私が捻挫をしていたのは約二週間にも満たないほどだ。治ればまた「健常 者」になる。たまに風邪を引いたとき母に甘えるように、捻挫をしたときぐ らい周りの人を頼ろうという気持ちになる。そして手伝ってもらうことに対 して「ありがたい」という気持ちになり、私のことを助けてくれる人がいる ことを嬉しく思う。でも、障がいがある方はどうだろうか。「自分には障が いがある」そのことで、否応なしに多くのことを周りの人に助けてもらいな がら生きていかなければならないのだ。そしてその抗いようのない事実を受 け入れなければならない。  自分の力で日常生活を送る私達にとっての「他人からもらう助け」と、常 に誰かに助けてもらいながら生きる方の「他人からもらう助け」は、その意 味合いが違う。私にとっては「嬉しい」ことでも、障がいがある方からすれ ば「屈辱」にさえなりうることがある。あの男の子はきっと、私達よりも人 に支えてもらう事が多いはずだ。目が見えにくいのなら、電車通学には危険 さえ伴う。そんな中でも男の子は自分の力で電車に乗っていた。そして掲示 板の文字を読み取るために写真を撮り、拡大させて文字を読もうと工夫して いた。なるべく人に頼らずに自分でできることを増やしていこうという思い でしていることなのかもしれない。  もしそこに私が割って入って、掲示板の文字を教えたとしたら。私はあの 男の子が自分でできることを奪っていたのかもしれない。そう思うとゾッと した。  私達人間は、生まれてから大人になるまでの間に、多くの「正解」を教え られる。人にあったら挨拶をするのが礼儀、何かをもらったら「ありがとう」 という、お年寄りの方や妊婦さんがいれば席を譲る、困っている人がいれば 手を差しのべる…。まだ未熟な子供は、人との関わり方を知らない。だから 周りの大人に、時と場合による「対応の仕方」を教えてもらい、同年代の友 達と学校生活を送り「実践」することで、「正解」を学んでいく。しかし成 長していくなかで、そんな「正解」が通じない場面に多く遭遇する。それは 思いやりの気持ちで泣いている友達に声をかけようとすると、「そっとして おいてほしい」と言われたときなのか、友達に悩み事を相談したとき、返っ てきた返答は「正しい」のだけれど、今欲しい言葉がその言葉ではなかった ときなのか。正解がわからないとき、どうすればいいのか。そんなとき私達 は、今までの自分の経験の中で得た知識や、同じような状況のときに自分が 味わった感情などをパズルのように組み合わせて「自分の力で」正解を導き 出すしかない。それは簡単なことではないだろう。出会う人の数が増えれば 増えるほど、自分とは全く異なる環境で育った人や立場が正反対の人と関わ ることが必然と多くなるからだ。  気持ちを想像することは難しいこともあるだろうし、あれこれと考えてい る間に相手はどこかへ行ってしまうかもしれない。それでも私は、一段階掘 り下げたこの「優しさ」を持った人になりたいと思った。  今の私が、困っている人を見かけたら。私はすぐには助けに行かない。あ の人には私の助けは必要か、もし必要ならどんな助けが必要なのか。しっか りと判断したうえで、私は手を差し伸べるかもしれないし、何もしないかも しれない。冷たく思われることもあるかもしれないが、私は必ずそうすると 決めている。それが私にとっての「相手を思いやること」なのだから。 誰もが認められる社会に 関西創価高等学校 2年 安田 幸子  私は障がいがない。また、私の親族にも誰ひとりいない。私は、みんな何 不自由ない健全な人たちばっかりの世界だと思っていました。そんなある日、 私の校区内に、堺市立健康福祉プラザが建てられた。その頃、私はまだ幼稚 園の年長さんだった。建てられたときに思ったこと、それは「福祉って何? 健康ってみんな健康な人だよね?なのに、どうしてそんなものを建てるの? なにかいいことでもあるの?」でした。当時の私は、障がい者の方々の存在 を知りませんでした。  建設されてすぐ、私は母と一緒にその建物へ行きました。福祉プラザの入 り口には、障がいのある子どもさんが描いた作品がありました。その絵は自 分の個性をすべて詰め込んだ作品のようでした。そして私はこの日、初めて 障がい者の方々の存在を知りました。  小学校に入ると、私の同級生の子に障がいのある子が二人ほどいました。 私を含む同級生の子たちと、毎日その子たちをクラスみんなで支え合い、共 に過ごしました。障がいのあるその二人は、少し怒りん坊で、人間関係が上 手にできない子たちでした。私たちは、その子たちの気持ちをしっかり理解 してあげることと、自分の感情をうまく伝えられないときにどう手助けして あげれるかを考え、たくさん関わりました。  また、学校全体での取り組みとして、特別支援学校さんへ交流するために 訪れる機会も多々ありました。特別支援学校の生徒さん達は、私の同級生と は違い、自分で歩くことができなかったり、言葉を喋れなかったり、自分だ けでは本当に何もできない方が多くいました。そんな中でも、私たちを笑顔 で元気に迎えてくださった支援学校さんの思いに、胸がとてもいっぱいにな りました。迎え入れてくださったあと、私たちは支援学校の校内を見て回り ました。すると、私たちの学校にはない様々な道具があり、とてもびっくり しました。また、最後のお別れの際、特別支援学校さんが作られた支援学校 の日常を撮影した動画を見せてくださいました。生徒の方々がみんな楽しそ うで、自分をのびのびと表せている様子を見て、障がいがある、ないにして も、私たちと同じ一人の人間だと改めて感じることができました。さらにこ の時、私は初めて障がいのある方々にも、障がいの重さがあることを知りま した。その日以降、私は友達と一緒に、障がいのある方を目にすると、積極 的にお手伝いするようにしました。    私が小学校中学年の頃、友達と福祉プラザの一階のロビーや屋上によく遊 びに行っていました。そこで、障がいのある方が一生懸命ダンスのレッスン をうけているところや水泳をしているところ、また、バスケットボール専用 の車いすに乗り、障がいのない方々と一緒にバスケットボールを楽しんでい る光景を目にしました。私はこの時、障がいのある方でもちょっとした道 具の手助けがあれば、スポーツであったり何にしても、少しだけ不自由な く過ごせるのだと実感しました。そして一番嬉しい光景がみんなが笑顔で 「きゃー、わー、うえーい」などと叫んでいて、今の気持ちがすごく表れて いたことです。みんなが笑うと本当に楽しそうで、私も交ざりたいと思いま した。  今では障がい者の方々と、コロナのせいもあり、小学生の頃のように直接 関わるような機会が少なくなりました。私自身、障がいのある方の気持ちを もっともっと知り、たくさん関わりたいです。  私は中学生の頃から電車通学をしていて、障がい者の方を見たら、席を譲っ てあげたり、端のところに私が立っていたら、そこを空けて譲っています。 他にも、階段の上り下りを手伝ってあげるなど、少しでも楽になるようにと 行動をしています。たまに、電車の中で「うわー」と叫んでいたり、ただ一 人で怒鳴っている方がいて、その方の近くにいる方々がその障がいのある方 から遠ざかっている光景を見かけます。そんな時、私はとても悲しくなりま す。まるで、その人がいたら嫌だ、だから目に見えない何かで、障がい者の 方々に居場所がないことを言っているかのように思えました。  今の時代、多様性が認められ、性に関しての意識も徐々に増えてきている のにも関わらず、障がい者の方々に関しての話題があまり上がっていません。 なぜでしょう?性の問題の方が大事だから?問題に大事か否かなんてありま せん。一人でもこの問題を変えたいと思うのであれば、それはみんなで考え ていく必要がある問題です。そのためにも、私は障がい者の方々に少しでも 役に立つために行動していきたい。コロナ禍が少しずつ収まり、徐々に課外 活動も許されてきている。  私は大学生になったら、障がいのある方々への支援をしていきたい。その ためにも、今はたくさん勉強をして、力をつけていきたいと思う。本当の誰 もが認められる社会に。みんなが少しでも安心できて、助け合える社会。全 ての人に平等な居場所ができるよう。 人生の宝箱 吉冨 一博  今この文章は、ベッドの上で書いている。  うつ伏せの状態で、自由の利く左手の中指で、パソコンを使って書いてい る。  なぜなら僕は身体に障がいがあるために全てにおいて介助が必要だからで ある。  言語障がいもあり、僕の言葉を聞き取ってもらえないこともよくある。  ある日、ヘルパーさんと近くの公園に行ったところ、知人からカフェを営 んでいる人を紹介してもらった。  店に行ってみると音楽や笑顔で溢れていた。何度か行くうちに、色んなこ とを相談できる仲になり友達になった。また一緒に楽器で演奏ができるよう になった。出会って良かったと思う。友情の宝物をゲット!  ある日、ヘルパーさんと商店街に行ったら「歌声喫茶」と書いていたので 入ってみた。  ギターを弾いている人たちが歌謡曲などを歌っていた。ほかのお客さんた ちも、演奏に合わせて合唱していたので、楽しそうと思った。懐かしのテレ ビ番組とかで観たことはあったけど、まさか僕の人生で行くことになると 思っていなかっただけに新鮮だ。  僕が好きな歌手の曲をリクエストすると歌ってくれて、一緒に歌っている。 歌声喫茶に行くことが、月一回の楽しみになった。  その人たちと出会って友達になれたことが、嬉しい。合唱の楽しさに、唱 の宝物をゲット!  ある日、ヘルパーさんと近くの病院へ検査しに行くと、病気が見つかって、 総合病院に行くことになった。初めて会う先生にドキドキしていた。「どん な先生かな?」と不安だった。  呼ばれて診察室に入ったら、優しそうな印象で安心した。  手術をすることになった。入院することも初めてだったが、ヘルパーさん が付き添ってくれたり、周りの人に助けてもらって、不安が和らいだ。  健康の有り難さに出会えたことは、命の宝物ゲット!  ある日、ヘルパーさんと商店街の祭りに行ったとき、段差が多い場所で、 助けてもらわないと行けないところがある。  ヘルパーさんと困っていると、知らない人が、「抱えましょうか」と、声 をかけてくれて周りを見渡して、道行く人に声をかけてくれた。  集まってくれた人たちと車椅子を抱えて段差を上げてくれた。とても温か い気持ちになった。親切な気持ちのゲット!  ある日、ヘルパーさんと、アイスクリーム屋さんに行くと、入ろうと思っ たら、ヘルパーさんがドアを開けようとしたが、ドアのところで僕が待って いたところ、中で椅子に座って美味しそうに食べている女子高生ぐらいの人 が、ドアのところに飛んで来てくれて、ごく自然にドアを開けてサッと戻っ ていった。  気遣いに、温まることだった。自然な心遣いの宝をゲット。  ある日、障がいがあっても海や自然を楽しむことを、たくさんの方々に体 験して欲しいという想いのある、スキューバダイビングのインストラクタ― を、知人から紹介してもらった。  僕もスキューバダイビングに興味があって、してみたいと思っていたので、 期待が高まった。  プールに行って泳ぐ練習をしたり、潜る練習をして、沖縄にスキューバダ イビングをしに行った。海の中は不思議な感覚で、魚になった気分だった。 