令和4年度 心の輪を広げる体験作文 障がい者週間のポスター作品集 心の輪を広げる体験作文 目次 最優秀賞小学生部門 (大阪市)「ちがう立場で見た町の中」 大阪市立苗代小学校 6年 坂田 倫子(さかたともこ) 最優秀賞中学生部門 (大阪府)「貴重な経験と家族の想い」 関西創価中学校 1年 山本 凜華(やまもとりんか) (大阪市)「寄り添うということ」 大阪教育大学附属平野中学校 3年 夫馬 愛純(ふまあずみ) (堺市)「大好きなおばあちゃん」 大阪教育大学附属平野中学校 3年 引地 奏葉(ひきちかなは) 最優秀賞高校生部門 (大阪市)「障がいがある人と共生する社会を作るために」 関西創価高等学校 1年 松峯 奈穂(まつむねなお) 最優秀賞一般部門 (大阪市)「障がい者に対してできることは」 大阪医療技術学園専門学校 佐藤 そよ(さとう そよ) 優秀賞小学生部門 (大阪府)「ひいじいちゃんのお手伝い」 岸和田市立光明小学校 3年 和田 夏芽(わだなつめ) (大阪市)「車いす体験」 大阪市立苗代小学校 6年 坂田 律子(さかたりつこ) (大阪市)「ボランティアの助け」 城星学園小学校 3年 矢部 碧子(やべあこ) 優秀賞中学生部門 (大阪府)「いつもどおりの世界」 大阪府立中央聴覚支援学校 2年 佐藤 厚希(さとうあつき) (大阪府)「「障害」について考える」 関西創価中学校 1年 片寄 光彩(かたよせみさ) (大阪市)「「優しい」って」 大阪教育大学附属平野中学校 1年 近藤 歩果(こんどうほのか) (大阪市)「姉と私」 大阪教育大学附属平野中学校 1年 柳山 理緒(やなぎやまりお) (堺市)「共に生きる障がい」 大阪府立堺聴覚支援学校 1年 島 陽哉(しまはるや) 優秀賞高校生部門 (大阪府)「あの子の笑顔」 関西創価高等学校 1年 春日 悠里花(かすがゆりか) (大阪市)「普通」 英風女子高等専修学校 3年 吉田 杏華(よしだきょうか) (大阪市)「自分ができる事」 英風女子高等専修学校 3年 水野 風香(みずの ふうか) 優秀賞一般部門 (大阪府)「心のバリアをなくして笑顔いっぱい」 谷井 健児(たにいけんじ) (大阪府)「Aさんが教えてくれたこと」 山本 ひろよ(やまもとひろよ) (大阪市)「私の友達」 大阪医療技術学園専門学校 水本 七夕(みずもとなゆ) (大阪市)「障がいと生きる人と私」 大阪医療技術学園専門学校 渡辺 結(わたなべゆい) ちがう立場で見た町の中 大阪市立苗代小学校 6年  坂田 倫子  私は、今年の三月に足が痛くなりました。痛くなってから走れなくなり、急な坂や階段の上り下りができなくなりました。 薬を飲めば、平らな道で長くなければ、歩けます。  足が痛くなって私の生活が変わりました。電車の中は、長く立っていられず、席があいていたら、今まで座っていなかった優先座席にも座ります。 外では、エレベーターの使用が増え、車イスの利用をすることも出てきました。  私は、学校で校外学習に行きました。学校の車イスは低く、アスファルトからも熱がきて、歩く時よりも暑かったです。 家族で出かける時に、行った先で車イスを借りるようになりました。色々な場所で貸し出しをしてくれて、いいことだと思いました。 有料のこともありますが、無料の所が多く、車イスを持たずに出かけられていいと思いました。 車イスで動いて、今まで広いと思っていた道が車イス同士がすれちがうのにはせまいことがわかりました。 すれちがうのに、車イスを使いなれている人が道をゆずってくれたりします。 今まで、車イスの人に親切にしようとだけ思っていて、車イスの人からの親切に気が付いていなかったことに気が付きました。 また、車イスは方向転換が大変です。人がたくさんいて、気が付いてもらえないとひいてしまいそうでこわいです。 エレベーターに乗った時、鏡が無かったり、鏡の前に人が立っていると後ろが見えなくなり、こわいです。 入口と出口がL字型になっているエレベーターは、中で方向を変えなければならず、大変です。  階段を利用できなくなって、気が付いたことがあります。駅にエレベーターはありますが、場所が遠かったりします。 家の近くの駅は、エレベーターに乗るには、階段より遠くなります。初めての場所では、エレベーターの場所を探すのがむずかしいです。 校外学習の時は、迷ってしまい、みんなとはぐれてしまいました。 改札の中では、エレベーターの場所がわかりにくかったり、おくまったところや不便なはしの方にあることが多いです。 一駅先の病院に行ったとき、着いた先のエレベーターが病院とは反対のはしにしかなく、結局エレベーターを全て利用したら、家から歩くよりもたくさん歩くことになりました。  電車で立っていられず、座ることが増えました。ある日、優先座席に座るといやな顔をされたので、 大阪市のサービスカウンターにヘルプマークをもらいに行きました。そこに行く時も階段に比べて、エレベーターだとすごく遠回りでした。 ヘルプマークをもらう時、病名を聞かれず、安心しました。ヘルプマークをつけるのがむずかしく、苦労しました。 もう少しつけやすい方が良いと思います。一緒にもらったヘルプカードは、初めて知りました。色々なことが書けて便利だと思いました。  足が痛くなって、今までとは違う目線で周りを見ることが増えました。道はばを広くしたり、 アスファルトからの熱の反射を少しでも減らしたらいいと思います。 駅などは、エレベーターを増やしたり、分かりやすくしたら便利になると思いました。 見てわからない病気の人がいることも考えて、みんなが行動できたら良いと感じました。  私は、今も通院中で、病院の先生は、「きっと治る」と言ってくれます。治ったときに、今回体験したことを忘れないでいたいです。 貴重な経験と家族の想い 関西創価中学校 山本 凜華   私は、これまでに二人の障害者の人に出会い、沢山のことを学び、経験しました。  一人目は、祖母です。  祖母は五十四歳の時、脳梗塞が原因で全身不随になりました。 私は、小さい頃からベッドの上で寝たきりの祖母に話しかけたり、一緒に眠ったりしていました。 祖母は、声が出ず、いつも顔の表情や口の動きで感情を表していました。私が話しかけた時、反応してくれるとすごく嬉しかったことを覚えています。 家で介護されている時の祖母は、病院で入院している時より安心して落ち着いているように見えました。 入院していると夜は家族が帰ってしまうので、さみしそうでした。  祖母は、いきなり体が動かなくなってしまったので今まで当たり前に出来たことが出来なくなってしまったことにはかりしれない不安を感じていたと思います。 そんな祖母のことを祖父や母は、とても丁寧に優しく介護していました。 母は、家事や私たちのこともしながら、毎日祖母の様子を見に行っては、おむつを替えたりご飯を食べさせてあげたりしていました。 話すことが出来なくても周りのみんなが話しかけていると自然に笑顔になっていく祖母を見て、コミュニケーションの大切さを学びました。 言語障害があると「コミュニケーションがとりづらい」と思いがちですが、それは間違っていると思いました。  二人目は、小学一年生の時に仲良くなった友達です。  友達は、生まれつき体に力が入りにくく車イス生活をしていました。支援学級に入っていたので先生やクラスのみんなに助けてもらっているところもよく見かけました。 友達は、私達と同じ内容の勉強を同じペースですることが難しいので、別室で自分に合ったペースで勉強をしていました。 体のリハビリも兼ねて一緒にボール遊びをしたりダンスをしたりすることもありました。  クラスのみんなは、友達を助けたいという思いが強いあまり、何でもしてあげてしまうので、 友達は「自分で出来ることは自分でする」「すぐに諦めたりせずに挑戦する」ということを大切にしていました。 出来ないこともいくつかあったけれど何度も何度も挑戦して出来ることを増やしていました。 生まれた時から車イス生活だけど、まだまだ慣れていることよりも慣れないことばかりで大変だと言っていました。 辛くても毎日リハビリ教室に通っている姿を見て、自分たちが当たり前に出来ていることは、すごいことで幸せなことだと気づきました。 友達は、とても表情豊かで笑ったり泣いたり、話すことが大好きだったり甘えることが多かったり。そんな所も友達の良いところで素敵な個性だなと思いました。  二人を近くで支えてきた家族には、色んな感情があったと思います。 とても元気だった祖母がいきなり倒れて、母はどんな気持ちだったのか聞いてみました。  初めは、ショックが強く現実を受け入れられなかったそうです。 車イスでの生活すら想像できず、障害が残ることに大きな不安を感じていました。けれど、命に及ぶ病気だったので障害があっても、生きていてほしい。 障害があっても一緒にいれることが幸せだと気づいたそうです。 十四年間の介護生活を経て、祖母は旅立ちましたが、家族みんなにすごく貴重な経験をさせてくれたと思います。 友達の家族もきっとそれぞれが大切な経験をされてきたと思います。祖母のように、いきなり障害を持つ人もいれば、友達のように生まれつき体が不自由な人もいます。 その他にも様々な障害を持っている人が世界中に沢山います。私は二人の姿をみて感じた思いや経験を忘れずに、障害者の方に寄りそえる優しい人でありたいと思います。 