令和3年度 心の輪を広げる体験作文 障がい者週間のポスター作品集 心の輪を広げる体験作文 目次 最優秀賞小学生部門 (大阪市)「困っている人を助けたい」 大阪市立苗代小学校 5年 坂田 倫子(さかたともこ) 最優秀賞中学生部門 (大阪府)「笑顔」 吹田市立第一中学校 3年 山本 澪(やまもとみお) 最優秀賞高校生部門 (大阪市)「心のつながり」 関西創価高等学校 1年 冨田 友里花(とみだゆりか) 最優秀賞一般部門 (大阪府)「モクレンの花」 宮地 伸治(みやち しんじ) (大阪市)「私の想い」 大阪医療技術学園専門学校 榮 ひより(さかえひより) 優秀賞小学生部門 (大阪府)「スーパーの車いす」 大阪教育大学附属平野小学校 5年 津吉 晃宏(つよしあきひろ) (大阪市)「障がいがある人とコロナ」 大阪市立苗代小学校 5年 坂田 律子(さかたりつこ) (大阪市)「しょうがいのある人ってどんな人」 大阪市立南大江小学校 4年 空門 ましろ(そらかどましろ) 優秀賞中学生部門 (大阪府)「特別なパン」 大阪教育大学附属平野中学校 2年 引地 奏葉(ひきちかなは) 優秀賞高校生部門 (大阪府)「幸せの形」 関西創価高等学校 3年 舟橋 清美(ふなはしきよみ) (大阪府)「共に歩む」 関西創価高等学校 1年 寺井 琴美(てらいことみ) (大阪市)「違いの共感」 関西創価高等学校 2年 山下 恵梨華(やましたえりか) (大阪市)「共に生きる高校生活」 大阪府立柴島高等学校 2年 村田 亜聡(むらたあさと) (堺市)「夏休みの思い出」 大阪府立泉北高等支援学校 2年 辻村 美久(つじむらみく) 優秀賞一般部門 (大阪府)「ヘルプマーク」 佐藤 能理子(さとうのりこ) (大阪府)「「聞く」ではなく「聴く」ことの大切さ 黒川 大樹(くろかわだいき) (大阪市)「大丈夫って何?」 大阪医療技術学園専門学校 三浦 智美(みうらともみ) (大阪市)「障がいを患って…」 大阪医療技術学園専門学校 三浦 日奈(みうらひな) (大阪市)「たろうくんのママ」 大阪医療技術学園専門学校 三野 萌(みのもえ) 困っている人を助けたい 大阪市立苗代小学校 5年  坂田 倫子  夏休みに、図書館に行くときに、区民センターのエレベーターのすぐ前に白いつえをついた人が立っていました。 その人は、友達を待っているとかではなく、困っているように見えました。そのときは、エレベーターは動いてはいませんでしたが、 もしエレベーターから周りをよく見ていない人が下りてきたらぶつかってしまいそうな場所でした。 私は、声をかたり、お手伝いなどをしようとしたけれど、声をかけられませんでした。 しばらくすると、その人は正面出入口の方に歩いて行きました。区民センターは、出入口が二か所あり、正面のみ音声案内があるので、 どちらかの出入口に行こうとして迷っていたのかなと思いました。声をかければよかったなと思いました。  その数日後、私は定期検診のために眼科に行きました。そこの待ち合い室で、白いつえをついている人を見かけたら、 どうしたらいいか書かれているものを読みました。それには、白いつえをついている人のお手伝いをするときは、 左から、「お手伝いしましょうか。」などの声かけをしてくださいと書いていました。大声を出したり、 とつぜん体をつかむのはやめましょうと書いていました。 そして、とても危険な状況のときは、大声で「そこの白いつえの人、危ない。」と言ってくださいと書いていました。図書館に行く前に覚えておけばよいと思いました。  その後、興味をもったので、白いつえについて調べました。 白いつえをついた人がつえを頭五〇センチメートル上げているときは困っていて助けを求めているときです。やさしく声をかけて下さい。 命の危険があるときは、前からでも、大声でさけんでも、うでをひぱっても、かまいません。これらのことを知りました。  次の週に地下鉄のホームに車イスの人がいました。私は、曾祖母が車イスで生活しているので、車イスが通るのに幅がいることや、 せまい道を通るのが大変なことを知っていたので、横によけて先に通ってもらいました。すると、相手の人がお礼を言ってくれました。 ただどけただけで何もしていないのにお礼をいわれて温かい気持ちになりました。  今まで障がい者の体験をしたり、学校で障がい者の人に話をきいたりはしましたが、 困っている人がいたら、どうしたらいいかなどは、知りませんでした。 