海の宝物をゲット!  ある日、朝早くに友達からメールが来た。何故か気になって開いてみた。 すると、僕のために色んなことを教えてくれた人の悲報だった。  その人も重度の障がいがあるが、行動的な人だった。引っ越しされてから は、あまり会わなくなっていたが、元気なことは風の便りで聞いていた。二 年程前から連絡など少なくなり、あまり調子が良くないのは聞いていたが、 まさかの知らせにショックであった。生きている大切さをゲット!  今ではヘルパーさんに助けてもらうことが日常になっていて感謝してい る。ヘルパーさんと色んなところに出かけたりするとハプニングや困ったこ となど、沢山あるが、一緒に笑ったり一緒に泣いたり、驚きや再発見できた り、色んな経験をしている。  また、障がいの有無に関わらず、色んな人たちと出会って仲良くなること が、ある。  沢山の人に出会ったり、また時には悲しい別れがあったり色んな経験をし てきた。様々な生き甲斐を探求して行き、周りの人と一緒に人生を楽しみな がら、宝箱に沢山ゲットしたものを詰め込んで、歩んで行くと思う。この宝 物はお金では買えない…、温かい宝物だ。  大切に持って生きたい。 勇気の温もり 大阪医療技術学園専門学校 河合 郁実  「何かお手伝いできることはありますか」と実際に補助具などを使用して いる障がい者相手に伝える難しさは、子供と大人で大きく変わってくる。子 供の頃は「大人に褒められるから」や「人助けしたい」など理由がわずかに でも存在する。そして、実際にその動機から声かけをしたことがある人は多 いだろう。しかし、大人になった今、「誰かが代わりに声かけするだろう」 や「他人に声をかけることが恥ずかしい」などの理由で声をかける勇気が子 供の頃と比べて無くなったと感じる。善意が無くなったというわけではない が、声をかけることによって偶発されるタスクやリスクを想像することがで きることで、より声がかけづらくなるのだろう。実際、私は今まで人助けを 行った際に全て上手くいっていたわけではなかった。  例えば車いすの方がスロープの勾配が大きすぎて困っている様子が見受け られたので、「お手伝いしましょうか」と声をかけたことがあった。しかし 相手は耳も聞こえづらかったらしく、後ろから声をかけてもこちらに気づい ていない様子だった。再度前方から声をかけると、「自分でできる」と言われ、 大変そうにしながらも車いすを操作していた。そこで私は、決してすべての 障がい者が助けを必要としているわけではないと学習した。他にも助け方が わからない、助けようとした相手の言葉を聞き取ることができなかったなど、 失敗というよりも介助の仕方を知らないという理由で、私は自然と障がい者 がいても声をかけづらくなっていった。  私の家の近所に、白杖を持った女性が住んでいる。時々、駅からその人が 住むマンションまで白杖を左右に動かしながら点字ブロックの上を歩いてい るのを見かけていた。しかし、道路やマンションのエントランスまでの道の 周りには点字ブロックはなく、庭木や遊具が多い。さらにマンションのエン トランスの直前には池と橋があった。そんな中を白杖一本で一人行動してい た。助けたくとも、マンションはその人の家であり、他人である私が敷地内 に入ることは遠慮したかったのと、初対面の人に話しかける勇気がないゆえ に声をかけることができなかった。  ある日、その最寄り駅でその白杖の女性を見かけた。その人はいつものよ うに白杖を左右に滑らせて点字ブロックの上をゆっくり歩いていた。私はま たいつものように素通りしようと一度通り過ぎて改札に向かった。しかし、 私は元々困っている人を助けずにはいられない性格なはずであり、声をかけ ること自体が恥ずかしくて渋っているそんな自分が嫌だった。毎回見かける たびに気にしながらも通り過ぎてしまう罪悪感があった。鼓動が速くなり、 少しだけ立ち止まって振り向いて女性を確認すると、私が通り過ぎた位置か らあまり変わっておらず、ゆっくりと周囲を確認しながら歩いているのを見 て、この方は私たちが移動に使っている時間の何倍もの時間をかけて移動し ていることに気がついた。一日の大半を都会ならではの大きな音が入り混じ る中で恐る恐る歩くことの大変さを想像し、私は勇気を出して女性の方に引 き返した。女性に近づくにつれ鼓動が速くなり、緊張で言葉が詰まりそうだっ たが「すみません、何かお手伝いできることはありますか」と声をかけるこ とができた。すると女性は明るく元気な声で「ありがとう、それでは駅員の いる改札まで連れて行ってくれませんか」と返答してくれた。鼓動は徐々に 落ち着いてきたが、まだ緊張しており、誤って右側に立ち、腕を出そうとし てしまった。横について腕を差し出し、少し斜めを歩くということは知識と して入っていたが、実際に目に障がいがある方を相手にしたことがなく、とっ さに動くことの難しさを後から感じた。女性は私に改札までの誘導を頼んだ 後、つづけて「では私の左側に立って腕を貸していただけますか」と介助の 仕方を丁寧に教えてくれた。私はこの時、障がい者の方たちは自分たちには どのようなことがうまくできないかをよく理解し、助けてもらえる時に自分 が一番してほしいことを相手にわかりやすく伝えることによって生活しやす くなるという「社会性」と「コミュニケーション力」が優れていると感じ、 感銘を受けた。私は腕を差し出し、女性の手が触れた瞬間、とても温かい気 分になった。まるで一つのやさしさの輪の中に入ったようだった。白くて細 い、長く生きた人特有の人生が詰まった手は冷たそうに見えたが、触れてみ るととても温かく、今までの罪悪感や緊張を溶かし、私の勇気を褒めてくれ ているように感じた。  他人に声をかけることは障がいのあるなしに関係なく、勇気がいることに 変わりはないだろう。しかし、声をかけることによって自分から作っていた 心の壁を壊して人と関わり、新たな気づきを得ることができるのは間違いな い。自分のためになる勇気は人生においてとても重要なことである。そのこ とを少しでも家族や友人に伝えることもまた、社会性が身に付き自身のため にも、相手のためにもなるのではないだろうか。 僕の歩んできた道 森下 慧大  僕には障害があります。話すことが出来ないので文字盤を使用して言葉を 伝えます。この作文も僕が文字盤で伝えた言葉を作業所のスタッフに文章に してもらって書いています。  家族とはパソコンを使用して会話することもありますが、外では文字盤が 主になります。一文字一文字指でおさえるのは集中力と体力がとても必要で す。言いたいことがすぐに伝わらない時や、少し違うように伝わってしまう 時など少し疲れてしまうこともあるけれど、小学生から使っている必需品で す。言葉がちゃんと相手に伝わったときは「最高!」という気分になります。 この作文もスタッフとああでもないこうでもないと言い合いながら作成して います。  この作文では、僕が今までに関わってきた方々との思い出を振り返りたい と思います。  以前はショートステイや入院をよくしていました。その頃は泣き虫で、そ こに行くことになるたびに泣いていました。当時の僕は今よりも気持ちを伝 えるのが難しくかんじていたので、大変なリハビリに加え、家族と離れると いう不安がのしかかり、寂しい嫌だ帰りたいという気持ちでいっぱいでした。 でも今になって思うといい経験だったと感じています。すごくしんどかった けれど、この思い出が自分を強くしてくれて、今グループホームに居ること ができています。  ただ二十一歳のときグループホームに入るという話が来て「なんで今?」 という気持ちでした。いつかいくとは思っていたが、まだ早いと感じ、毎日 悩みました。そんな時夢で天国のおじいちゃんが出てきてくれました。「慧 大えらいなぁ」「がんばれよ」と僕を励ましてくれ、今頑張り時やなあと思っ たものの、さみしがりやの僕はやはり「まだいきたくない」と思ってしまう のでした。  いくといかないが半分半分で母とは毎日のようにけんかしていました。「な んでいかなあかんねん」と母に怒り、泣かせてしまったこともあります。母 は「何かあってからじゃ遅い」と言います。それはわかっていましたが寂し いという気持ちや不安な気持ちが勝ってしまうのです。  そんな頃にある再会がありました。通っている事業所の新しいスタッフに 見覚えが。もしかしてと思い聞いてみると、小学校の同級生でした。  彼は当時同じクラスで、僕のことを気にかけて挨拶や他愛のない話等よく 話しかけてくれていました。なんてことない些細な会話でしたが、僕にとっ てはとてもうれしい事でした。  そんな彼が僕の通う事業所で働き始めたことにびっくりしてなぜここで働 くことになったのかきいてみました。すると、なんと僕がきっかけだと言う のです。小学校の時の僕との関わりから、この仕事に興味を持ちここで働く ことになったと。  僕はそれが嬉しくてたまりませんでした。 僕がきっかけで今頑張っている人がいるということは、僕に決心する勇気を くれました。僕も頑張らないと、新しい一歩を踏み出さないと、と強く思っ たのです。 僕がきっかけで働く彼がきっかけで僕はグループホームに入る決心がつきま した。  今、平日はグループホームで過ごしています。大人として自立するという 気持ちで毎日楽しく過ごしています。今僕が強くあれるのは、家族、親友、 先生、友達、作業所の仲間がいるからです。この感謝の気持ちを伝えるため にも、毎日を一生懸命、楽しく、笑顔で過ごしていきます。 力強いうで 城星学園小学校 4年 矢部 碧子  夏休み、私はボルダリングへ行き、そこでおどろいたことがありました。 ボルダリング場に着くと、いつもとちがうふんいきでした。まわりを見ると、 いつもは昼間に行くので同い年ぐらいの子が多いのですが、今日は夜に来た ので大人ばかりで、子供は私一人でした。少しきんちょうしましたが、ボル ダリングのカベを登り始めました。なかなか上まで登れないでいると、下か ら 「がんばれ!」 と、はげましてくれている声がします。私はその声にはげまされて、やっと てっぺんまで登ることが出来ました。それで気持ちよく下へおりていきまし た。おうえんしてくれていたのは大人の人達でした。その中に両足がない若 い男の人がいました。その人が、 「よしっ。オレも登るわ。」 と言うと、両うでだけで登り始めたのです。私は目を丸くしました。私は足 と手を使ってやっとなのに、その人は両うでだけでぐいぐい登っていくので す。いっしょに来たと思う人達も、がんばれとおうえんしていたので、私も、 「がんばって、もう少し!」 と声をかけました。そして力強いうでだけでとうとうてっぺんまで登りきり、 シャーと下へおりてきました。本当にすごかったです。  色々と調べてみると、パラクライミングというスポーツがあることを知り ました。そのスポーツは目の見えない人や足や片うでがない人、体の動きに 制限がある人も出来るのです。そして世界の色々な人達と戦え、その大会で は日本は金メダルを含めて、たくさんのメダルを獲得していました。  また、パラリンピックでパラクライミングが候補入りしていることも知り ました。絶対に選ばれてほしいです。  今回私が体験した様に、健常者と障がいのある人達がいっしょに楽しめる スポーツを通して垣根のない世界になってほしいです。  