寄り添うというこよ 大阪教育大学附属平野中学校 3年 夫馬 愛純  私にはずっと気になっていることがある。それは祖父母宅にある一枚の写真。見たことのない女の子の姿がそこには写っている。 ずっと飾られているのに話に出たことがない。なんだか聞いてはいけないことのような気がして、気づいていないふりをしていたが、今回勇気を出して母に聞いてみた。  「あ、この写真?お母さんの妹やねん。障がいがあってもう何年も前に亡くなってしまったんやけどな。」  私はとてもびっくりした。母に妹がいたことも、亡くなっていたことも。でも、思い当たることがあった。 母はよく困っている人に声を掛ける。大きな荷物を持ったお年寄りや、道に迷っている白杖を持った方、急いでいる時でも、立ち止まってしまう母を見て何でだろうと思っていた。  以前、車いすに乗った人が荷物を落として母が駆け寄って拾おうとした時に、 「触らないで!」 と怒られたことがあった。私はせっかく拾おうとしたのに、何で怒るのだろう、と少しモヤモヤした気分になった。すると母が、 「先に大丈夫ですか?拾いましょうか?って声をかければよかったね。知らない人に急に荷物を触られたらびっくりするよね。」と言った。  私はずっと障がいのある方や、お年寄りを見ると助けないといけない、という気持ちが先走っていた。 しかし、必要としていることは人それぞれで、自分の勝手な気持ちだけで行動してしまうと逆に嫌な気持ちにさせてしまう時もある。 自分が優しさだと思っていても、相手のためだと思っていても、嬉しいと感じる人ばかりではない。 知らない人に突然助けてもらうということはもちろん怖いと感じる人もいるだろう。 困っている人を見た時に、すぐに何かしてしまうのではなくその前に「大丈夫ですか?何かお手伝いできることはありますか?」と一言声を掛ける。 この一言だけでも印象が変わって、相手も話し掛けやすくなり、頼みやすいと思う。  ただ自分がその時に思ったことだけで行動してしまうのではなく、その相手に耳を傾け、寄り添うことが私は大切だと感じた。 それだけで自分も、相手も、心地よく過ごすことができる。そしてお互いに、嬉しい気持ちになれる。それはとても幸せなことではないだろうか。 大好きなおばあちゃん 大阪教育大学附属平野中学校 3年 引地 奏葉 「奏ちゃん、すごく素敵だったよ。曲の向こうに大きな草原があって草がなびいてた。」  祖母からのこの言葉が嬉しくて、喜びが胸いっぱいに広がりました。 「ばあちゃん、入っても聞こえないから、外で待ってるね。」  それなのに会場に入り、演奏を聴いてくれた祖母を舞台から見つけたときの驚きや安心感、それは今でも私の心に残っています。  祖母はほとんど聴力がありません。元々耳が強くなく、母が小さい頃からひどい耳鳴りを訴え、テレビの音もきこえにくかったそうです。 テレビ画面の字幕が登場し、音や声が視てわかるようになったとき、祖母は他の人と同じ内容を楽しめるようになり、とても喜んでいたとききました。  一方で、周りの人の何気ない会話に入ることができなかったり、内容さえわからなかったりする状況に、落ち込んだり悲しんでいたりしたそうです。  中には、そんな祖母に嫌な言葉を言ったり、笑ったりする人もいました。その雰囲気を感じとり、悔しくて物陰で泣いていたと母からききました。  自分が取り残されている疎外感を感じた祖母は、小さいスピーカーを手元に置きテレビにつなげたり、補聴器をつけたりして努力を続けていました。 ですが、もともと耳が弱い祖母にとって、それは耳に負担をかけることでした。  私が三、四才の頃から祖母と話す時は、わずかにきこえる右耳側からはっきり一文字ずつ高い声で話してきました。 ですが徐々に、内容が細かかったり想像しにくかったりするとき、私にとっては日常の話でも伝わりにくくなっていきました。 小学生になっていた私は、数回話したり違う言葉に置き換えたりしましたが、面倒になり話をやめてしまいました。 その時の祖母の困った顔は、今でも覚えています。私が成長するにつれ、祖母の耳はどんどんきこえにくくなっていることに、小学生の私は気づいていませんでした。  中学生になり、今は紙に筆談をして祖母と話をしています。祖母は紙をみて口で答えたり、紙に返事を書いたりしてくれます。 それを見て一緒に笑うその時間は、とても楽しく心が通じ合っているという感覚がありました。  十数年毎日、近況をファックスで送り合ってきました。他にも、月に数回届く祖母からの葉書で、祖母の存在が感じられ、いっぱいの思いをもらってきました。 物心ついた時からそうだったので、ずっとそれが当たり前だと思っていましたが、改めて考えてみるとそれはかけがえのないことなんだろうなと感じます。  最近の祖母をみて、「すごく心が強いのだな」と思います。  一緒に買い物に行ったときのことです。お会計のとき、店員さんが何か言おうとすると、 「ごめんなさい。私、耳がきこえにくくて。」と祖母がいいました。自分からそうやって伝え、堂々としているその姿を、私はかっこいいなと思いました。 耳がきこえにくいことを恥ずかしいと捉えるのでなく、それを自分としている祖母を、私は尊敬しています。  私にとって祖母は、優しく温かい存在です。耳がきこえていてもいなくても、大好きなのは変わりません。 昔、私が祖母に話をするとき、何度ききとれないことが続いても、必死にききとろうとしてくれました。  「コミュニケーションとは、心と心が通い合うこと」そして「生きる上で大切なのは自信を持つこと」。 この二つを私は祖母に教えてもらいました。これからの未来、私たちは色んな人と話したり接したりする機会があると思います。 どんな自分でも自信を持ち、皆が笑顔になれる社会を創っていきたいです。 障がいがある人と共生する社会を作るために 関西創価高等学校 1年 松峯 奈穂 私の妹には知的障がいと身体障がいがあります。妹は生まれてから医師に三万人に一人ともいわれる難病のピエール・ロバン症候群と診断されました。 ピエール・ロバン症候群は胎生七~十週に小下顎症、舌根沈下、気道閉塞、口蓋裂を連鎖性にきたす先天性疾患で合併症が多くあり、 その一つに心臓動脈管開存症という心臓に小さな穴が開く疾患があります。今も心臓に小さな穴が開いている状態です。  妹が出生当時、私は一歳だったため、今回母に詳細を聞きました。 出生時が一番の難所といわれるこの病気、生まれてからその後一歳になるまで夫婦で協力し、鼻から直接胃にチューブを入れて行う経管栄養を毎日五回していたそうです。 最初はなかなか鼻から胃へうまくチューブをいれることができず聴診器をつけて胃まで入ったかを確認しながら悪戦苦闘したようです。  一歳を過ぎてからは徐々に口から食べられるようになったものの、誤嚥等を含めた肺炎を起こし、入退院を何度も繰り返しました。 また、七歳の頃には左水腎症の大手術を二回しました。今は体も大きくなり、昔のように入退院を繰り返すことはなくなりましたが、 側弯症や発達の遅れ、様々な合併症があり、病院通いは尽きません。  母は病院通いに疲れていた時に、自らも障がいがあるお子さんを育てられた方が立ち上げた、『NPO児童発達支援デイサービス』を知ったそうです。 紹介を受け、立ち上げ当初より発達支援をしてもらえ、劇的に負担が軽減したそうです。 私はこの話を聞くまで、妹に障がいがあって、大変なことがたくさんあったということくらいしか知りませんでした。 この機会に妹の障がいや病気などについてたくさん知ることができて良かったです。 私は、児童発達支援デイサービスなどの障がいがある子供をサポートしてくれるサービスが拡大することが共生社会を作るためにとても大切なことだと思います。 そして、地域でもそのようなサービスの事を理解し、一緒に協力してくれる人を増やせれば障がいがある人と共生する社会を作ることができると思います。  とはいえ、私も時には妹の事をうっとうしく感じたり、気が付けば強くあたっていたり優しくしてあげられない時があります。 障がいのない人は障がいのある人の立場に立ってよく考えてみないと分からないことがたくさんあります。 妹は即座に物事を判断することが難しくゆっくりと時間をかけることが必要なのです。  そして、私の場合は妹が自分にない長所をもっていることに気付かされます。妹はいつもニコニコ笑顔で周りの人たちを癒しています。 周りにいるたくさんの方が口をそろえて「ニコニコ笑顔に癒されるわ~」と言います。ある意味ものすごい長所です。 共生社会を作るためには障がいがある人をよく理解することがとても大事だと思います。誰しもある日突然、障がい者になる可能性があります。 決して他人事ではありません。私が小学生の時にお世話になった塾の先生が面談の時に両親に言ったそうです。 「障がいがある家族がいるのは宝だと思います。いろいろな事を教えてくれる宝なんです。」正反対な事みたいに思われがちですが、よく考えると確かに宝の存在だと思います。  あらためて私はまず自らが、障がいがある人の差別を絶対にしないこと。 そして周りの人にも障がいについて知ってもらうことが大切だと思いました。 私は妹と生活していく中で障がいがあってもなくても出来ることと出来ないことがあり、それを否定するのではなく、支え助けていくことが大切だと教えてもらいました。 