そして、知っていたらできることや、知らなければ何かしたくてもどうしたらいいか思ってしまうことがわかりました。 大変だなと思うだけでなく、助ける方法などを知ることは、とても大切だと思います。  次は、白いつえをついた人がいたら、やさしく声をかけたいと思います。 また、他の障がいについても、困っている人がいたら、どうしたらいいか勉強したいと思います。 笑顔 吹田市立第一中学校 山本 澪  私には足が不自由で移動は必ず車いすが必要なおじがいました。 今は天国にいますが、彼はいつも笑顔で優しい雰囲気を持った人でした。 私は彼の怒った姿を見たことがなく、見た目はスキンヘッドで、急にいなくなったので今だに彼は仏だったのではないかと疑っています。  彼は私が生まれた時から車いすでした。車いすは小さい頃の私にとってかっこいい乗り物で、それを乗りこなす彼もかっこいいと思っていました。 私が大きくなり、車いすは歩行困難となった人が使う福祉用具と理解してからも、 彼のほとんど自分の力で生活する姿と明るい笑顔は、私に障がい者は決してかわいそうではないと教えてくれました。 しかし、そんな彼からも笑顔が消えた日がありました。それは、仏壇がある二階の部屋で法事をする日でした。 彼は車いすから降り、一生懸命腕力だけで階段を上ろうとしました。何度も何度も挑んでいましたが、結局上れず、彼は一階で待つことになりました。 その時、彼は隠しきれない悔しさが表情に表れていました。その日初めて、私は人一倍苦しいことを乗りこえてきた本当の彼を知った気がしました。  私は彼と過ごした時間から私たちと障がい者が共に生きていく上であるべき姿を学びました。 それは、支え合うということです。障がいをもった彼はこれまで、家族はもちろん医療関係の人など、たくさんの人に支えられてきたでしょう。 しかし、彼らも私と同じように彼の笑顔に元気をもらい、彼の明るさが心の支えになったことがあったと思います。 身体障がいを持っていない人達も決して完ぺきではなく、誰かの支えが必要だと思います。 だから私は、世界中の人達は障がい者の人達と支え合って生きていくべきだと思います。 そしていつか、障がいの有無に関わらず、みんなが、私のおじのような明るい笑顔で笑える社会になるように、私は彼の存在から学んだことを忘れないようにしたいです。 心のつながり 関西創価高等学校 1年 冨田 友里香  私には小学1年生からの友達でMちゃんという子がいました。  詳しい病名は分かりませんが、Mちゃんは歩けないし、話すこともできません。 体がとても小さくて、学校ではいつも特殊な形をした車いすにのっていました。  小学校に上がり、初めて出会った時、Mちゃんのとてもニコニコした笑顔が印象的でした。  私やクラスの子たちは、そんなMちゃんにすぐに話しかけに行きました。 会話することはできないけれど、私たちがそばに行って話しかけると「アー」とか「ウー」とか声を出して体全体で喜びを表現してくれます。  だれもが、そんなMちゃんのことが大好きでした。  運動会の徒競走の時は、Mちゃんのバギーを私が押しゴールしました。 Mちゃんが入院した時は、手紙を書きました。すると、Mちゃんのお母さんがMちゃんと一緒に鉛筆を持ち、返事を書いてくれました。とてもうれしかったです。  私たちの学年は、いつもMちゃんと一緒でそれは当り前のことでした。 中学校もMちゃんは私たちと一緒に地元の学校に進学しました。  その中学校は、私たちの小学校と近くのもうひとつの小学校が合併しています。 今までMちゃんのことを全く知らない新しい子たちと一緒に生活するので、 みんなMちゃんのことを受け入れてくれるかな?と少し心配をしていました。 でも、私の心配は不要で、その違う小学校の子たちもすんなり受け入れて、いじめる人もなく安心しました。  しかし、中学2年生の2学期私たちの学年は突然体育館に集められました。何だろう?と思ってドキドキしました。  すると学年主任の先生から「昨晩Mちゃんが亡くなりました。」との話がありました。  突然のことだったので、みんなハッと息をのみました。泣いている子もいました。 その先生が「みなさん、教室に戻ったらMちゃんにお手紙を書きましょう。」と言われました。 体育館からの帰り道、みんな黙って誰も話す人はいませんでした。  