また夜のボルダリングへ行こうと思います。 理かいし合うと楽しい未来 大阪市立桃陽小学校 5年 岡内 小万里  今まで障がいのある人と関わってきた事があったかどうか考えてみた。 「あまりないなぁ。」と思い、母と話したところ、祖父と祖母の話になった。 すると、祖父は耳が遠く、祖母は足がいたい時があった事を思い出した。  祖父は、電話や会話をするとき、耳が聞こえづらくなっていて、とても心 配でした。祖母は一緒に散歩をした時、足にいたみがあり立つのがとてもし んどそうでした。それは、年を取るという事なので仕方がない事だと思って いたけど、それも障がいという事に気が付いた。健康な人でも、とつ然の事 故や年を取る事で、いつだれもが体が不自由になるかはわかりません。  今は、祖父にはゆっくり大きな声で話したり、けい帯の機能でいつもどお りの声量で話す事ができて、楽しく会話ができます。祖母との散歩では、少 し休けいをとったり歩く速さを合わせて楽しく歩いています。二人に喜んで もらえて私もうれしいです。  私には、障がいではないですが、アレルギーの病気があります。食べると アナフィラキシーショックで息ができなくなり、死にいたってしまう食べ物 もあります。3才ぐらいの時、初めてくるみを食べてその病気になったと母 からきき、そのころの記憶はないが今だにこわい時がある。一つひとつの食 べ物にアレルギーの成分があるかどうか、店員に聞かなければならないし、 食べたくても食べる事ができない食べ物がある。また、せっかく友だちから もらったおかしもアレルギーが入っていないか心配になる。でも、最近では メニューのうら面などにアレルギーの成分の表示が書いてあり、とても便利 でありがたいです。私も、障がいのある人の気持ちが少しわかる気がしまし た。  障がいや病気は、いろんな種類がある。みんなが安心して一緒に生活しや すい環境にするために私やみんなができることは、相手の事を考え理かいし 合う事が大事だと思いました。また、耳の不自由な祖父がけい帯の機能を利 用しているように、今の時代だと機械の力をかりる事もいいかなと思った。  そこでこんな機械があったらいいなと思うものを考えてみました。例えば、 目の前にきけんがないかを知らせる「あぶな嫌( イヤ) ホン」。車いすで急 な階だんを自動で上がれたり車いすのまますべり台をすべる事ができる、「楽 ( ラク) ルマイス」。お出かけなどの時、少し休けいしたいなと思ったら近く で休めるところがすぐに出る「こしかけアプリ」。好みのけしょうを口で言 うとしてくれる「お出かけしょうロボ」。  家族でアイデアを出し合ってみて楽しかった。どうやったら手助けになる か、楽しく生活するためにはなど、相手に対する想像がたくさんふくらんだ。 そんなことから始めてみると、障がいがある人もそうでない人も、楽しく理 かいし合う事ができるのではないでしょうか。いつか、そのアイデアが実現 してほしいと願っています。 おばあちゃんのこと 堺市立八田荘小学校 6年 石田 未來  目が見えなくても、耳が聞こえなくても、足がうごかなくても、話せなく ても、うごけなくても、すぐおこりだしてしまう人も、はなしがなかなかつ うじない人でも、お友だちになれると思う。  なかよくなりたい、あいてのこともわかりたいと思うきもちがあれば友だ ちになれるとおもいます。  じつは、ぼくはおばあちゃんとの思い出があんまりありません。  ぼくがすごく小さいときに、にんちしょうになってしゃべれなくなったか らです。だから、おばあちゃんの家に行ってもおじいちゃんとはあそぶけど、 おばあちゃんはちがうおへやでお母さんにかいごされていました。  いま、おばあちゃんはねたっきりになって病院に入院しています。今思え ばもっとおばあちゃんとすごせばよかったと思います。そうしたら、なにか つたわるものがあったんじゃないかなーと思います。  ぼくのおばあちゃんは、視覚障害者です。うまれたときから目がほとんど 見えなかったそうです。おばあちゃんが産まれたときに、おばあちゃんのお 母さんは死んでしまったとききました。だから、きんじょの人や親せきの人 に助けられておおきくしてもらったそうです。  ぼくは、お母さんもお父さんもいるし目も見えるし耳もきこえる。おばあ ちゃんがどんなけくろうしたか、そうぞうもできない。周りの人やお友だち にめぐまれたんやろうなあとぼくのお母さんは言っていました。   おばあちゃんは、ほとんど目が見えないのに仕事もしていたし、けっこん して子どもも産みました。お母さんが、おばあちゃんは家じが完ぺきだった と言っていました。すごいなあと思いました。  しょうがいがあるとかないとかは、友達になったりするのにかんけいない んじゃないのかなーと思います。  ぼくは、おばあちゃんが周りの人やおじいちゃんとあたたかい人間関係を つくってきたように、やさしいきもちで生きていきたいです。  個性を分かり合える世界へ 堺市立八田荘小学校 6年 山本 くるみ  私は世界をもっとよくするために、周りの人々の個性を分かり合っていく のが大事だと考えた。世の中には、たくさんの障がいをもってる人がいる。 みんなは障がいをもってる人について深く考えたことはありますか。  障がいとは、いくつかの種類に分かれている。身体障害、知的障害、精神 障害といった症状がちがう障がいだ。日本では障がいの人々はどのくらいい るのか、調べてみた。なんと、日本では年々増加しているのが分かった。日 本人の全人口から比較してみると、国民の約八パーセントが障がいを抱えて いるということが言えるそうだ。  みんなは実際、障がいをもっている人とのコミュニケーションをとったこ とはあるでしょうか。私は話したりするのは、あまりないですが、お出かけ する時とかは見かけたりします。私は見かけた時に思うことがある。障がい の人は、今住みやすいのかなと思う。  なぜ、そう思うかというと家とかだと、家族が支えてくれるけど、外出だ とこまることがたくさんあると思ったから、日本は障がい者の人たちからす ると住みやすいのかと思った。調べてみると、日本にはたくさんのバリアフ リーがあり、人々が助け合ってるそうだ。  私が一番大事にしてほしいことは、題名にもあるとおり「個性」というの を見つけて、わかりあっていける人間関係をつくっていってほしい。「障が い者だから」とか言う人が少しでも減って、全員が尊敬しあっていじめとか もなくなってほしいと思う。  この作文を元にして、これからは私もたくさんの人とのコミュニケーショ ンをとりたいと思った。だからみんなにも障がいの人だからとかじゃなく、 「差別」もやめ、平和に安心して暮らしていけるような町をつくりあげてい きたいと思った。つくりあげていくために、個性を見つけ合ったり、良い所 を見つけたりして、障がい者の人が暮らしやすくなるための工夫を見つけた りして、みんなで協力していきたい。 障害のある同級生から学んだこと 関西創価中学校 1年 奥田 優莉  私の通っていた小学校には、育成学級がありました。その子達とは、とな りどうしの教室で勉強していました。週に一回、障害を持つ人達について学 ぶ授業もあり、とても身近な存在に感じていました。  同じクラスにも障害を持っている子がいました。Yちゃんは精神的に不安 定な状態で、嫌なことがあると怒って暴れてしまったり、教室を出て行って しまいます。初めて見た時はおどろきましたが、ちょっとわがままで怒りっ ぽいのかな?と思っていました。しかし毎時間のように不安定な状態が続い て授業が中断したり私のクラスだけ勉強が遅れたりしました。クラスメイト 達は毎日続くこの状況にあきれてしまいYちゃんに対して無関心になってい きました。途中、クラスが離れ、私も勉強に集中できるから良かったと思っ ていました。  六年生で再び同じクラスになりました。体が大きく成長したぶん暴れると 前より止めることが大変になりました。本やハサミなど危険な物を投げるよ うにもなっていました。  ある日の昼休み、Yちゃんと遊んでいると「今の担任の先生、嫌いじゃな いけど苦手や。」と、私に本音を打ち明けてくれました。先生を嫌いではな く苦手という言葉を使ったYちゃん。自分なりに先生と上手くやろうと努力 していることに気がつき頑張っているんだと思いました。  夏休みの直前、その日体育の授業が終わり教室の前に来てみると、クラス メイト達がろう下に立っていました。友達に何があったのか聞いてみると、 Yちゃんが教室のとびらのカギを閉めてとじこもってしまい中に入れなくて 困っていました。みんなでカギを開けて欲しいとお願いしたり、カギが開い ているところを探したり、努力しましたが入ることはできませんでした。あ わてて走ってきた教頭先生が無理矢理とびらを開けようとしました。そんな 事をしたらYちゃんがもっとキレてしまうと、みんなで先生を引き止めてい たその時、Yちゃんが窓ガラスを足でけり割ってしまいました。あまりの出 来事に私達は呆然としていました。  二学期になり、担任が代わりYちゃんも少しずつ落ちついて、暴力をふる う事は少なくなりました。  私はいつも、彼女が暴れているのを見て、先生がどうにかしてくれるだろ うと人任せにしていました。でも担任は、「自分の回りで起こった問題は自 分で解決しなさい。」と言いました。この言葉を聞いてハッとしました。誰 かに解決してもらうのを待つのではなく自分達で行動しようと、みんなの気 持ちが一つになりました。それからクラスで話し合い四つの約束事を決めま した。一、何があっても彼女を見捨てない 二、おたがいの個性を認め合う  三、良いところを見つける 四、彼女の行動が間違っている時は、はっきり と伝えることです。  卒業式が近づいたころには、教室からいなくなる事、暴力も完全に無くな りました。みんなと一緒に授業やテストを受けて卒業制作にも積極的に取り 組んでいました。彼女の笑顔が増えた事をみんなで喜んでいました。  小学校生活をふり返って、最初は勉強のじゃまをされて嫌だな。受験に失 敗したらどうしようと自分の事ばかり考えていて彼女がいなければいいのに と思っていました。でも今はYちゃんがいてくれて良かったです。みんなに それぞれの個性があって、障害のある子だけが特別ではないと分かったから です。他の子達と仲良くなるのと同じで、まずは相手の個性を認める事が大 切だと教えてくれました。また、彼女が変わろうとしている事を信じて、あ きらめずにみんなで関わり続けたから、クラスの友情を深める事もできまし た。これからもどんな人に対しても誠実に、一人一人を大切にして友情の輪 を広げていきます。 心の繋がり 関西創価中学校 2年 黒崎 藍  私はいとこに会うと、両手の人指し指を向かい合わせ折り曲げてあいさつ をします。これは手話で「こんにちは」という意味です。そうです。私のい とこは耳が聞こえない聴覚障がい者なのです。いとこは今、男子大学生で忙 しくてあまり会えていませんが、昔はよくおばあちゃんの家で一緒にゲーム をして遊んでいました。  私が小学校低学年のとき、おばあちゃんの家に行くと、よくそのいとこが いました。いとこはゲームが大好きでいつもゲームをしていました。一緒に ゲームをするのはとても楽しかったし、いとこはゲームがすごく上手だった ので教えてもらうこともたくさんありました。