人として大切なことを教えてくれた妹にとても感謝しています。  最後に障がいがある人と共生する社会を作るために私には何ができるのかを考えて行動をしていきたいと思います。 障がい者に対してできることは 大阪医療技術学園専門学校 佐藤 そよ 「私の祖母は身体障がい者だ。生まれた頃から左手がなく手首までしかない。」  この言葉を聞いた時皆さんはどう思うのだろうか。 祖母に対しては「可哀想」、「不自由そう」と思うのだろうか、私に対しては「家族が障がい者で可哀想」とでも思うのだろうか。  私は今まで家族に障がい者がいて辛い、嫌だと思ったことは一度も無い。 もちろん、祖母に対しても障がいがあることに対して可哀想と思ったことは無い。  私の祖母は手先がとても器用で、料理や裁縫が得意だ。私が子供の頃にはリカちゃん人形の洋服を作ってくれたこともある。 昔は着物に関する仕事をしていて着付けもできる。両手のある私よりもできることや得意なことが多い。 そのため、ただ左手がないだけで可哀想だと思う要素が無かったのだ。  私が祖母に対して可哀想だと思わなかったことについてもうひとつ理由があると思う。それは日常を知っているからだ。 先程も述べたように祖母はとても器用で料理や裁縫が得意で私はそれをできることを知っている。 ただもし家族に障がい者がいなかったら、障がい者の日常を知らなかったら、私も障がい者に対して「可哀想」と思っていたのかもしれない。  障がい者に対して「可哀想」と思うことは悪いことなのか、私はそうは思わない。 なぜなら、身近に障がい者がいない人は特に日常を知らないからだ。何ができて何ができない、 何が不便で何が不便ではないかを知らないから健常者と比べて欠けている所を見つければ「可哀想」だと思うのだろう、それは仕方がない事だと思う。 だからこそ私たち健常者は障がい者一人一人に対して深く理解する必要がある。  それぞれの障がい者のできること、できないことは人によって違う。それは症状が同じでもだ。 祖母と同じ左手がない障がい者でも祖母のように料理はできないかもしれない。でも別の得意なことがあるのかもしれない。 人によって得意不得意がある、これは障がいの有無に関係ないことだ。  では、できないことがある障がい者に対してどう関わればいいのか。 それはできないことを全てしてあげるのではなくできないことをできるように一緒に考えてあげるのが正しいと私は思う。 例えば、私の祖母は支払いをする時に片方の手で財布を持って、もう片方の手でお金を出す、という行動ができない。 ではどうするのか、それはチャックやがま口の開くタイプではなくボタンなどの蓋がついている財布にするのだ。 ボタンの財布にすると、財布の蓋の部分を左手とお腹で挟んで持つことができる。  このように少し工夫するだけでできないことができるようになるのだ。 ただ、このような工夫の仕方を知らなければ全てしてあげようと思ってしまうだろう。全てをしてあげるということは悪いことではないと思う。 なんでもして欲しいと思う障がい者もいるだろう。しかし、できることをできないと決めつけられるのは気持ちのいいものではないはずだ。  障がい者と関わる時に一番大切なことは「聞くこと」だと私は思う。知らないことは悪いことではない。 大切なのは知っているか知らないかよりも知ろうとしているかしていないかだと思う。だからこそ「聞くこと」が大切なのだ。 何を支援すればいいのか、支援して欲しいことは何かを聞き理解することが私たちにできることのはじめの一歩だと思う。  私たちが障がい者に対してできることは援助ではなく支援だ。障がい者本人が望んでいることをするのが私たち支援者のするべきことだと思う。 身体障がいは肢体不自由、視覚障がい、聴覚障がいにわけられているが私は、同じ障がいというのはないと思っている。障がい者の数だけ支援の仕方があると思う。  私はこの作文を書くにあたって祖母にたくさん話を聞いた。祖母は昔、障がいのことでいじめられていたそうだ。私は祖母の魅力をたくさん知っている。 それなのにただ障がいがあるだけでいじめられていたと聞いて本当に悔しかった。 おそらく、今でも障がい者だということだけでいじめられたり、嫌悪感を抱かれたりすることが起こっているのだろう。 また、いじめたり嫌悪感を抱いたりはしていなくても障がい者のことを可哀想だと思っている人は多いだろう。 私はそのような偏見を無くしていきたい。私は心から思う。障がい者は可哀想ではない。 ひいじいちゃんのお手伝い 岸和田市立光明小学校 3年 和田 夏芽 ひいじいちゃんは人工とうせきをしていて足が思うように動かないので、11月末に玉ねぎのなえをお父さんとお姉ちゃんと植えるお手つだいをしました。 まず土を整えてから山を作っていきました。 次になえどうしが近くなりすぎないように気をつけながら一つ植えて一歩進みまた一つとどんどん植えていきました。 ひいじいちゃんに教えてもらいながら60こ植えました。とても大へんだったし、つかれました。 これを今まで一人でやっていたのがすごいと思いました。ぼくたちが手つだった事をひいじいちゃんはとてもよろこんでくれました。 「また来年も手つだってね。」 「うん。来年も手つだうね。」と言いました。 玉ねぎはどんどん大きく育っていきました。あたかくなってもう少しでぬけるねと話していましたが、体ちょうがどんどんわるくなり、ぬく前になくなってしまいました。 落ち着いてからお姉ちゃんとおばあちゃんとひいじいちゃんが言っていた事を思い出しながらぬいて根っこを切ってかわかしました。 かわいてから家に持ってかえりました。お母さんがそれを使ってりょう理をして食べました。おいしかったのでいつもよりたくさん食べました。 もうひいじいちゃんはいないけど、土のたがやし方や植え方や色んな教えてもらった事をわすれないようにして、またお父さんたちと植えたいと思いました。 ひいじいちゃんとは一しょにさん歩したりお話ししたり畑仕事をしたり、いちごやみかん、さくらんぼのとり方を教えてもらってとったりと、 たくさんの色んな事をさせてもらったけど、植えはじめからしゅうかくまでを全部したのははじめてだったので、とても思い出にのこっています。 車いす体験 大阪市立苗代小学校 6年 坂田 律子 一学期に学校で車いすの体験をしました。順番に押す人と乗る人の体験をしました。最初に説明を聞きました。 ブレーキをロックしないで乗ると危ないといわれました。車いすは乗るのも大変なんだなと思いました。 二センチメートルの段差を一人で越えてみてくださいといわれました。何でかなと思いました。  私は、先に乗る体験をしました。運動場で乗りました。初めは友達が押してくれました。 がたがたして少しいやでした。その次に高い段差を登りました。 前に登った子はガタンといって、「こわかった」といっていたので、心配でしたが、友達がやさしく押してくれたので大丈夫でした。 押し方によって、乗りごこちがかわるとしりました。そのあと、そこからおりました。後向きで下りるのでこわかったです。 次に、体育館で一人で二センチメートルの段差に挑戦してみました。初めは何でかなと思ったのに、何度やっても越えられませんでした。 すごく小さな段差なのに車いすにはとても大変だということがわかりました。できた人はクラスの数人で、びっくりしました。  その次に、押す体験をしました。みんなが押しているのを簡単そうだなとみていたのに、途中で友達を落としてしまいそうになって、 他の友達が、助けてくれました。押すのも、大変なのだとわかりました。  春に妹が足の病気になりました。この体験授業のあと、家族で美術館に行ったとき、妹が車いすを借りました。 車いすを借りるのが初めてで一緒に見ていたら、車いすを返しにきた人の道をふさいでしまいました。車いすの勉強をしたのに失敗してしまいました。 その人に「ごめんなさい」と言ったら笑顔でゆるしてくれて温かい気持ちになりました。入口のところは曲がり角になっていました。 いつものように、話をしようとして、車いすを押しているお母さんに近づいたら、車いすにひかれてしまいました。 車いす体験のとき、車いすは曲がるのにたくさんの場所が必要だとわかったのにすっかりわすれていました。次からは気をつけようと思いました。 車いすは階段がつかえないので、エレベーターを利用することになるので、遠回りになって大変だということにも気がつきました。  学校で車いすの勉強をしたのに、実際に町の中でそれを実行するのは大変だとわかりました。 学校で学んだことを活かせるようにがんばっていきたいと思います。 ボランティアの助け 城星学園小学校 3年 矢部 碧子 「おはようございます!」  それは夏休み、朝のテニスレッスンへ行くため満員の地下鉄をおりた時のことでした。 黄色いぼうしに黄色いTシャツの女の人が言ったのです。私はドキッとしました。 だれに言ったのだろう?と、あたりを見回すと、白いつえを持った男の人に言ったのでした。 その人はサングラスをしていて目のふ自由な人でした。その女の人はその人にそっと自分の肩をかし、階段を下りるのを手つだってのりかえのホームの方へ行きました。  「ボランティアの人だね。」と、お母さんが言いました。 