その日の放課後、先生は「お通夜があるので行きたい子は行って下さい。」と言われました。  Mちゃんと同じクラスの子は先生も一緒にみんなで行くのですが、他のクラスの子は行きたい子だけ、という感じでした。  私は違うクラスだったのですが、迷わず行くと決め、友達と3人で行きました。  行くと、Mちゃんのお母さんが「よく来てくれたね。」と言って迎えてくれました。部屋に入り、棺の中を見た瞬間、みんな涙が止まりませんでした。  その後も、修学旅行など何かあるたびにMちゃんにお手紙を書き、彼女のお母さんに渡しました。  卒業証書を彼女のお母さんが受け取りに来られた時、先生が私たちの学年が今でもMちゃんのことを思っていることを伝えると 「Mのこと、みんなもう忘れているかと思っていた!みんなまだ覚えてくれていたんだ!」ととても喜んでおられたそうです。  話せなくても、一緒に遊べなくてもなぜ、みんながMちゃんのことを大切に今も思い続けれているのかというと、 やはり言葉ではなく心で会話し、つながっていたからだと思います。  その頃の私たちは、Mちゃんの障がいなど全く気にしていなかったし、考えてもいませんでした。  人は、障がいの有無にかかわらず心で対話し、心をかよわせることができます。そのことを私はMちゃんとの出会いを通して感じました。  ヘレンケラーの言葉に「光の中を一人で歩くよりも闇の中を友人を共に歩む方が良い」とあります。  これから先、私にはさまざまな人との出会いがあると思います。障がい者の方との出会いもあるでしょう。  しかし、ヘレンケラーの言葉のようにどんな人ともやさしい心で共に歩いていける自分になっていきたいと思います。 そして、差別のない幸せな世界をつくっていきたいと思います。 モクレンの花 宮地 伸治  白い花が咲く。花びらが大きい。りんとしている。あっという間に散ってしまう。 モクレンの花。私がうつ病になり障がい者作業所に行っていた頃、ある女性の学生さんが実習に来ていた。 ワードを教えてくれながらいろいろな話をした。「私モクレンの花が好きなんですよ」と学生さんが言った。 私はどんな花か調べた。ちょうど咲いている時期だった。その学生さんは首に大きな黒いあざがあったが、 「私大きなあざがあるんですよ。ははは」と無邪気に笑った。女性なのに全然気にしていないことが意外だった。 実習が終わり学生さんは去っていった。モクレンの花はぱっと散る。美しさを見せびらかすことなく短命で潔い。 あざを気にせず、夢に向かう、あの学生さんのようだ。人との出会いは、時に人を救う。そして、時に人を踏みにじる。 人は、人生を山登りに例えることがある。平らな道もあれば、上り坂も。たまには谷もあるのかもしれない。 みんな人生という山を登っている。親から言わせると、私は手のかからない子だったらしい。 親は、子供が受験という山、就職という山、それに立ち向かうためにいろいろな装備を子に与える。 しかし、私にその装備は与えられなかった。衣食住は与えられたが、中学生の時から自分の人生の山を自分で登っていた。 金銭的に大学はあきらめ、工業高校に進学した。高校の授業料を親が支払ってくれたことにはもちろん感謝している。 高校を卒業し、親元を離れ、大阪の会社に就職し、会社の寮に入った。会社で待っていたのはパワハラだった。 仕事を教えてもらえず、毎日「役立たず、辞めてしまえ、おまえもバカなら親もバカだな」と怒られ続けた。 その頃から、うつの症状は出始めていたと思う。会社という山は厳しかった。会社を辞めたいと父に打ち明けた。 父は、3年間辛抱しろと私を叱った。私に逃げ道は無かった。私は自分の判断で会社を辞めた。そして新聞配達でお金を稼いだ。 新聞配達で数年たつと昼夜逆転で体調をひどく壊した。うつ病である。そして仕事を辞めた。 こうして普通の人の山登りルートから外れ、立ち止まった。病院の精神科に行き、障害者手帳をもらった。障害者の仲間入りである。 人生中途で障害者になると、正直大変である。何も分からなかった。この先の山は登れるだろうか、不安しかなかった。 親が優しかったなら実家に引きこもることも出来ただろう。親に理解が無かったことが私にとっては良かった。 実家ではなく、社会資源へと道を歩み始め、障がい者としての山を登り始めることになる。精神科の主治医は言った。 「宮地さんから働く気持ちを無くしたくはない。動くことで気持ちもつられて上がってきます。