今思うと、言葉を喋らなくて も、こんなにもコミュニケーションを取れていたのはすごいと思います。で も考えてみるとそれは、心の繋がりがあったからだと思います。私はいとこ と一緒にゲームをすることがあまりにも楽しかったため、いとこが「おしま い」の手話をすると、悲しくなったことを覚えています。  また、おばあちゃんといとこと一緒にハンバーガーを作ったこともとても 思い出に残っています。そしてハンバーガーを作っている中で一つだけ覚え ている会話があります。それはお肉を焼いているときのことです。バチバチ と大きな音がしていました。おばあちゃんが手話でいとこに「この音聞こえ る?」と聞くと、いとこは首を横に振ったのです。大きな音が聞こえないの は、危険に気づかないことがあるかもしれないので、みんなでサポートする ことはとても大切だと思いました。そのために、障害を持っている人と持っ ていない人の心の輪を広げていくことも大切だと思います。  また別の日には、私はおばあちゃんといとこのお母さんと一緒にいとこの 小学校の劇の発表会に行きました。そこは障がいを持つ人が通う小学校です。 そこで私はとても驚いたことがあります。それはいとこのお母さんがいとこ の友達にお菓子をあげていたときのことです。いとこの友達は手話と一緒に カタコトでしたが、「ありがとう」と口に出して言っていたのです。私はお ばあちゃんから、耳が聞こえない人は喋ることがとても難しいと聞いていた ので、すごく驚きました。また感謝の気持ちが心から伝わってきました。やっ ぱり心は繋がっているなあと感じました。  思い返してみると、いとことの思い出はたくさんありました。そして私は いとこのおかげで学んだこともたくさんあります。私はいとこのおかげで小 さい頃から、耳が聞こえない人もいることが分かったし、手話も少しだけで きるようになりました。また、言葉の繋がりはなくても心の繋がりは持てる ことが分かりました。そのような心の繋がりを増やし、心の輪を広げていく ことは障がいを持っている人をサポートする上でも大切だと思いました。そ して今、いとこは国立大学に通っていて、本当に尊敬しています。障がいを 持っているからといってできないことはないと強く感じました。  また、私はSNSですごい人を見かけました。その人は耳が聞こえない けれど他人が喋っている口の形や動きを見て何を喋っているのかを完璧に当 てて、自分も喋っていました。それは、耳が聞こえないことをどこにも感じ させなくて、本当に人間は無限だと思いました。いとこなどから学んだこと を活かして、障がいを持っている人との心の繋がりを大切にすることと、色々 なことに諦めずに挑戦することを大切にしていきます。 出会いとふれあい 大阪教育大学附属平野中学校 1年 木村 碧  私の通っていた幼稚園では、特別支援学校に通うお兄さんお姉さんと交流 をする機会が何度もありました。年長の時に春の遠足でサツマイモを植えて、 秋の遠足で収穫をするといった行事があったのですが、私達が植えたサツマ イモを支援学校のお兄さんお姉さんが育ててくれていたのです。水をまいて くれて、暑い中でも雑草を抜き、収穫できる大きさになるまで、育ててくだ さりました。収穫までの間には、幼稚園までサツマイモの成長を教えに来て くれて、サツマイモの絵をかいてくださり「今はこうだよ。おおきくなって るよ」と教えてくれて、私はとても嬉しい気持ちでお話を聞いていたのを覚 えています。お話をする時には、少ししゃべりにくそうな感じでした。話し にくそうなのに一生懸命話してくれました。少しふらふらしているお兄さん もいました。歩きにくい方も、話しにくい方もいるんだと今だから分かりま す。  収穫の時にも畑まで来てくださり、収穫が終わるまで見守ってくださりま した。きっと収穫の終えた畑を、次の作物を育てられるようにきれいにして くれて、来年の子供達も苗植えが出来るように準備してくれているのだろう な、と優しさを感じました。  地域のパン屋さんで、障がいのある方々がパンやクッキーを焼いて販売し ているお店があります。地域といっても家から少し離れているので、パンを 買いに行くことは多くないですが、地域の夏祭りの時にはクッキーの販売を されているので、見かけたときには購入しています。とても恥ずかしそうに 「ありがとうございます」と言ってくれるので、思わず笑顔になります。  特別支援学校に通う方や障がいのある方は、生活において不自由をされる ことがたくさんあると思います。だから、公共施設や住まいにおいても生活 しやすい街になっていかなければならない、と私は思っています。でもどう すれば生活しやすい街になるのか、まだはっきりと分かりません。しかし、 そんな不自由な中でも、好きなことをされていたり、作物を育てたり、お仕 事でパンやクッキーを焼いたり、私達と変わらない、普通の生活をされてい るんだと身近に感じられる出来事を私は体験出来ています。「私達とあまり 変わらないんだよ。」ともっとみんなに知ってほしいと思います。  街中で困っているのを見かけたら声をかけることは出来るかもしれません が、実際はなかなか声をかけにくいかもしれません。もっと自然と交流でき る場があれば、みんなが自然とこころを通わせられたり、助け合ったりする こともしやすいのではないかと思います。環境整備には時間もお金もかかり ますが、交流できる機会や身近に感じられる場が世の中に多く出来たらいい なと私は思います。 助け合える存在 大阪教育大学附属平野中学校 1年 平野 颯大  僕が今まで触れ合ってきた人達の中に、自閉症という障がいのある女の子 がいました。自閉症とは、人とのコミュニケーションが苦手、物事に強いこ だわりがあるといった特徴をもつ発達障がいの一つのことです。  僕が小学生の頃にその子と一緒に他の子達と遊んだり、話したりする機会 があったのですが、いきなり暴れてはしゃぎだしたり、人の気持ちがうまく 読めずに相手を傷つけたりしていたことがありました。何があったのかとて も不思議だったのですが、中学生になってから、その子のお母さんから、「こ の子は、人との関わりや場の読み取りなどが苦手で、自閉症という障がいが あるの。だから、あなたのことを傷つけてしまうかもしれないけど、ごめん ね。」と謝られて、びっくりしました。しかし、僕は、その子が自閉症とい うことを知らなくてずっといるよりも、自閉症だということを知れて良かっ たと思いました。  僕は、その子のお母さんから自閉症だということを聞いてから、自閉症の ことについて調べました。自閉症の子とのコミュニケーションの仕方はなる べく短い言葉を使ったり、視覚的手段を活用したりすることが良いと書いて あったので、僕にもその子とコミュニケーションを取ることができる手段が あると知った時には、少しうれしくなりました。これからコミュニケーショ ンを取っているうちにすれ違ってしまったり、言い合いをして、けんかになっ てしまったりすることがあるかも知れないけど、僕なりにその子とコミュニ ケーションを取り合っていきたいです。みんなにも自閉症のことを知っても らって、友達全員が普通に話しかけて、その子も話しかえせるような信頼関 係を築き上げたいと思いました。  僕は今まで障がいについて詳しく知らなかったし、知る機会もなかったけ れど、この作文を通して、障がいがある人が何に困っているのかや、何に苦 しんでいるのかを知って、おたがい助け合うことができるような存在になり たいと思いました。 私を変えた二日間 関西創価高等学校 2年 奥村 百合  心の輪。それは、自分から広げてこそ、相手も自分も幸せになれるものだ と思います。私がそう考えるようになったのは、私が小学五年生の時の体験 にあります。  私が小学五年生の時、授業の一環として、近くにある老人ホームに二日間 クラスで行くことになりました。高齢者の方々との触れ合いを通して様々な 事を学べる貴重な機会でした。私は、楽しみという気持ちよりも、高齢者、 しかも認知症の方と上手くコミュニケーションができるのかという不安な気 持ちの方が大きく、心配だったのを今でも覚えています。老人ホームに行く 数日前、担任の先生から、私たちがそれぞれお世話になる高齢者の方のお名 前と、その方の特徴や好きなことなどの発表がありました。私がお世話にな る女性のその方の特徴は「耳の聞こえが悪い」でした。他の子たちは「話す ことが好き」などポジティブなものが多く、私はさらに当日が不安になって しまいました。  そして迎えた老人ホームに行く日。私は双六や塗り絵を抱えて、やや重い 足取りで向かっていました。そして、老人ホームに着き、高齢者の方々とご 対面しました。「かわいい」とうれしそうに迎えてくださる方、ニコニコと 見守っておられる方、何だろうと不思議そうな目で見つめられる方。様々な 方がおられ、賑やかな雰囲気の中、二日間お世話になる方との対面の瞬間が やってきました。  その方と対面した時、私はその方に、自分の名前を伝え、「よろしくお願 いします」と挨拶しました。しかし、その方には聞こえず、今、何が起こっ ているのか分からないといった様子が感じられました。その後もその方と双 六や塗り絵をしました。私は、何とかして会話をしなければならないと焦り、 緊張して話しかけますが、声が小さくなってしまい、その方には届かず、そ の方についているスタッフの方が代わりに私の言葉を伝えてくださるなど、 明らかに心の距離が遠いままでした。その方に声が届かないたび、施設のス タッフの方が気を遣ってくださるたびに、私は焦りや恥ずかしさ、情けなさ が募り、心は塞ぎ、動作や言葉はぎこちなくなっていくばかりでした。こう して一日目が終了し、私は落ち込んで家に帰り、今日一日の自分を思い返し ました。すると、その方と接するのを怖がり、心を通わせることを避けてし まっていた自分がいたことにはっとしました。相手がどんな人でも、どんな 状況でも、自分の振る舞い一つで相手は変わる。全ては自分次第なのだとい うことに気づいたのです。  そして迎えた二日目。もちろん不安はありましたが、私は、自分から心を 開こうという決意で、老人ホームに向かいました。私は、昨日のように、双 六や塗り絵はせずに、今日はその方とおしゃべりをしようと思い、その方に 聞きたいことなどの話題を準備してきました。昨日は、自分の声が小さかっ たことを反省し、大きな声で、ゆっくりはっきりと話しかけてみました。「好 きな食べ物は何ですか。」「うーん。果物かなぁ…。」コミュニケーションが できた瞬間でした。私は、その方とお話できたうれしさと、昨日の自分を越 えられた達成感が胸に込み上げてくるのを感じました。その後も「何の果物 がお好きなんですか。」などの会話のキャッチボールが続きました。会話を するうちに、その方もだんだん心を開いてくださり、最終的には「今日はあ りがとう」と握手までしてくださいました。私は、その方と別れる寂しさと、 心がつながれたうれしさでいっぱいになりました。  この経験から私は、様々な人と関わっていく上で大切なことを学びました。 それは、自分がまず心を開いて、勇気を出して話しかければ、必ず相手も心 を開いてくれるということです。