目のふ自由な人が満員電車からおりてたくさんの人たちと次のホームへ行くのがどんなに危険で不安だろうか、そしてボランティアの人たちのおかげで安心できることを思いました。  私は小学二年生の時、クラスでアイマスク体験をしました。アイマスクをして友だちに肩をかしてもらい歩いてみましたが、 ふらふらして真っすぐ歩くのがむずかしかったです。そして、だんさをのぼったり、おりたりもしました。足があたりそうで、とてもこわかったです。 でも、アイマスクをはずしてだんさを見るととてもひくかったのでおどろきました。その時の体験は今でもはっきりとおぼえています。  街でよく見かけるエレベーターやポストの点字を私は目のふ自由な人にとってとてもべんりだと思っていました。 しかし、調べてみると目のふ自由な人で点字を読める人は、わずか10パーセントだと知ってびっくりしました。 音声の案内のほうが分かる人がたくさんいるということです。その事を知り、私たちにも出来る事があると思いました。  あの時、地下鉄の車内に目のふ自由な人がいる事に私は気がつきませんでしたが、 これからはこまっている人がいるかに気がつけるように、また助けることができるようにしたいです。 いつもどおりの世界 大阪府立中央聴覚支援学校 2年 佐藤 厚希 私は、難聴であり、普段は地域のクラブチームでサッカーをしています。チームメイトは、全員耳がきこえます。 私は、人工内耳のおかげでみんなと会話することができます。 しかし、合宿中や人工内耳の充電が切れてしまった場合は、きこえなくなってしまうので、会話が難しくなってしまいます。 だが、みんなは私の難聴を理解してくれているので、ゆっくり、はっきり話してくれ、メモやお風呂の時は、くもった鏡に文字を書いて話しかけてくれます。 普段の会話やミーティングは、コーチの横に行き、ききづらかった時は、マスクをその時だけ外してもらっています。 時には、聞き逃してしまう時もあります。その時は、後から友だちにきいて教えてもらっています。今までで印象的だったことが三つあります。  一つ目は、一つ上の学年の公式戦で初勝利がかかっている中、自分が決勝点を決め、残り十分の時、攻められているので、チームのフォーメーションを変えました。 その時、雨が降っていてきこえにくかったが、コーチが傘を使って「戻れ」という指示を出してくれたので、それに気づき、チームが勝てたことです。  二つ目は、公式戦に呼ばれたが、その日は運動会と重なってしまいました。 だから、コーチに相談をしに行ったが、周りがうるさくて、きこえにくかったので、 家に帰ってからLINEでコーチに「周りがうるさくて、きこえにくかったので、もう一度教えてください。」と伝えました。コーチはしっかりと教えてくれました。  三つ目は、試合前や試合中にチームメート同士でアドバイスや注意を話し合います。きこえにくかった時は、試合後にきいて、次の試合で生かせるようにしています。 私は、きき逃したり、もう一度聞きなおしたりすることが多くあります。  先日、私は友だちと一緒に友だちの知り合いのチームの練習に参加しました。そのチームは小学生のチームでした。 小学生の子どもたちは、「耳につけているのは何」や「イヤホンをつけているの」ときいてきました。私は、難聴を理解してもらえるようにていねいに伝えました。  大変なのは、サッカーだけでなく、塾の時もです。講師の声が小さく、周りの声が大きいのできこえづらく、ききなおそうと思っても、 まだ声が小さいので、繰り返しききづらくなってしまいます。その時は、学校の授業で理解したり、復習をしたりします。  私は、友だちやコーチに自分の難聴について理解してくれているから、サッカーも楽しくできているのだと思います。 子どもから大人まで、世界中の人々が難聴について理解していってほしいと願っています。 「障害」について考える 関西創価中学校 1年 片寄 光彩 私は夏休みに絵画の展覧会に行きました。すると、小学生くらいの女の子と女の子のお父さんの会話が聞こえてきました。 「これでも、高校生が描いたんやって。」 「そうやなぁ。いまいちやなぁ。」  私も近くで、同じ学校の絵を見ていました。並んだ絵画の上には「特別支援学校」と書かれた紙が貼ってありました。 「特別支援学校」とは「心身に障害がある児童や生徒が通う学校」だそうです。私の近くで話していた親子は障害者が描いた絵を見て言っていたのです。 「特別支援学校で描かれた絵」というのを理解していたのかは分かりませんが、私も一年前までは同じ気持ちで、目にも留めず通り過ぎていたと思います。  私は昨年の夏から半年間、入院をしていました。その時、生まれて初めて「障害者」と呼ばれる人とお話をしました。 中学二年生のお姉さんで、癌のため右足を切断したそうです。お姉さんは、いつも笑顔で看護師さんと一緒にリハビリを頑張っていました。 一歩ずつ、ゆっくりと足を踏ん張って歩いている姿に「しんどい思いをしているのは自分だけ」と後ろを向いていた私も、すごく勇気づけられました。  そのお姉さんは、今もまだ病院にいます。オンラインを通し、特別支援学校の授業を受けながら辛い治療と毎日戦っています。  私の入院生活は、とても辛くて、しんどい事ばかりでした。しかし、過去の自分と大きく変われた事があります。 それは「障害や病気を持っている人の立場になって考える」という事です。  展覧会に行った時、入院を経験した後の今の私は「特別支援学校」の皆んなが描いた絵をじっと見つめていました。 特別支援学校の生徒たちが描いた絵の前を通り過ぎていく人たちの会話を聞いて、胸がじわじわ熱くなっている自分がいました。  その一枚一枚の絵は、よく見ると私たちに何を伝えているのかが分かります。「幸せ」や「楽しさ」、「喜び」をお花畑や自分の自画像などで表現しています。  その中で一枚、気になった絵がありました。中学二年生の男の子が描いた絵です。真っ青な空の下、赤いスニーカーが芝生の上にきれいに並べて描かれていました。 私はすぐさま、病院で出会ったお姉さんの事を思い出しました。その男の子は「早く思いっきり走りたい!」という気持ちを絵を通して私たちに伝えているのだと思いました。  私は「障害者」を「障害を持っている人」という一言でまとめてしまってはいけないと思います。 「障害者」は、私たちより何倍も努力し続けています。あたえられた命を大切にするために。生きるために。  「障害」というものは、私たちに突然やってくるものでもあります。病気や事故で、体が不自由になる事もあるかもしれません。  突然、大好きだったスポーツができなくなったらあなたはどうしますか?突然、大好きな家族の顔さえも見られなくなったらあなたはどうしますか?  私は皆さんに一度「障害」について真剣に考えて頂きたいです。どんな人たちも、分けへだてなく生きていく事のできる、明るい日本の社会を目指して! 「優しい」って 大阪教育大学附属平野中学校 1年 近藤 歩果 私は小学校の時、何年か、障がいのある子と同じクラスになったことがあります。同じクラスになると、必ず先生は、「障がいのある子には優しく。」 と言います。もちろん、優しくしてあげると障がいのある子は安心するだろうし、嬉しいと思います。 でも、私は疑問に思ったことがあります。例えば、障がいのある子が何かに失敗したり成功したり、授業中発表したり同じグループになったりした時に、 周りの子が急に態度を変えて、やりすぎな優しさになる場面をよく見てきました。 そういう場面を見ると、私はいつも、本当に嬉しいのかな、どこか周りの子とは違う態度をされて、別の世界にいるような悲しい気持ちにならないのかなと思いました。  そして六年生。私のクラスには一人障がいのある子がいました。その子は人が沢山いる所が苦手で、学校に来ることはなかなかありませんでした。 しかし、ある日の六時間目に、その子が教室に入ってきました。こういう時、今までのクラスでは周りの子が、その子の所まで大人数で走っていき、 「おぉ!頑張ってきたな。」などの励ましの言葉をかけます。しかし、六年生の時の周りの子は、 「おぉ、今国語の授業、あと一時間頑張ろ。」と、普通に話していました。 その時私は、こういう、驚かず、態度を変えず、いつも通り話す周りの子の行動が、障がいのある子は一番安心できるのではないかなと思いました。 それからしばらくその子は学校に来ませんでしたが、修学旅行には来ました。私はその子と寝る部屋が一緒でした。 同じ部屋には五人だけでしたが、その子はとても緊張していたと思います。だからこそ私たちは態度を変えませんでした。 ルールを教えて、勝敗をつけてトランプで一緒に遊んだり、楽しく話したりしました。 その時、その子が言っていたのですが、その子のお兄ちゃんは二人とも中学校は障がいのある子だけが行く所に行ったそうです。 その話をしている時もその子は笑っていて私が嬉しくなりました。そして、修学旅行が終わり、その後、その子は修学旅行前よりも学校に来るようになりました。 私は何回か休み時間に遊びました。運動場で十人以上で遊ぶ時もその子は一緒に来ました。 その時その子の友達の障がいのある子が、その子に「教室で二人で遊ぼ。」と言っているのを聞きました。 すると、その子は、「大丈夫、この人たちは優しいから。」と言っていました。 