自分と相手はまさに鏡のようなもので、自 分の振る舞いが同じように相手からも返り、全ては自分の心次第だというこ とを強く実感しました。私は、これからの人生で、様々な人と関わっていく 中で、相手に先入観をもち、殻に閉じこもるのではなく、まずは勇気を出し て自分から心の輪を広げていきたいです。そして、多様な人と直接関わり、 自身の視野を広げ、相手の気持ちに寄り添える、思いを馳せられる、思いや りのある自分に成長していく決意です。 対話を諦めない 関西創価高等学校 2年 茂山 聖菜  私は上手に喋ることができない。それは物心ついた時から分かっていた。  「吃音症」とは、話し言葉が滑らかに出ない言語障がいの一つであり、別 名「どもり」とも言われる。「か、か、か、からす」のように、音を繰り返 す「連発」、「かーーらす」のように音を引き伸ばす「伸発」、「・・・からす」 のように、初めの言葉が出ない「難発」の主に三つが存在する。また、吃音 症は大きく「発達性吃音」と「獲得性吃音」の二つに分類され、約九割が前 者である。発達性吃音の特徴として、幼児が言葉を発する時期に起こりやす く、成長するにつれて治る場合が多いが、ごくわずかに症状が固定化される 人もいる。獲得性吃音は、神経学的疾患や脳損傷、心的なストレスや外傷体 験が影響して、十代後半以降に発症することを指す。  私は連発と難発を持つ発達性吃音者である。  小学四年生の時、運動会でクラスのリーダーをしていた私はたった一言の 掛け声「赤組行くぞ」が言えなかった。五年生の時、日直だった私はたった 一言の号令「朝の挨拶をしましょう。おはようございます」が言えなかった。 六年生の時、朝の出欠確認で私はたった一言の返事「はい、元気です」が言 えなかった。中学一年生の時、ホームルームで私はたった一言の挨拶「今か ら朝の会を始めます」が言えなかった。二年生の時、国語の授業で私はたっ た一言の教科書のフレーズ「アイスプラネット」が言えなかった。三年生の 時、受験の面接練習で私はたった一言の言葉「失礼します。よろしくお願い します。」が言えなかった。  言えない度に、友達にバカにされた。「せなちゃんの喋り方変だね」、「せ なちゃんと一緒におったら感染する。逃げろ。」たくさん笑われて、ハブら れた。国語の授業で教科書の音読を当てられるのが怖くて、トイレに逃げた。 言えない自分を想像して、聞こえないはずの笑い声が聞こえた。友達の名前 が言えなくて、肩を叩くか、「ねえ」と呼びかけることで誤魔化した。授業 もまともに受けられない、友達の名前も呼べない。小学生の時、中学生に なったら治ると思っていた。中学生の時、高校生になったら治ると思ってい た。だけどそんなことはなかった。確かに成長とともに症状は断然軽くなっ た。吃音症であることを初対面の人に気づかれないくらいである。しかし、 大勢の人の前で話す時、教科書を読む時、決まったセリフを言う時、自分が 自分でないかのように言葉が詰まって出てこなくなる。だから自分の言葉に 変換したり、いっそのこと笑いに変えてみたり。「普通」に思われたい一心で。 毎日必死である。  上手く喋れないことがそんなに悪いことなのか。スラスラ言えないと人間 じゃないのか。必死に生き続けて十七年。私はそう考えている社会や世界が 嫌いだ。これは吃音症だけに言えることではない。目や耳が不自由な人、歩 けない人、走れない人、髪の毛がない人、声を出すことができない人、人間 誰しも欠けている部分はあるだろう。それが人より少し目立つだけで、こん なにもバカにされ、避けられて、弱い者扱いされなければならないのか。特 別視される必要があるのだろうか。これはできて当然のことだ、これが普通 だと、こちらが勝手に決めた「普通」という固定概念を相手に押し付けて判 断し、排除してよいのだろうか。人それぞれ、顔も名前も性格も何もかも違っ ているのは、誰かを排除するための言い訳なのだろうか。所詮、私たちは皆 同じ人間である。この平等な世界に生を受けた、たった一人の人間である。 同じ生き物であっても、一人一人違うことは当たり前なのに、それを皆分かっ ているはずなのに、未だ差別が後を絶えないことに、本当に心が痛む。  「全ての人が平等に生きる世界」を口だけではなく社会で実現させるには、 どうしたらよいだろうか。私は「対話」が最も大事だと思う。私は中学生の 時に、吃音症について理解を深めてもらおうと、クラスのみんなの前で説明 をした。すると、みんな分かってくれた。もう誰もバカにしてくることはな かった。もっと早く伝えていればと思った。人それぞれ「普通」のあり方は 違う。もちろん説明しなくとも、始めから違いを認め合うことが最重要なの だろうが、あなたの「普通」が、みんなの「普通」ではないんだよ、と教え るためにもまずは自分の言葉で伝える。「対話」を諦めないことが大切だと 私は考える。  ある先生に言われたことがある。人間関係の悩みを相談した時のことだ。 「どうして私たち人間には『言葉』という武器があるのに、それを使おうと しないの?言葉にして伝えない限り、あなたの思いは誰にも伝わらないよ。 せっかく『言葉』を持っているのに使わないなんてもったいないわ」と。  これから生きていく中で、私はいろいろな人と出会うだろう。その時に、「普 通じゃない」と、こちらが勝手に決めつけた「普通」の価値観で判断し排除 するのか。はたまた多様性と考え、対話を通して共に生きていく姿勢を崩さ ないのか。私は後者でありたい。自分の吃音症という体験から学んだことを 生きる糧とし、「全ての人が平等に生きる世界」を実現する先駆を切ってい きたい。 差別やいじめのない世界を作っていくために 関西創価高等学校 2年 松峯 奈穂  私は小学生の時、学年の大半からいじめを受けていました。それは、私の 髪が短かったことで「男子みたい」とからかわれることから始まりました。 いじめはクラスメイト数名からクラス全体、学年全体へと広がっていきまし た。悪口を言われたり、シカトをされたり、バイ菌扱いをされるなど、毎日 がとても辛かったです。毎日のように泣いていました。何度も死にたい、こ の世から消えてしまいたいと思いました。  私にはYという友だちがいました。Yは私と同じ人たちから、いじめを受 けていて、いつもお互いを励まし合っていました。ある日の放課後に、Yと 一緒に学校の廊下を歩いていると、いじめっ子たちがやってきて、Yに悪口 を言い始めました。私は黙って見ていることができず、とっさに「私をいじ めても構わない。だけどYはいじめないで!」とYをかばいました。すると、 いじめっ子たちは逃げていきました。次の日の体育の授業終了後、いつもの ようにYと一緒に更衣室に向かうと、更衣室には鍵がかけられていました。 「開けて」というと「名前を言え!」と言われ、名前を言うと、「お前は入れ てやらない!」と言われ、私以外の人は皆入ることを許可されたが、私は入 れてもらえませんでした。信頼していたYまで私を置いて更衣室に入って行 き、「かばったのに何で?何で私がこんな目に遭わなければならないの?」 という疑問と、信じていたのにという悲しみと怒りで胸がいっぱいになりま した。休み時間終了のチャイムが鳴るまで更衣室には入れてもらえず、次の 授業に遅れ、先生に怒られました。先生も私がいじめを受けているのは知っ ていて、クラスのみんなも誰も本当のことを言ってくれませんでした。私は、 先生もクラスのみんなも大嫌いになりました。そこから私は人間不信になり、 誰のことも信じられなくなりました。いじめは小学六年の終わりくらいまで 続きました。小学校の卒業式の日に私は二つのことを誓いました。一つ目は、 もう人前では泣かないことで、二つ目は今までのことはすべて忘れることで す。そう誓ってから、私は人前で泣くことはなくなり、いじめられていたこ とを何もかも忘れました。  高校生になり、第一志望の高校で毎日がとても充実していました。普段の 生活や部活でも同期の友達や先輩方がとても優しく接してくれました。しか し、高校一年の夏が終わる頃に地元の夏祭りで偶然いじめっ子の一人と遭遇 してしまい、その瞬間、次々と、過去の記憶がよみがえりました。辛かった、 苦しかった、思い出したくもなかった過去が勝手に思い出されました。私は その日を境に、いじめられていたことを頻繁にフラッシュバックするように なってしまいました。  私の周りにいる人は私の話を親身になって聞いてくれ、寄り添ってくれま した。今は昔と違って、味方がたくさんいます。私はとても幸せだと思いま す。相談できる人がいて、味方がいる。昔はそんな明るい未来がくるなんて 想像もつきませんでした。  最後に、私はこの経験のおかげで、いじめられたから相手の気持ちが分か る人になれて、強くなることができたということです。だから今はいじめっ 子たちに感謝しています。しかし、障がいの有無や性格などにかかわらず、 いじめは決して許されていいことではありません。なぜならいじめられた人 の心にずっと辛い思い出が残り続けるからです。それはいじめだけではなく 障がいがある人やその家族への差別にも同じことが言えます。私はどんな理 由があったとしてもそれが人をいじめていいという理由にはならないと思い ます。少しの軽い気持ちで言った一言で誰かを傷つけ、最悪一つ尊い命を奪 うことにつながります。だから、私はいじめを見たらいじめられている子の 味方になって、私が沢山の人に助けられたようにその子に寄り添っていける ような人になりたいです。これから、自分の経験を活かして生きていきたい と思います。 違うことは当たり前 関西創価高等学校 1年 永田 弘美  障がい者。この言葉を聞いて思うことは人それぞれだと思います。大変そ う。可哀想。何か手伝えることはないか。身近な人にはいないな。自分とは 関係ない。自分とは違う。私は障がい者の方への差別がなくならないのは、 この「違う」を知ろうとしないことが原因の一つだと思います。  私が今まで生きてきた中で、障がい者の方を目にすることはたくさんあり ました。きっと誰でもそうだと思います。道で白杖を持って歩いている人が いるのに、自転車ですぐ近くを通り過ぎる人を見てひやひやしたこともある し、改札を通るときに点字ブロックから離れてしまい、柱にぶつかりそうに なっているときに思わず声をかけたこともあったし、電車の乗り換えで駅員 さんの肩に手をおいて少しずつ歩く人を見ることもありました。こんなふう に、ときに誰かの手助けをもらいながら生活している人がたくさんいます。 当たり前のように、点字ブロックがあって、信号機が青になれば音がなって、 スロープが設置されていて。私たちが暮らしているところには障がい者の方 が少しでも生活しやすいようにと、たくさんの工夫がされているのに、なぜ かそれでも「障がい者」を身近に感じることができないことが多いのです。  世の中には本当にたくさんの人がいて、一人ひとり「違う」状態で生活し ています。好きも嫌いも、得意も不得意も、夢も望んでいることも。それぞ れが自分の経験だったり、自分の中にある情報を使って、ものを考え、それ を出会った人に伝え、それに別の人の考えが加わって、また新たな考えがで きる。このように人と人との繋がりでできている世界に住んでいるのが私た ち人間です。