その時私は、やっぱり優しすぎるということが優しいのではなく、いつも通り話すということが、障がいのある子は優しいと思ってくれるのかなと思いました。 そして、その子は卒業式も来てみんなで卒業することができました。  そして卒業後、みんなの卒業文集を読んでいると、その子の作文がありました。そこには、 「学校に行くことは苦手だけど六年四組は好きだったので、修学旅行にチャレンジしました。すごく緊張したけれど行けて良かったです。とても楽しい思い出が出来ました。」 と書いていました。また、その子はみんなと同じ中学校に入学したそうです。 それを知った時、障がいのない周りの子たちの普通に話そうという気持ちと、障がいのあるその子のそれを優しいと思ってくれる気持ちとが、輪を広げた気がしました。 姉と私 大阪教育大学附属平野中学校 1年 柳山 理緒 姉は障がい者です。発達障がいという障がいを持っています。なので、姉は中学三年生ですが、精神年齢はとても低いです。 いつも独り言を言ったりしており、すれ違うだけで周りとは違うと分かるくらいです。 そんな姉は好きではありますが、少し恥ずかしいという気持ちもあります。 特に今年はひどく、年齢的にもしょうがないのですが、外出先でイライラしたりなど情緒不安定になることが多くなり、外で姉と会話をあまりしないほど姉といることが恥ずかしいと感じます。 思い返すと、自分は最低だと思います。でも、とっさに自分を守るためにこのような行動を取ってしまいます。 私も中学一年生と、そのようなことを気にしてしまう年齢で、何度も親に呆れられます。 そして、先程も言ったように姉は今とてもイライラしており、自分のことを叩いたり泣いたりしています。 私はそのような姉を止める親をただ見ているだけでした。とうとう親も薬を飲ませようとか、そのような話も少し聞くようになりました。 お父さんは反対でした。私も反対です。この時、姉を心配しているのだと思いました。 姉とずっといるお母さんは疲れたからかもしれませんが、薬を飲ませたいらしかったです。これを聞いて怖くなりました。 薬だと、どんどん依存していきそうで、とても怖く感じました。 そのような思いが出てくるということは、ちゃんと姉のことを私が好きなのだということかもしれないと、最近思い始めてきました。  そして、ある日姉がいつものようにテレビを見ていました。その日は、昔の姉と私が写っていました。 一緒にピアノを弾いたり、おままごとをしたり、歌ったり、踊ったり、話していたりと、そのビデオの姉と私は笑顔でとても楽しそうに遊んでいました。 この頃の記憶は全くなく、楽しそうに遊んでいることが、今の私達を見ると想像もつかなかったです。見ていると、自然に顔が笑っていました。 そして姉を見ました。何に対してかは分からないけれど、姉もにこにこと楽しそうに笑っていました。 もしかすると、この時初めて姉と心が通じたことをとても実感しました。すごく嬉しかったことが印象に残っています。 前に、特別支援学校で初めて会った男の子が心を許してくれ、手を繋いでくれたときの感動した感覚と似た感覚で、なぜかとても心地良かったです。  姉は今でも精神状態は良くならず、親も大変そうです。これを機に、私も姉の助けになるようなことをしてあげたいと思いました。 勿論、障がい者だからではなく、私の姉だからこれからも助け合って生きていきたいと思います。 共に生きる障がい 大阪府立堺聴覚支援学校 1年 島 陽哉 僕には、聴覚障がいとその場の空気が読みにくい・友達の気持ちが分かりにくい・友達との距離感が難しいなどの特徴を持った障がいがあります。 そのため、困る事がたくさんあります。耳が聞こえにくいと、友達とのコミュニケーションが出来なかったり、家族の会話に参加する事が出来ません。 空気が読めなかったりすると、状況がつかめなくなります。 友達の気持ちや距離感が分からないと、余計な事を言って怒らせてしまったり自分の思った事ばかり話してしまったり近づきすぎて怒られてしまいます。  しかし、周囲の人達が僕の障がいを理解してくれたらもっとこの世界が生きやすくなります。聞こえにくい事に関しては、 出来るだけマスクを外して話してもらったりはっきり話してもらうように伝えて行きたいです。 そして、聞こえる人とも話が出来るようになったら嬉しいです。友達との関係は、自分自身が色々経験して、こんな時はどうしたら良いのかを覚えて行きたい。 それと共に友達に苦手な所を説明し、理解してもらいたいです。そうすれば、一緒に様々な方法を考える事が出来ると思います。  小学部の時は、よく興奮して周囲の友達に近づき過ぎたり、話し過ぎてしまいました。 しかし、担任の先生と相談をして、『お茶を飲む』、『深呼吸をする』、『離れた場所へ行って落ち着くまで待つ』などという方法を考えました。 そのうち担任の先生や友達も、「陽哉、落ち着いて。落ち着いて。」とか、「お茶を飲み。」と言ってくれるようになりました。 前はとても怒られていたので嬉しかったです。転校した中学部での今は、小学部と同じでまだ運動が苦手でした。 水泳の授業で全く泳げなかった僕に、先生が、「平泳ぎをやってみる?」と別の方法を考えてくれました。 何回も練習して、初めて10メートル泳げました。とても嬉しかったし、自分に自信が持てました。こんな風に変われると思います。  今は支援学校という小さい世界にいますが、これから先、高校や大学、そして社会に出た時、自分の事を周囲の人々にお願いしたい事をはっきりと言えるような強い自分になりたいです。 あの子の笑顔 関西創価高等学校 1年 春日 悠里花 「ここのチームひとり足りないんだけど、誰か入ってくれる?」 「はい!俺いきます!」 「ありがとう!」  今日は休み時間にクラスのみんなでドッジボールをする。私の小学校では“みんな遊び”といって、 ある一定の頻度で、クラス全員で休み時間に遊ぶというちょっとしたイベントがある。みんなで遊ぶなんて私にとっては煩わしいだけだけど。 「春日さんがあっちのチームにいってくれればよかったのにー。ねー!」  またこれだ。いつものことだ。きっと私にわざと聞こえるように話しているのだろう。  がまんだ、がまん。私は小学六年生のときにある女子達からいじめを受けていた。 受験生でもあった私は少しでも面倒くさいことは避けておこうといつも教室の端っこにいた。  なるべく目立たないように、存在を隠すように。  私の学年は、そしてとくに私のクラスは大きく分けて二つのグループに分かれていた。いわゆる陰キャと陽キャ。 陽キャグループの人たちは毎日王様ゲームでキャーキャー盛り上がり、陰キャグループは隅っこで折り紙をしたり、絵を書いて遊んでいた。 ついこの前までこういった環境が当たり前だと思っていたし、私も陽キャグループに入ろうと必死になっていた時期もあった。 でも、受験で塾に通うようになり、他校の子と友達になって初めて気がついた。私が生きてきたこの環境がどれだけ醜くて悲惨なものであったかを。 それから陽キャグループに入りたいなどというおかしな願望は一瞬にして消え去った。卒業して私立の中学に合格すればこの環境からもいじめからも開放される。あともう少しの辛抱だ。  私は毎日毎日、そう自分に言い聞かせてきた。そんなときだった。ひろちゃん(仮名)と出会ったのは。 「ゆーりーかーちゃーん!一緒にかーえーろー!」  ある日ひろちゃんにそう話しかけられた。  ひろちゃんは心にちょっとした障がいを抱えているらしいが、明るくて、行動一つ一つが本当に可愛かった。 彼女とは六年生になって初めて同じクラスになった。でも、初めて話した時はいじめや受験でゴタゴタしていて、ちゃんとはなすことができなかった。 その後、受験にうかり、いじめもピタリと止んだ。なぜいじめがなくなったのかは知らないけど、少し助かった。 でもやっぱり、昔から気の強かった私も、流石に何ヶ月も続いたいじめはこたえたようで、思い出すだけで涙が止まらなかった。そんなある日、私は見てしまった。  ひろちゃんのことをついこの前まで私をいじめていた女子のグループが掃除箱に閉じ込めるところを。 最初はひろちゃんが笑いながら掃除箱に入っていったから遊んでいるのかと思っていた。でも、その後、彼女たちは、ひろちゃんが入っている掃除箱の扉を ふさぎひろちゃんは泣きながら、やっとのことで掃除箱から出てきた。私は息が詰まった。先生に向かって、泣いて必死に訴えるひろちゃん。  でもひろちゃんをいじめた子たちは涼しい顔で「ひろちゃんが入りたいって言ったから入らせてあげたのよ。」と言っていた。 彼女たちの会話をちゃんと聞けなかったことと、ひろちゃんが笑いながら掃除箱に入っていったことで私も何も言うことができなかった。 いや、またいじめられることが怖かったからそう言い訳したかっただけなのかもしれない。  その時、私はとっても後悔した。どうしてひろちゃんを守れなかったのだろう、と。だから、私は決心した。 卒業するまでひろちゃんのそばにいよう。何があっても一緒にいようと。それから、私はいつでもひろちゃんと一緒だった。 学校にいるときも帰る時もいつでも。でも、そんなある日、私は気づいた。 ひろちゃんを助けようと始めたことだったけど、ひろちゃんと共に過ごすことで私の方が救われていたことに。  この一年間、本当に苦しかった。毎日毎日、汚らしいものでも見るかのような目つきで見られ、なにかと舌打ちをされ、プリントをぐちゃぐちゃにされ、 苦しくて辛すぎて、生きている意味すら見いだすことができなかった。  でも、何よりもつらかったことは、そばで手を差し伸べてくれる友達が一人もいなかったことだった。 そんな私に生きる希望を、喜びを教えてくれたのはひろちゃんだった。 どんなに、苦しいことがあってもどんなに悲しいことがあっても次の日にはけろりとして私に満面の笑みで話しかけてくれる。なんていい子なのだろうと心の底から思った。  小学校を卒業してもう四年もたった。ひろちゃんとはまだつながっていて、彼女は今、特別支援の高校に入学し、楽しく過ごしているそうだ。 私は今でもいじめられたときのことがトラウマで思い出すと涙が止まらない。  でも、同時にひろちゃんの笑顔を思い出す。あの純粋で一点の曇もないまっすぐな笑顔を。そうすると、私の心は軽くなる。  この体験から言えることはただ一つ。障がいがなんだ。普通じゃないのがなんだ。 現に私の身の回りでは、障がいを持っていないと言われる人たちのほうが心が濁っていた。障がいの有無の境界線なんて私にはよくわからない。 ただ純粋で心が澄んでいれば障害があってもなくても、その人は誰よりも素晴らしい、最高の人間だと私は思う。 普通 英風女子高等専修学校 3年 吉田 杏華 「普通って何。」  たぶん、きっと私には、いつまでも普通になんてなれない。いや、なりたくないのかもしれない。 辞書では、いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持っていないさま。と書いてあった。 でも、その普通に生きてる人なんて、どのぐらいなんだろう。人がどれぐらい集まれば、その普通がくつがえることがあるんだろう。  『障がい』そう聞くと、普通じゃないと思うことの方が多いと思う。だけど、障がいは、障がいでもいろんなものがある。 身体、知的、精神。人それぞれいろんな症状がある。それでも一括りに『障がい者』と、みんな呼ぶ。私だったら、耐えられるだろうか。 もし、身体に障がいがあり、それが生まれつきか、事故か分からないけど、車いすや白杖を扱うようになって、家から出たときの周りの視線。 どこにいっても、真っ暗で何も分からない恐怖。  例えば、朝の通勤、通学の満員の電車にいる車いすの方への冷たい視線。 信号の近くで、白状の方が少し危ない位置にいたときの、そこを通る車の人の顔、障がい者雇用という明らかな健常者のようには、してもらえない現実。 私だったら、きっと自分を責める。私があの時、あそこにいなければ、生まれてこなければ、迷惑かけずに済んだのに。なんで。なんで。なんで生きてるんだろう。と思うんだろう。 でも、日本には、国民の6%もいる。いるということは生きているということ。私には、到底まねできない。もういいや。と自暴自棄になると思う。 だからこそ、その普通なら味わうことのなかった、いろんな苦しみや試練があったとしても、頑張ろうと前を向いて生きていける人を、この前、テレビで見ることができた。 それは、パラリンピック。パラリンピックとは、身体障がい者の総合的な国際スポーツのこと。見たとき、ほんとうに目を疑った。 足のない、ほぼ上半身だけの人たち同士で車いすに乗って、バスケをしていた。選手のみなさん全員が真剣で、かっこよくて、日本を代表して戦っている。 一瞬にして、涙があふれた。いつのまにか、テレビに向かって、 「がんばれー!!あともう少し!」と声を出しながら、祈っている自分がいた。 気になって、調べてみると、コートの広さもスリーポイントのライン、ゴールの高さ3.05メートルも通常と変わらない。 しかも、車いすなので低い位置から、上半身の力だけで打たなければならない。 小回りが利きやすく、激しくぶつかってもいいように、バスケットボール専用の車いすで、タイヤがハの字なっているとはいえ、相当な腕の力がいる。 とてもじゃないけど、私には、できない。そう思った。そこまで頑張れない。 前を向かなきゃ向かなきゃってあせれば、あせるほどできなくて、そんな自分もいやで、もっと自分を嫌いになるだろう。  しかし、彼らは、前を向いて車いすバスケットボールという競技で、周りにも勇気をあたえられる。そんなすごい人たちが集まっているんだと感動した。 普通にはならないといけないと思っていたけど、普通じゃなくても、普通じゃないなりに、自分の道を見つけて、 だれかに憧れられるような存在になれるように、頑張って、限られた時間でどれだけ自分を好きになれるか、だと思う。 だから、普通じゃなくても、自分を好きになれる方法はいくらでもあるんだと気付かせてくれた彼らのような障がい者の方々を、 きびしい目で見るのではなく、生きているだけで尊敬の眼差しで見られるべきだと思うから、勇気をもらった分、自分なりにがんばろうと思う。 自分ができる事 英風女子高等専修学校 3年 水野 風香 私は、昔から惹かれる事があります。それは、手話です。手話とは、聴覚障がい者と言われる耳の不自由な方々が会話する際に用いるものです。 手話は、手や指だけでなく、視線や眉、顎の引きだしを使って話します。  私が小学生の頃、好きなアーティストが手話ができることを知り、手話のことを知りました。手話が出来るってすごいな、かっこいいなと思っていました。 それがきっかけで、手話に惹かれました。私は、耳が聴こえない生活をしたことはありません。 もし自分が障がい者になると思うと、毎日が恐怖になると思いますし、人生投げやりたくなると思います。 そんな中で一歩一歩前を向き、歩いている方々が本当にかっこいいと思っています。  そんな中で、あってはならないのは、「差別」です。テレビでしか、差別やいじめという状況をみたことがありません。 この作文をきっかけに障がい者差別に当たる事例を調べてみました。 あるスポーツ施設や観光名所などに行くことを拒否されたり、習い事での普通の子との差別などが多くみえました。 私は想像以上に過激で、鳥肌が立ちました。差別があるという事実がとても悲しいです。  それで、私は差別がなくなる方法を考えてみました。まずこの世には色んな障がいがあると思います。 私たちが当たり前のことが病気であったり、怪我であったり、お母さんのお腹の中での成長時における何かの原因でその機能の一部が働かない人たちのことを身体障がい者といいます。 他にも、うつ病などの精神疾患によって正常な精神状態を保てない精神障がいの人や通常発達できるはずの発達度合いを満たすことができない発達障がいの人、 脳の活動において一部欠損していたりなどの原因からの知的障がいの人、大きく分けても、多種多様にあります。 人々によって、人に求めているのも違うと思いますし、特別扱いを好まない人もいると思います。 ですが、私は健常者も、障がい者も、チャレンジすることはとても大事ですし、素敵なことだなと思います。 なので、障がい者だからスポーツができない、観光に行けないなどのチャレンジすることを、拒否すると言うのは、とても残念だなと思いました。 物によっては、一人で出来ないチャレンジがもちろんあると思います。まずは、周りからの理解が必要だなと思いました。 理解を増やすには、やっぱり小さい頃からの教えなのかなと思います。 今の時代、良くも、悪くも、色んな考えをすぐに発信できる時代、うまくSNSを使い理解を増やすというのも1つの対策かなと思いました。  最近、毎朝学校に行く時に、目が不自由な方を見かけます。その方は、電子メガネをつけており、白杖を持っています。 私がいつも乗る駅は、とても人混みで、朝の通勤ラッシュの時は、とても混んでいます。そんな中で、いつも、その方は、誰かの肩を持っています。 多分、色んな人が肩を貸すんだと思います。その光景をみていると、毎朝、今日も平和だなと感じます。私もいつか、困っている人を助けたい、手伝いたいなと思います。  その平和な光景を逆になんでこんなことするんだろうって思うこともあります。 点字ブロックに荷物をおいてしまったり、電車やバスなどの優先座席で大きな声で電話したり、とても、考えるべき行動を見ることがあります。 私は一回考えるべきと思います。なぜ、点字ブロックがあるのか、なぜ、普通の席と優先座席の2つがあるのか、考えるべきだと思います。 最近では、バリアフリーというのがあります。バリアフリーとは、多様な人が社会に参加する上での障壁をなくすという意味です。 安心して自由に生活をするために、建物や交通機関などで使われています。 それこそ、先ほどの、点字ブロックやバスや電車などに使われている優先座席、他にもエレベーター、電車のホームの端にある、線路への転落を防ぐホームドアなどがあります。 バリアフリーもありますが、心のバリアフリーというものもあります。私も調べて初めて知りました。 「私ができることはありますか。」「何かお困りでしょうか。」などきいてみるということです。もちろん断られる場合もあると思います。 自分自身も、そういう場面になったことがないので、とても最初は怖いと思います。 ですが、一人ひとりがその心のバリアフリーを実践することで、バリアのない社会の一歩になりそうです。  改めて、調べてみたら、とても、あってはならない差別やいじめなどが目に見えて、存在することを知り、力になりたいと改めて思いました。 