どうしてもわかりあえないと思ってしまう人にだって出会うし、 どうしてこの人はみんなと違うんだろうと不思議に思ってしまうときもあ る。でもそれは多くの場合が、自分を中心に物事を考えているからです。あ ちこちに悪い意味で自分軸で生きているせいで「違う」を受け入れることが できない人が多くいると思います。それを障がい者に対する差別で考えると、 耳が聞こえない、声が出せない、目が見えない、思うように動けない、精神 的な障がいがある。それを当たり前にできる人がただ何も考えずに自分軸で 思ったことを言葉にしてしまうことが差別の始まりです。できる人、健常者 からすればあまりに「普通」過ぎてそこまで気が回らないのかもしれないけ ど、それが「普通ではない」人がいることを表面的にだけ理解した気になっ ている、そんな人がたくさんいます。自分が相手の立場だったらどう思うか。 それを考えられない大人が悲しいけどたくさんいるのが現実です。相手の立 場に立って考えても、結局は「自分」が考えているから、完璧に相手の気持 ちを想像することは難しいかもしれないけど、それをしようともしない人が いる。そんな大人を見て育ってきている子供が同じ考えをしてしまうのは、 もはや当たり前のことです。だからいつになっても障がい者への差別がなく ならないのだと思います。  人それぞれ違う考えを持っていて、それぞれの正解だったり、優しさ、正義、 そんなものが混じってできている世界は、本当は「違う」が当たり前なのか もしれないと思います。障がい者と健常者。この二つにわけられてしまうこ とが多い世の中だけど、障がい者だから健常者だから、みんな同じ、という わけでもないと思います。それぞれ嫌だと感じるポイントは違うし、誰に対 しても大事なのは「知ろうとすること」だと思います。相手の気持ち、心を 考えて、耳を傾け言葉を紡ぎ、想いを伝えていく。世界にはたくさんの言語 があって、同じ言葉でもニュアンスの違いなどで思うように気持ちをそのま まに伝えられないこともあります。無意識のうちに相手を傷つけていること だってきっとたくさんあります。だからこそ「伝えようとする気持ち」とそ れと同時に「伝えられている言葉の本質を見抜こうとする気持ち」が大切に なってくると思います。  小さい頃から誰もが教わってきたであろう「人には優しくする」「人を大 切にする」これらを守って生きていけば、障がい者だろうが健常者だろうが、 そんなことは関係なく、みんなが生きやすい世界になるはずです。自分だけ でいっぱいいっぱいにならずに、相手のことを知ろうと努力し、心の輪を広 げていけばきっと今よりもっといい世界になると思います。うまく声で表せ なくても、手話、筆談、さらには表情や行動でコミュニケーションをとって、 相手への思いやりを忘れず、それぞれがそれぞれらしい生きかたで笑顔あふ れる毎日を過ごせるようになることを祈って、自分自身にできることは何な のか考えながら過ごしていきたいと思います。 共生社会 関西創価高等学校 1年 田村 優衣  私には、3つ下に妹がいます。妹は自閉症と知的障がいをかかえています。 夏休みの弁論作文の「障がいのある人とない人との心のふれあい体験を広げ よう」という募集テーマを見て、妹との関係についてもう一度考えました。  私が妹と過ごす中で大切にしてきたことは、いつも通りでいることです。 妹が生まれた時、私は嬉しかったです。また、昔から妹を受け入れなければ いけないという意思が強くありました。妹がどういう世界を生きているのか 私にはわからないからです。  私がもっと幼かった頃は、妹に特別優しくすることが良いことだと思って いました。けれど、それは違うのではないかとある時思いました。自分が成 長して、相手の立場でどう思うか考えたりするようになってから気づいたこ とでした。小学生の時、足が遅いからという理由で、友達が私にハンデをつ けてくれたことがありました。優しさからだったと思います。でも正直、対 等に接してもらえなくて寂しい気持ちになりました。だから、障がいがある から特別な関わり方をするのではなく、いつもの自分でありのままでいいと 思いました。  ありのままの自分で関われれば良いと思う一方で、妹に苛立ちを感じるこ とがあります。  その気持ちは妹が成長すればする程大きくなっていった気がします。私が 作業をしているのに電気を消されたり、何度注意しても車の窓から手を出す ことをやめなかったり、前までならもっと簡単に許せたと思います。けれど 今は、毎回イライラしてしまいます。言い方がきつくなってしまって、口に 出してすぐ反省する事もよくあります。何でこうなってしまうのか自分でも わからなくて、自分が嫌になっていました。  危険なことやされて嫌なことを、注意してもやめない時に相手に腹が立つ のは当然ですが、相手に障がいがあった場合、苛立つ自分を悪く思ってしま います。  けれど、改めて考えればその気持ちは当たり前のことなのです。もちろん 配慮はすごく大切なことだと思います。けれど、特別扱いと配慮は違います。 相手の立場に立って、心を配ることが配慮です。  毎日の生活の中で、妹の突然の行動に何を考えているのかわからないと思 う時もあります。急に走り出したり、今まで機嫌が良かったのに気づいたら 泣いていたりするのです。   しかし、わからない理由を障がいのせいにして切り捨てるのではなく、歩 み寄りが大切と思います。そして、相手の気持ちがわからないことは、障が いの有無に関わらず誰との間にもあります。障がいのない人同士ならわかり 合えて、そうでなければ不可能ではないのです。  どんな人と関わる時も配慮や思いやり、また、相手を知ろうとする心が一 番大切だと思います。障がいの有無で相手を見るのではなく、一人の人間同 士として互いを尊重し合うことが、何より大切なのです。 話すということ 関西創価高等学校 2年 松原 千尋  私にはいとこが二人います。長男は生まれたときから耳が聞こえにくく、 手術をして補聴器をつけています。次女は健聴者です。二人の親も耳に障が いを持っているのを知っていたし、私が子どもの頃から関わっていました。 なのでいとこが生まれてから今まであまり違和感を感じたことはありません でした。でも次女の成長を見ていると、しゃべり出すのが早いなと感じたり、 よく声を発するなと気づいたりはしていました。あるとき長男が次女にお茶 を飲ませてあげている瞬間を目にしました。二人ともまだ幼く、年も少し離 れているので一緒に遊ぶ姿はもちろん、隣に並んでいる姿を見ることも少な いです。言葉をかわすことはなくても、しっかり二人の間には世界があって 関わり合っているんだなと思い、心が温かくなりました。  長男が歩き始めてからは、いとこが親とコミュニケーションを取らなけれ ばいけない機会が増えました。危ない所に行くと連れ戻して来て!とジェス チャーで伝えられたり、親より私の方がいとこに近い場合は代わりに行動し ます。そのときにスマホを見ていたりすると、親のジェスチャーに気が付か ないことがあります。子どもはすばしっこく危機一髪で気が付くこともあり ました。家には私の親や祖母など大人がたくさんいますが、それからは常に 気を付けて周りに目を配るようになりました。  私の家族はほぼ全員が手話をすることがでません。祖母は少しできますが、 長く会話することは難しいです。そうなると筆談が多いのですが上手に言い たいことを表せません。表情で感情やテンション感はつかめますが、やはり 耳で聞くよりかは情報が少ないです。そしてだんだん深い話はせずに、あい さつやジェスチャー程度でしか会話をしなくなりました。いとこ二人を見て いるとあまり暇なことはないけれど、やっぱり会話したいと思うし、いとこ が大きくなったときにも話したいと思っています。  ところで〝話す〞という単語は声に出して会話することだけを指すでしょ うか。私は声に出さなくてもいとこの表情で何を感じているかだいたいわか ります。おかしを食べたいときはうでをひっぱられるのでわかります。私は 表情であったり、ジェスチャーも心で話してると思っています。将来的には 手話をできるようになりたいですが、それまでは心の会話をしていきます。  私はいとこの事を障がい者だと思ったことがありません。身近にいるから そう感じるのかもしれませんが、私たちは心で会話をするのが日常です。障 がいを持っているからと言って差別される必要はありません。みんながそれ ぞれ自分の人生を生きたらいいと思うし、他人に侵害されてはいけないから です。私も今までは耳が聞こえないと会話できないんだろうな、生活も大変 だろうなと思っていました。でも実際に関わっていると全くそんなことはな いと気づかされます。いとこ二人、親子、いとこと私達は心ではつながって いるのです。いとこと出会ってから私はどんな人も偏見なく関わるようにし ています。決めつけないことを忘れず、これから関わっていきたいです。い とこ二人が仲良く成長していくことを願っています。 我が家とアンプティサッカー 池田 慶子  「さっき父さんが外で倒れて救急車呼んだから」  3年前の夏、長男と一緒に参加していた社会人チームのサッカー練習後、 立ち上がる時に意識が遠のき、熱中症の疑いで四十代の夫が救急搬送されま した。  そこから色々と検査した結果、少し前から腫れが気になっていた右足首の 上のすねの部位が、軟部肉腫と診断され闘病生活開始となりました。  2ヶ月入院して抗がん剤の投与。夫の病気の特性上、効果の程は五分五分 の予想と聞いていましたが、結果は思わしくなく、秋には手術で右足の膝か ら下を失い、しばらくは松葉杖を使用することになりました。  そこから義足をオーダーメイドで購入し、資金のやりくりもしながら、病 気の経過を見守っていくことに。  当たり前にできていた階段の多い家での暮らしも、家具の配置を変えたり ちょっとしたスペースに体を支える手すりをつけたり、最終的には生活のし やすい家に転居することになりますが、我が家にとって非常に大きな転機と なりました。  当初、夫はリハビリに通いながら仕事も続けていて、電車やタクシーに乗 り、経路にあるエレベータの場所をひとつひとつ確認したり、障害者支援制 度を使って左足だけで運転ができるようにパーツを装着した車を購入するた め、色々な業者さんの担当の方と打ち合わせをしたり、移動に関する状況も 一から立て直す必要がありました。  利用できる制度は色々とあっても、誰に聞くべきかもわからなかったり、 なかなか情報を得るのは至難の業で、障害年金についてもあとから知って急 いで申請したり、障害認定を受けるまでにタクシー利用に補助がなかったり、 本人からの申請が必須なものもあったり、体調のことを気づかいながら制度 の利用までに様々な壁があることは、家族の中でも心理的に大きな負担とな りました。  そんな中でも義肢装具師の方のアドバイスでスポーツ用のバネ義足を体験 する練習会に参加したり、パラリンピック選手から直接アドバイスをもらえ るような講習会に参加したりと、夫自身は休日も積極的に体を動かすことに 挑戦していて、家族もそんな活動を支えながら、大きな勇気をもらっていま した。  思うように体が動かなくても、義足で立つこと、歩くこと、走ること、し ばらくはそんな動作を一つずつ確かめながら、そのステップを何度となく繰 り返していく。