将来私は、接客業をしたいのですが、本格的に手話を勉強したくなりました。自分になにができるか、 この作文を書きながら考えていたのですが、手話を勉強し、何か心のバリアフリーに協力したいと思いました。 声をかけるというのはとても勇気がいることですが、もし困っている人をみかけたら、声をかけてみようと思います。将来、色んな人が生きやすい社会になりますように。 心のバリアをなくして笑顔いっぱい 谷井 健児 「ドスン」夜中にベッドから転げ落ちた妻。声をかけても反応が薄い。すぐに救急搬送。3人の我が子は状況が呑み込めていなかった。 「脳梗塞です。覚悟をしておいてください。」  搬送された病院で言われた最初の一言、まるでテレビドラマの中に自分がいるようであった。 何を言われているのかが分からず、自分の感情が追い付いてこなかった。救急措置で一命は取り留めたものの、危険な状態はなお続いた。 ICUでは、まだ星になるのは早いぞと、子どもの写真や動画を見せて励ました。混濁する意識の中、妻はしっかりと我が子を見ていた。 こんなことでママはいなくならない!ママは負けない!そんな表情に見えた。  懸命な処置の結果、倒れてから3週間後、ついに酸素マスクが取れた。その時の喜びは今でも鮮明に覚えている。 脳のおよそ3分の1が欠損したCTを主治医の先生に見せてもらい、「今、生きているのが奇跡です。」と告げられた。 きっと子ども達が、何か見えない力をくれたのだろう。家族のつながりと、妻の母親としてのパワーを感じた。 その後、懸命なリハビリを行い状態は日々改善されてはきたが、様々な後遺症が残ることになった。  『肢体不自由』主に右半身麻痺が残存した。右腕はもう二度と動くことがなく、右足も動きにくく、歩行には装具や杖が欠かせなくなった。 退院前にした外泊、数ヵ月ぶりに帰宅する我が家への帰り道、車中で「右手、動くようになるかなぁ。」「子どもを乗せて、自転車に乗れるようになるかなぁ。」と呟く妻。 私は辛くて、苦しくて、何も言えなかった。どう答えていいか分からなかった。  外出訓練時に、人ごみの中を歩行する訓練を行った。周りの人とぶつからないか、迷惑にならないかと不安でいっぱいになった。 しかし、いざ歩いてみると、周りの方が当たり前のように妻にぶつからないように気をつけて歩いてくれた。妻の周りだけ、人ごみがなくなった。 私は人の温かさを感じ、究極のバリアフリーを目の当たりにした。心にバリアがあったのは、自分自身だったのかもしれない。  『失語症』思うように言葉を発することができなくなった。話の内容は理解していて、受信はしっかりとできるが、発信が難しいというイメージ。 「えっとー」「あのー」と言葉が中々出てこなくなった。当初は、話そうとしても中々話せない妻に対して、「もういいわ!」とついカッとなってしまうこともあった。 妻の障害と向き合うことができていなかった。やはり自分自身の心にバリアがあった。 失語症は、言葉が理解できていないのではなく、頭ではイメージできている内容が言葉として表現できにくくなってしまったものだという。 それを学んでからは、妻の障害を踏まえた上で接することができるようになった。障害を理解すれば、障害は乗り越えることができると思う。 『高次脳機能障害』脳卒中や交通事故などで、頭の内外から脳に何らかのダメージを受けた方の多くが発症する障害。 見えない障害と言われ、日常生活では障害がわかりにくく、症状としても様々なものがある。妻の場合は、先の予定や見通しといった段取り能力が欠けた。 今、何をすべきなのか?の判断が難しいことがある。例えば、まだこれからすぐに洗濯物が出るのに、待たずに洗濯機を使おうとする。 これも当初は、「何故待てないのか。」と腹を立ててしまっていた。でも、この障害を理解すると、「ひとつひとつのプロセスを終わらせていかないと、 頭が満員になって処理能力が追い付かない。」と考えることができるようになった。障害の理解は本当に大切だ。とはいえ、日常生活において、 常に心にゆとりをもって障害と向き合い続けるのは難しいのも本音であった。  そんな中、福祉サービスの利用の助言を受ける機会があった。説明を聞いた時は、家族以外の力を使うことに抵抗を感じたが、 外出訓練時に感じた周りの人々の温かさを振り返り、自分自身の心のバリアを外して利用を始めた。ヘルパーさんと一緒に、妻は手料理を作ることに挑戦するようになった。 外出して美容院や買い物に行くことができるようになった。元通りの生活とまではいかないが、少しずつ、着実にできることが増えている。  作業所への通所も始めた。他の利用者さんや職員の方とのコミュニケーションを楽しんでいて、夕食時には、いつも妻がその日の出来事を楽しそうに話してくれている。 障害を家族だけで抱えるのではなく、心のバリアを外して周りに頼ることで、かえって妻の日常がより輝き出したのである。  このことから、障害と向き合うには、家族だけではなく、周りの人々=社会に頼りながら生活することが欠かせないと感じるようになった。 頼ることは決して恥ずかしいことではない。そして私自身、今は障害者の方とも関わる仕事をしている。 社会の一員として、当事者の支援はもちろん、その家族の方々も笑顔で生活できるようにしていきたいと考えている。 「みんなに助けられて、みんなを助ける。」これは、障害の有無に関わらず当たり前のことなのかもしれない。  最近、妻とランチをした。上手く話せない、身体を動かしにくいなど、様々にサポートが必要な状態ではあるが、今の私にとってそれはあまり重要ではない。 ただ、目の前に妻が存在してくれている。一緒にご飯を食べることができる。それが嬉しい。ご飯は、何を食べるか、ではなく、誰と食べるかが大切だ。 と言いながら、夫婦そろって大好物の鳥の唐揚げを笑顔でほおばった。 Aさんが教えてくれたこと 山本 ひろよ 大学に入るまでの私は「障がい者」と聞くと、「サポートが必要な人」と言うイメージを持っていた。 「障がいがある人も無い人も、同じ人間」そんな考えは、心のどこかで理想論だと思っていたし、実感が持てない考えだった。  私は「支える側」で、障がいがある人は「支えられる側」。そんな私の考えを根本から変えてくれたのが、大学時代に知り合ったAさんだった。  Aさんは、私が通う大学の近くで一人暮らしをしていた。生まれた時から脳性小児まひによる障がいがあり、車いすに乗り、1日24時間介助を受けながら生活されていた。  Aさんと知り合ったのは、Aさんが大学の授業で介助のボランティアの募集をされ、それに私が立候補したことがきっかけだった。 当時の私は福祉系の学科に所属し、将来に向けてのいい経験になればと思い、気軽な気持ちで立候補したのを覚えている。  ボランティアの内容は、日常生活に必要な介助全般。 一緒に食事を作ったり、トイレの介助をしたり、車いすへの乗り降りの介助をしたり、24時間介助が必要なため、泊りのボランティアの時は入浴の介助をしたりと多岐に渡った。  気軽な気持ちで立候補した私は、すぐに自分がいかに役に立たないかを思い知った。 介助の経験が無いことはもちろん、家事のスキルもろくに無い。特別なスキルはいらないと聞いていたが、本当に役に立たなかった。  そんな私が、おこがましくもボランティアとして活動できたのはなぜか。 それはAさんが全て、やり方を教えてくれたからだ。料理の仕方も介助の仕方も、障がいがあるAさん自身が教えてくれた。  Aさんは脳性小児まひのため、自分の意志で動かせる体の部分が限られているし、 身体の機能していない部分を機能している部分で補いながら生活されているため、身体への負担が大きい。 同じように座って息をしているだけでも、私より身体に大きな負担がかかっている。 そんな状態で、Aさんは、「ボランティア」の私に、丁寧に野菜の切り方から、おひたしの作り方、身体の支え方など、0から丁寧に教えてくれた。  ある日、Aさんが言った。 「あなたはボランティアとしてここに来てくれている。それはとてもありがたい。私はあなた達ボランティアがいないと生きていけない。 でも、あなたにボランティアをしてもらうために、私はあなたに全部教えなくちゃいけない。あなたより私はよっぽど料理が上手だと思う。 でも、周りから見たら、私は障がい者、あなたはボランティア。私は手伝ってもらう人、あなたは手伝う人。なんだか不公平だと思わない?」  そして、Aさんはこんな話もした。 「福祉の勉強をしているなら、私たちは、あなた達に、私たちと同じ場所に立って世界を見て考えてほしいと思っている。今のあなたはどこに立っている?」  ショックというよりはもっともだと思った。そして、ボランティアって何だろう、障がい者・健常者って何だろうと思った。  Aさんは自分で思うように身体を動かせない。でも私より料理だって掃除だって得意だ。  恥ずかしながら、その会話を通して、ようやく「障がいがある人も無い人も、同じ人間」という言葉に実感が持てた。  私には得意なこと不得意なことがある。Aさんにも得意なこと不得意なことがある。一人ひとり、得意なこと不得意なことがある。 ただそれだけのこと。そこに健常者とか障がい者とか、区別はいらない。  その後も私は、ボランティアを続けた。相変わらずいっぱい教えてもらったし、いっぱい怒られた。 