義足に詳しい方に聞きながら、試行錯誤を繰り返す。言葉通 りに一歩一歩挑戦して、夫の生活が軌道に乗り始めたところで出てきたのは、 「やっぱりサッカーがしたい!」という思いでした。  関西にもアンプティサッカーという競技に挑戦しているチームがあるのを 知り、まずは体験会に参加。  アンプティサッカーは、足がないか障害がある人たちがサッカーをプレイ する競技で、「amputee」は(切断者)の意。  アンプティサッカーにはいくつかの特別なルールがあり、選手は義足を装 着せずにクラッチと呼ばれる杖を両手に持ちプレーを行います。腕に障害の あるキーパーが一名と、フィールドプレイヤー六名で、オフサイドは無く、 クラッチでボールに触れるとハンドとなり、スローインではなくキックイン といった点が通常のサッカーとの違いとなります。  夫はそこから練習会に何度か出てきましたが、今では毎月練習に参加して いて、チームメイトに日本代表の十代の若い選手もいる中で、同じユニフォー ムを着て試合に出場することもできたり、技の光るプレーを目の当たりにし て、多くの刺激をもらっているようです。  病気を知った時、夫が足を失うことに家族全員がもはや絶望感しかなく、 先の見えない暗闇の中にいるような辛い思いでいっぱいになることもありま したが、いま周りには義足を使いながら様々な事に挑戦している人が本当に たくさんいて、最終的にはどんな状況になっても、前を向いて乗り越えてい けるそれぞれの人としての強さに、大きな希望と勇気を感じさせてもらって いる日々です。  アンプティサッカーは全国各地にいくつかチームがありますが、毎年秋に は関東で日本選手権が開催されます。  我が家は関東に親せきが多いので、昨年初めて参加した際、しばらく会え ていなかった家族と観戦できる貴重な場となりました。  今年も勇気をくれる夫の姿に、秋空のもと、みんなで声援を送る1日を過 ごすことができそうだし、これからも毎年の恒例行事として楽しみを与えて くれるアンプティサッカーとの関わりは、我が家がぐんぐんと前に進むため の原動力になっていってくれそうです。 心の内を知ることの重要性 大阪医療技術学園専門学校 植山 愛翔  この世界には多種多様な人々が生活していて、考え方も文化も何もかも 違っていて、障がいのある人もない人も1人ひとりにプロセスがある。  多様性を理解し、1人ひとりが輝ける場所を見つけることがとても大切だ。  私が通っていた高校では1年生だけの1年間だけではあるが、ベーシック コースというクラスがあった。  生徒1人ひとりに合わせ、登校時間やクラス人数を選択することができる。  朝起きにくい人や不登校の経験がある人、学校に登校できるかが不安であ る人が、1年間かけて生活リズムを作れるようにするためだ。実際に私が通 う中学校や高校でも、割と耳にすることが多かったのが、中高生の 10 %と頻 度の高い疾患である起立性調節障がいである。起立性調節障がいとは、朝に なかなか起きることが出来ない、朝の食欲不振、全身倦怠感、頭痛、立って いると気分が悪くなる、立ちくらみなどの症状である。  しかし、全体の10%と聞くとほんの一部分の人となり、同年代から見ると 理解を得難い疾患である。  少数派となると軽視されがちだが、1人ひとりそれぞれがどうすることも できない目に見えない悩みを持っている。  校内で触れ合うこともなく、考えるきっかけもなかった為か、私自身も深 く気にしたことがなかった。  私自身、コミュニケーションをとるのが大の苦手で友達を作るのにも時間 がかかる。  そんな負い目が自分の中にも深くある為、周りに厚い膜のバリアを張って いる感じだ。周りを気にする余裕がない…というのが正しいだろうか。  そんな中、高校2年生になり、1人の友人と仲良くなった。  なんとなくふわふわと過ごしている数人の中の1人がその友人だ。  今でもその友人とは仲が良く、3年ほどの付き合いになるが、友人がうつ 病だと知るまでには長くかかった。  2人で遊ぶことが多く、時々障がい者手帳を利用しているのを見てきたけ れど、とても芯のあるしっかりした人で、見た目では全くわからず、むしろ 健常者にしか見えなかった為、触れてはいけないと思っていたし、特に気に することもなかったからだ。  しかし、3年という月日の中で時折浮き沈みが見えるようになり、少しず つ友人の心の内を知っていくことになった。  きっかけは、ある時「僕はうつ病なんだけど、病院の先生は半年程で良く なると言っていたのに、もう3年半治らないんだよね…」と打ち明けられた ことだった。  そうかもしれない…と思うことはあったけれど、何となく気づかないふり をしていたし、3年半という月日に衝撃を受けた。  打ち明けられた時、偏見や嫌な気持ちは全くなかったし、大切なことを話 せる相手だと思ってくれているんだ…と思った。  ただ、どう接していくべきだろう…何と言葉を返すべきだろう…と悩んだ のは覚えている。うつ病の人には頑張れ…などと言ってはいけないと言うが、 今まで私は友人にそういう言葉をメールや電話、何気ない会話で言っていた からだ。  打ち明けられてからは言葉選びに慎重になったり、時々やってくる音信不 通にも待つことを覚えた。  昨今、うつ病患者は増加傾向にある。生涯5人に1人はなると言われてい るが、時代と共に有病率が増加しているだけではなく、女性は男性よりも2 倍うつ病になりやすいともいわれている。周囲の身近な人たちを含めても、 うつ病はさほど珍しい病気ではなくなってきている。  この3年ほど続いたコロナ渦も大きく関係しているようにも思う。  障がいがあってもなくてもそれぞれの感情があることは皆同じで、1人1 人の尊重や、心の内を知ることで過ごしやすい環境を作り出すことができる。  考えるきっかけをくれた友人に教わってきたことも沢山あるし、きっかけ や体験が環境を変えてくれる。  どちらが大小ではないが、目に見える障がいは言わなくても周りが気付く ことができるが、心の障がいは目に見えない為、なかなか気付くことができ ない。心の内を知ることはとてもハードルが高いが、言葉を交わすこと、少 し気持ちを傾けてみることも心の内を知るきっかけになる。  世界中の人々のきっかけや体験が繋がり、1人でも多くの人の過ごしやす い環境を作り出せることがもっともっと広がれば良い。 考えること 大阪医療技術学園専門学校 吉本 羽流  恥ずかしながら、私は今まで障がいのある方と関わったことが全くと言っ ていいほど無い。故に、この作文を書くに相応しい人間であるとは言えない だろう。酷い話ではあるが、正直私は障がいについてとそれに関わる全ての 人々の苦悩や葛藤を、どこか他人事のように思ってしまっている。もちろん、 それを口に出したことはないが心の片隅でも思ってしまったのだから最低な 人間だろう。きっと、それは私自身が体験したことがないからどこかフワフ ワした気持ちなのかもしれない。それは身体障がいに限らず精神障がいも、 だ。  特に目に見えない障がいで、例えば学習障がい、注意欠陥・多動性障がい、 アスペルガー症候群、脳外傷、てんかん、心理または精神障がいなどはパッ と見で分からない分、何が正解かも分からない。もし段差の多い所で車椅子 の方が困っていたら車椅子を押す、といったように何に困っているのか、は たまた困っていないのかを把握しなければ、その人の出来ることまで奪って しまうことになる。  ところで、少し話はそれるが、私のバイト先にも様々な障がいのある方が お越しになるのだが、皆さん特別な日を楽しみにしてくださっていて、本当 に幸せな笑顔がたくさんあふれている。その姿を見ていると腫れ物のように 大事に、過保護にしてしまっては逆に失礼になるのではと思う。誰しも様々 な障がいが大小に限らずあるけれど、ただ一人ひとりに出来ることが違うだ けなのだと。固定観念や偏見の目を捨ててその人個人に接すること、普通と は何かを考えること。それが何よりも大事なのではないかと考える。なので そういう方を見かけてもあれやこれやと手を出す必要はなく、まずは声を掛 けてみる。「大丈夫です。」と言われたなら一旦引いて、また手伝いが必要な らば当たり前に手を貸すのだ。  それと同時に思うのは、私の周りには未だにスロープのついていない、階 段しかない場所が多くあることだ。それだけに限らずバリアフリー化されて いない場所だと障がいのある方々は行動範囲が制限されてしまって、外出を 楽しむような気持ちが半減してしまうのではないかと思う。そしてそれはと ても残念なことだ。特に、私の祖父母が住む所の最寄り駅ではホームを繋ぐ のは階段しかなく、足が不自由な方や車椅子の方、あまり体力のないお年寄 りの方、妊婦さんなどはその階段を渡るのにも大変な労力を要する。健常者 の私にとっても大きな荷物を持っていると不便なのだから、彼ら、彼女らの 苦労はそれ以上だろう。もちろん、今すぐにどうにかすることは難しい問題 だ。階段のことだけでなく、スロープやエスカレーター、エレベーター、広 い通路等々、設置するだけの土地や費用、時間だってかかるだろう。それで も私が想像のつかないような苦労や不便さを感じているであろう方々の悩み に寄り添えるような人間になろうと思うのと同時に、例え誰であっても暮ら しやすいような世の中になればいいなと思う。そこに健常者や障がい者の括 りがなく、不平等な世の中が少しでも平等に近付けば。例え一人ひとりは微 力でも、たくさんの人が思いやりの気持ちを持って手を差し伸べることが出 来れば、少しずつでも変えていけるかもしれない。そして本当にそれを実現 出来れば、もっともっと笑顔の輪が広がっていくことだろう。これが綺麗事 の理想だとしても、とても素敵なことだと思うのだ。  こうして改めて自分自身のことや周りの問題を考えて浮かぶことは、私自 身が他人事のように感じている悩みをまずは自分のことのように考えていけ るように、私自身が変わらなくてはならないということだ。ただ遠くから見 ているだけの傍観者にはならないように、誰しもがその問題の当事者である という意識を持って考えること。私はその誰かにとっての問題を自分のこと のように考えることが出来る人間になりたいと強く思う。もちろん、身体、 精神のどちらの障がいのある方々の苦労だって推し量れるように。  最後に、私は私の今までの考えを恥じると同時に、これからもこうやって 考え続けることが出来るようになりたいと思う。 成人を迎えて 菊田 智子  18歳を過ぎた私の長男は、今年の春から障害者作業所に通所しています。 障害名は、生まれつき重度の知的障害を伴う自閉症です。  4月に新生活がスタートしましたが、支援学校を卒業した前年度からの変 わり目が一番不安な日々でした。慣れない生活リズムについていけるかどう か…始まるまでの不安と緊張で落ち着かない日々。実は、息子よりも母親で ある私の方が不安なことに気がつきました。いざ、明けてしまえば大丈夫で あったように、息子には順応性があり大変立派だと思いました。同時にそれ は、受け入れてくださる施設側の対応も素晴らしかったのです。  作業所の中では一番若く、大人のなかま入りをした息子の姿が、私には急 に可愛く思えました。一ヶ月間、一日も休まず元気に通所し、翌月にいただ いてきた初任給。そのお給料はお小遣い程度ではありますが、受け取った瞬 間その現金の重みを感じ、初めて湧いてくる感情で胸がいっぱいになりまし た。有難く頂戴した毎月のお給料は、息子の好きな物に使おうと決めていま す。  子どもの成長を通して、私たち家族はこれまで何度も節目を迎えてきまし た。そのたびに感じる思いも様々ですが、これまでに子どもを通じて得た人 との出会い、そして繋がりの奇跡が、なによりの財産になっています。  この18年間を振り返ってみると、激動の通園施設での3年を経て、支援 学校小学部入学から中学部へ。そして高等部卒業までの12年間が、こんな にも早く過ぎ去るとは想像もつきませんでした。出来ることが増えれば喜び、 また後退したり、ゆっくり前へ進んだりの繰り返しです。その過程で、知り 合った先生方や先輩保護者さんが仰っていた言葉に、今となっては共感でき る部分がたくさんあります。障害の状態や程度は違えど、通過する道に通じ るものも多くありました。  子どもが学童期の間は、放課後等デイサービスなどの福祉サービスがと ても充実していましたが、大人になるとそうではなくなります。その変化を 受け入れることができるかどうかの不安や葛藤もありましたが、今では現実 を受け入れ、再び子どもと向き合うための時間ができたのだと思っています。 これから先、子どもの長い人生の中で、何が起きるかわからないながらも、 明るい未来を想像し、希望を持ち続けています。このような根拠のない自信 と前向きな気持ちは、息子と、これまで関わっていただいたすべての方から の贈り物です。  そして終活。まさか私自身が40歳代で終活するとは、思いもよりませんで した。きっかけは18歳で成人になるという法改訂でした。いつかは成人と なり、一人の大人としての責任が生まれるのだと、ぼんやり考えてはいまし たが、あっというまに目の前に迫っていました。後見人制度ってどういうも の?息子は、はっきりと意思表示することが難しいのでは?親権があるうち に親が出来ることは?など、急に私のやる気スイッチが入り、今できること をメモに書き出しました。任意後見契約や遺言書の作成を、自力で進めてい くにはあまりにも複雑な手続きでしたので、専門家の力を借りて手続きを行 うことにしました。この一件で、人生とはなにか?これからどう生きていき たいのか?など自分の気持ちと向き合い、両親と夫婦お互いの意思表示も確 認できたことが、何よりよかったと思います。  とりあえずという気持ちから始めた終活は、実際やってみると結果的に良 いことばかりでした。終活を通して気づいたことや、今まで考えもしなかっ たこと、自分の本当の気持ちや家族の思いなど…終活はとても明るいもので した。  また、余計な思考も捨てちゃえと思うようになり、過ぎ去ったことや起き てもいない未来のことを考え過ぎるのはやめました。こうなりたいというイ メージを持ちつつ、それに向かって日々行動し、何事にも一生懸命、今を楽 しみながら生きようという気持ちでいます。  そんな中、突然やってきた親の介護問題。コロナ禍もあって、突然気分が 落ち込み心身が不調になった実母。それまでは私も母を頼っていたため、はっ とさせられました。親がいつまでも元気で当たり前ではないことに気づき、 そして私自身にも同じことが言えます。はじめは、以前のように元気になっ てもらいたいと願ってアプローチしていましたが、時間が経つにつれ、そう 思うことを手放してみました。以前のように元気に!ではなくていい。今、 家族の協力があって生活できているのなら、もうそれで充分ではないのかと 思うようになりました。  コロナも以前よりは落ち着き、数年ぶりに友人と会う機会も増えてきまし た。誰にでも言えることかもしれませんが、すべて順調にいかない時もあり ます。私にはそれが、与えられた試練のように感じ、それならば今何ができ るかを考えるようになりました。たとえ失敗しても、また別の方法を見つけ ればいい。やりながら見えてくることもあるので、その都度試行錯誤してい こう。仕方がないことも一旦は受け入れる。そうすれば、きっとその先は大 丈夫なのだと思っています。  もしも、思いもよらないことが起きた時や、良いことやそうでないことが 起きても、どちらであってもいいのではないかと思います。変化を受け入れ、 上手くいかなければまた考える。決して諦めないで、すべての物事は自分の 行動で変わると心から信じています。 弱者と呼ばれてきたけれど・・・ 杉谷 昂律  私は児童心理カウンセラーというお仕事をしている傍ら、精神疾患を抱え、 精神療法を必要とした大学生から小学生の学生に対する自発性を育むことを 目的とし、その上で「自立性」と「自律性」を育み、社会復帰へ向けたソーシャ ル・スキル・トレーニングとしての「子ども討論会」という活動を2015 年度から行っておりまして、今回、その子らとの関わり合いの中で、私が彼 ら彼女らに対して感心した去年の2月の討論会でのエピソードについて書か せて頂こうかと思います。   「子ども討論会」は月に一度、「大学生と高校生の部」「中学生と小学生の部」 の二部に分け、それぞれ月毎に同じテーマを決めて 話し合い、私は児童心理学の研究として、その様子を見させて頂きながら講 義をしたり、フィールドワークをしたりしておりまして、これから書く日は、 コロナ禍でしばしばメディアで取り上げられた「弱者」というワードについ て、学生らに考えて頂いておりました。  このテーマを選んだ理由には、彼ら彼女ら自身が、世界的にはその部類に 入ると、認識していることや、その数週間前に、統合失調症のクライアント さんの付き添いで、某市役所内にある相談窓口で相談をした際に、その担当 してくれた方から、「あなたたちみたいな弱者は、人より劣っているから、 尚更気を付けないといけない。」と叱られ、クライアントさんが「でも、相 談してもなかなか時間をとっていただけませんよね?」と質問すると、「あ なたたちみたいな人に割くメリットがあると思いますか?どれくらいの人が ここに来るか分かっているでしょ?」と、怒られる姿を見て、私は殊更、世 間がいう「弱者」という言葉に関して、考えなければいけないと思ったから こそ、「子ども討論会」のテーマとしました。そして、彼ら彼女らにこの言 葉について考えてほしいと思い、自らが世間的にそういう目で見られている と感じているならば、しっかりと向き合わないといけないことでもあると、 感じたのです。  二部共に考えて頂いたのですが、両方を載せると長くなるので、今回は「中 学生と小学生の部」での内容を書かせて頂きます。 議論は最初、二部共、「障がいがある者や高齢者など含め、自らを『弱者』 と呼ばせる社会とは何か?」ということから始まりました。この「弱者」と いうワードは、いじめや差別に繋がるワードでありますから、最初は嫌そう な顔をする子もいました。  と言いますのも、参加した子の中には、貧困家庭をからかわれ、「生活困 窮者=弱者」だと、罵られたことで、PTSDやHSP(HSC) のため、 学校に行けずにいる子など、様々な理由から「弱者」に対するトラウマを抱 いている子がいますから、このテーマが重く自分にのしかかっていたように 感じます。ですが、その月のリーダーがその様子を見ながら、「あのよ、「弱 者」って、難しいやん。だから、「強者」から考えようや。」と、提案したこ とで、空気が変わり、彼ら彼女らは、「強者」について考えたのです。そし て「強者とは、偶像。強くありたいと思う心から強く作られたモノだ。」と いう子がいたり、「それじゃ、あくまで虚栄というのか、願望でしかないよ。」 と反論したり、「いやいや、それって、どっちも虚像で実態がなさすぎじゃ ない。」と、二つを否定する子がいて、最終的には、「強いとは何か?」とい うことについて話し合いました。そんな中、HSP(HSC) の子がボソッと 「強者って幸せ者なのかな?」と呟き、「僕は皆よりも弱者だと思う。けど、 家族がいるから幸せで、どうして大人は決めつけて区別するのかな?自分が 幸せならそれでいいのに、周りからは弱い人という認識を受けるのが、辛い …。どうしてそれを大人はわかってくれないのか?僕はそれがわからない強 者にはなれなくていい。」と言ったのです。  私は言葉を失くしたわけで、その子の言葉を聴いて、他の子たちが「私は いじめられて学校にいけないけど、こうして自分を変えようとしている。弱 くないと思っているし、むしろ強くあろうと頑張っているから、強者だって 言ってほしい。」や「僕は障がいがあるけど、そう思ってほしくないし、そ う思っていきたくない。」や「私は強者になりたい。強者だと言わせたい。だっ てバカにされたくないもん。リストカットとか自殺未遂とか色々と親や先生 に迷惑かけているけど、心配させてる分賢くなって自分の不安とか悩みとか 言える人になりたい。そして謝れる人になりたい。」など、自分の想いを吐 き出し、その上で、差別される、区別される対象ではないと訴えていました。  なんといいますか、彼ら彼女らと関わって数年が過ぎましたが、相手の意 見に従う子や自分の気持ちを吐き出せない子、抑圧されて育った子、自分の 存在価値を下げられた子らが、自分なりに考え、「自分はこう思う。」といえ るまでに成長したことが嬉しいわけで、彼ら彼女らがこのテーマで導き出し た解が「自分が『強者』だと思っている人ほど、相手の良さが見えず、劣っ ている存在だと決めつけるため、本当の意味での「弱者」で反対に、自分が 「弱者」だと思いながらも、それに負けずに前に進もうと行動している人こそ、 本当の『強者』だと思う。」と、私に発表してくれました。  私は介護職の経験もあり、今でも身体障がいの方や、神経発達の方たちと 関わり合いながら、心理カウンセラーとして、精神疾患や様々な悩みを抱え る方々と向き合い、共に考え、共に良くしていけるように、ケア等をさせて 頂く中で、人の強さ、美しさに触れているようにも感じられ、大変な思いや、 意思疎通における理解の難しさなども経験しておりますが、それでもなお、 彼ら彼女らと関われることに感謝している今日この頃です。 障がい者週間のポスター 目次 最優秀賞小学生部門 (大阪府)「みんなを大切に」 貝塚市立二色小学校 3年 藤川 奏沙(ふじかわ かなさ) (大阪市)「ろう学校」 大阪府立中央聴覚支援学校小学部 5年 野村 ひかり(のむら ひかり) 最優秀賞中学生部門 (大阪府)「助け合う世界」 羽衣学園中学校 2年 小林 碧海(こばやし うみ) (大阪市)「みんなの力で幸せを広げよう!」 大阪教育大学附属平野中学校 2年 木村 友千華(きむら ゆちか) 優秀賞小学生部門 (大阪府)「ささえ合おう」 貝塚市立二色小学校 3年 田邊 燈(たなべ あかり) (大阪府)「みんなで助け合おう」 貝塚市立二色小学校 3年 山口 彩夏(やまぐち あやか) 優秀賞中学生部門 (大阪市)「「誰でも出来る」が当たり前な世界へ」 大阪市立瓜破西中学校 2年 大内 琥雅(おおうち こうが) (大阪市)「みんなが楽しくくらせる社会」 大阪教育大学附属平野中学校 2年 引地 祐月(ひきち ゆづき) (堺市)「差別のない世界へ」羽衣学園中学校 2年 柿田 紗來(かきた さら) (堺市)「やめようながらスマホ」 羽衣学園中学校 2年 藤野 啓(ふじの けい)