でも前よりも、「Aさん」という人と向き合えている気がした。「障がい者のAさん」ではなく一人の人であるAさんに。  私は今、福祉の仕事をしている。仕事で、小中学校で福祉の授業のお手伝いをすることがある。 授業で子どもたちに伝えたいこと、それは私がAさんから教えてもらったこと。同じだということ。違うから支えあうのだということ。  この言葉を子どもたちに実感を持って伝えられる私にしてくれたAさんに、心から感謝している。 私の友達 大阪医療技術学園専門学校 水本 七夕 私が保育園に通っていた頃、とても仲が良い子はたまにしか保育園に来ていませんでした。  その子は私より背が高く、いつも手をパタパタさせて飛び跳ねていました。私と喋ることはほとんどなく、目が合うこともあまりありませんでした。 ですが、たまに、私の名前を呼んでくれていました。その時はとても嬉しく、笑顔になれました。これが唯一のコミュニケーションでした。  その子が保育園に来た時、いつから仲が良かったのか覚えていませんが、いつの間にか私たちは手を繋ぎ、一緒にいました。二人ではなく、先生と三人でいつもいました。  私たちは、会うとハグをしており、これが私たちの挨拶でした。ですが、力強い時や、首や肩を噛まれる時もありました。 暴れてしまったり、どこかへ行ったりしてしまうこともありました。その時私は落ち着かせたり、手を引いて、連れて来たりしていました。 そして、私はその子と話したかったので伝わりやすいように、ゆっくり話してみたり、色々と工夫をしていました。 私はどんなに痛いことをされても、なかなか伝わらなくても、どんなことがあろうとも大好きでした。  保育園を卒業し、小学校に上がる前に、その子の家族と、私の家族で集まりました。集まった理由は、お別れ会でした。 その子が引っ越しをするわけでもないのに、同じ学校に行くのに、と、私は思っていました。  小学校の入学式に、その子はいませんでした。私はとても悲しく、会うことも無くなってしまいました。  小学三年生になった頃、特別支援学校の子との交流会がありました。体育館で色々な遊びをするという内容でした。 そこに現れたのは背が伸び、手をパタパタさせて飛び跳ねている「その子」でした。わたしはこの交流会で、お別れ会をした理由、入学式にいなかった理由が分かりました。 今まで私は何も知らずに、分からずにその子と一緒にいたのです。  私のたまにしか保育園に来ていなかった、とても仲が良い子は特別支援学校に通っていました。  私のことはもう忘れていると思っていました。しかし、その子は、私の名前を呼んでくれました。私のことを覚えてくれていたのです。 私は泣きそうになりました。この交流会はみんながその子と仲良く遊ぶのがテーマだったのですが、私たちは一緒にいました。  私たちが会えるのは、二年に一回ほどで、学校の行事でしか会えませんでした。中学二年生の時、特別支援学校での交流会がありました。 この交流会はいくつものグループに分かれて、遊ぶというものでした。私はそのこと一緒のグループになりたいと願っていました。 たくさんのグループがあったのですが、奇跡的に一緒のグループになることができました。その子はまた背が伸びており、手をパタパタさせて飛び跳ねていました。 そこでも私たちは一緒にいました。  高校生になると、私たちはまったく会うことが無くなってしまいました。私はまたすぐに会えると思っていたのですが、なかなか会えず、この日まで来ました。  ある日の専門学校の授業で動画を鑑賞する機会がありました。その動画は、「その子」に似ている子の動画でした。私はこの動画でその子がどういう状態だったのかを知りました。 今までは何となくこういう感じと、大雑把に理解していたのですが、この動画で深く知ることができました。そして、また会いたくなりました。  今私は、昔の自分の接し方は間違っていたのではないのかと、悩む時があります。しかし、その時の「その子」の私への接し方を思い出すと、 私のことを信頼してくれていたのではないかと思えるようになりました。そして、言葉がなくても繋がるということを身をもって知ることができました。 向き合おうと努力することは相手にも伝わり、心が通じ合うことができるでしょう。私は昔の自分を誇りに思います。  これから私は、様々な方たちと接する機会が多くなると思います。 そのために、この体験を活かして、たくさん勉強し、しっかりと寄り添い、向き合っていける人になりたいです。 障がいと生きる人と私 大阪医療技術学園専門学校 渡辺 結 私の祖父は39歳の時に心臓弁膜症になり心臓の弁を人工弁に替え、障がい者手帳一級の交付を受けました。  この話は祖父が入院した時に母から聞いたもので、それまで私は祖父を少し人より体の弱いお年寄りぐらいに思っていたので、衝撃を受けました。 私は中学生、祖父は70歳のころでした。70歳であれば障がいがなくても体の不調は多かれ少なかれあるものですし、祖父もその程度だと認識していました。 ですが、以前から車に乗るときにシートベルトが装着できなかったり、MRI検査ができなかったりと様々な制約を受けていることは認識していました。  ある日、祖父から祖父の人生について話を聞くことがありました。私が医療系の学校に進学することを報告すると祖父から話してくれました。 祖父は障がい者手帳の交付を受ける前にも普通には働けない体で、10代後半のころにはリウマチを患っていました。祖父の話を聞いていると医療に対する不信感を感じました。 ですが祖父が今生きているのは医療のおかげであり、私は矛盾を感じました。 また、それと同時に医療に不信感を抱きながらも医療を受けることでしか生きることができない状態になった当時の祖父の気持ちを考えるととても苦しくなりました。 この時私は初めて自分が障がい者だったらと考えさせられました。障がい者は自分の意思ではどうにもできない、 自分の意思を曲げざるをえないことを障がいがあるということだけで負わされていると感じたからです。 当時の祖父は、生命を保つことと自分の尊厳を守ることの両立が難しい状況だったと思うのです。 祖父の話を聞いた後母からも祖父について教えてもらいました。母が見てきた祖父と、私の見てきた祖父は違う人のようだと思いました。 母が見てきた祖父は、同年代の人たちが働くなか働けていない祖父でした。また、入退院を繰り返すことにより身体的精神的辛さが見てわかるほどのものだった時期もあったそうです。 一方私が見てきた祖父は同年代の人たちが定年退職していたり、すでに亡くなっていたりするなかで私と遊んでくれる世間一般的な祖父です。 母と祖父の印象について話して、障がいの見え方はその人が持つほかの属性から大きく影響を受け、また与えていると感じました。 そして、自分が今見ているその人の状態がその人のすべてではないと思いました。  祖父の障がいについて知って以降、祖父と話すたびに障がいとは何かと思い、考えます。 祖父は私がメディアを介して見る障がい者と大きくかけ離れているからです。今日では、障がいを個性ととらえる考え方もあり、障がいをオープンにする雰囲気があります。 ですが、祖父は普段全く障がいについて話しません。私は祖父が話す、話さないを決めることを尊重したいですし、祖父の障がいとの向き合い方は世の中ではなく祖父に決めてほしいです。 それでも私に障がいのことを話してくれたのは嬉しかったです。  祖父の人生や、価値観のすべてを知ることはできないけれど、祖父や母の話を聞いて祖父が経験してきたことを共有することはできると思いました。 そしてそれは、祖父以外の障がい者の理解を手助けしてくれるものだと思いました。  祖父のように障がい者にも背景や価値観があり、それは千差万別なものだと思います。それと同じように障がいとの向き合い方も千差万別であると思います。 障がい者が障がいをどのように捉え、どのように生きるのかを私たちは尊重するべきだと考えます。 ですが、私が祖父に話してもらい嬉しくなったように本人から繋がりたいと思ってもらえることは心が温かくなるような素晴らしいことであると思います。  私が、個人を尊重したいと思いながらも繋がりを持つことに嬉しさを感じるのは人の温かさを信じているからだと気づきました。 これからもその温かさを大切にして人と関わっていきたいです。 障がい者週間のポスター もくじ 最優秀賞小学生部門 (大阪府)茨木市立穂積小学校 3年 道下 晴(みちしたはる) (大阪市)大阪市立育和小学校 6年 古大工 嵩(こだいくしゅう) 最優秀賞中学生部門 (大阪府)羽衣学園中学校 2年 神田 栞里(かんだしおり) (大阪市)羽衣学園中学校 2年 髙嶋 京音(たかしまけいと) 優秀賞小学生部門 (大阪府)寝屋川市立三井小学校 3年 大槻 陽咲(おおつきひなた) (大阪市)大阪府立中央聴覚支援学校 4年 野村 ひかり(のむらひかり) (大阪市)大阪市立塩草立葉小学校 2年 坂本 真葵斗(さかもとまきと) 優秀賞中学生部門 (大阪府)河内長野市立長野中学校 1年 森 悠仁(もりゆうじん) (大阪市)大阪市立堀江中ガッコ 3年 原村 美羽(はらむらみう) (大阪市)大阪教育大学附属平野中学校 1年 木村 友千華(きむらゆちか) (堺市)羽衣学園中学校 2年 南 史竜(みなみしりゅう)