いくらでも協力します。」 それでまず、精神障害者生活支援センターに相談に行った。精神保健福祉士さんがよく話しを聴いてくれた。その人とは今でも交流が続いている。 ああ、こういう人がお母さんという人柄なのかなぁと心を動かされ、大阪のお母さんだと感じている。 とても苦しかった時、遺書のような手紙を渡したことがある。落ち着いた口調でこう言った。 「死ぬことは許しません。私が許しませんからね。」私の心が泣いた。うれしかった。 そして、作業所を利用し、生活リズムを身に着けることから始めた。その時に最初にふれた実習の学生さんにも会えた。 作業所に慣れると、次に就業支援センターに行き、企業実習をさせてもらった。 それから大阪市職業リハビリセンターで訓練を受けて、鉄道会社の特例子会社に就職した。 就職のゴールに思えたが、3年働いて、うつ病が悪化。退職する。再び、作業所に通所した。 そこから次に、A型事業所で2年働いた。ハローワークにも定期的に足を運び、同時進行で一般就労への就職活動もした。 そうして、現在の会社で採用となり、自社ビルの清掃業務に励んでいる。3年くらい続いている。 就職という山があるのならば、山のふもとから頂上のゴールまでよく登ったものだ。自分をほめてあげたい。 しかし、この山は、自分だけの力で登りついたわけではない。主治医、支援者の方々、私をサポートしてくれた人がいたからこそたどり着くことができた。 人は人に傷つき、そしてまた人に救われる。私を励まし背中を押し引っ張りあげてくれた人たちに感謝している。 うつ病になり、数十年普通の人とは違うルートで人生という山を登ってきたけれど、一生懸命頑張ってきた。 気がつけば、もう50歳。半世紀生きた。もう普通の人の2倍は生きているような気がする。もう十分生きたかな。明日死んでも悔いは無い。 そう思っていると、「死ぬのは私が許しませんからね」と大阪のお母さんに怒られそうだ。じゃあ今度は趣味で本物の山に登ってみましょうか。 50歳の記念、どうせ目指すなら、日本一高い山、富士山は。でも現実大変そうだ。 ならば予定変更、身近な所で、水族館でも行ってのんびりしよう。このくらいが今の自分のエネルギーに見合った自分へのごほうびだろう。  今年もモクレンの花が咲いていた。りんとして。そして潔く散った。数日後、薄い緑の若葉が品よく日光に手を伸ばしていた。 花は散っても、葉は命をつないでいる。私も、もう少し頑張ってみようかな。明日は今日となり、日々がつながっていくのだろう。 私の想い 大阪医療技術学園専門学校 榮 ひより  これは私の幼少期の想いを今思えばこうだったのかな、と十八歳の私が障害者との関わりについて考えたものである。  私は小さい時からマンションに住んでいる。同じマンションに同世代が多く、 当時は幼稚園が終わってからみんなでマンションの下の公園で鬼ごっこやかくれんぼ、体の動かして遊ぶことが定番だった。 ある日、今までは一番自分たちが年下だったその公園に一つ年下の子たちが顔を覗かせたのである。双子の女の子だった。 一人は自分たちと同じ二つの足で立っているが、もう一人は歩行車がないと歩けない子だった。 小さいなりに自分たちとは違うという違和感を覚えたのが今でも思い出せる。 「一緒に遊ぼう?」 と一番にその子に声をかけたのは私だった。その時は双子の子たちよりもその子のお母さんがすごくよろこんでいた。 幼稚園が終わった後、毎日のように遊んだ。歩行車で鬼ごっこもしたしかくれんぼだってした。夏は蝉を一緒に捕まえたし、冬は雪だるまを作った。 そんな日常が崩れ始めたのは私たちの学年が小学校一年生になった頃だった。 今までは普段から歩行車がないと歩けない女の子に心のどこかでみんなで違和感は覚えていたものの、あえてくちに出すことはなかった。 その理由は出会った時から歩行車だったからそれで慣れていたのかもしれないし、小さかったのでそんなこといい意味でどうでもよかったのかもしれないし、 あるいは自分の親から事情を聴いていたのかもしれない。日常が一気に壊れたきっかけはある男の子の発言だった。 小学生に上がった私たちは色んな子、いろんな環境から刺激をいっぱい受け、自分たちがどれだけ小さい世界で生きていたのかを思い知ったのである。 前ほどあそぶことが少なくなってきたものの、下の公園にはよく顔を出していた。その時に男の子が歩行車の子が寄ってくるのを見て、 「俺に近づいてくるな!」 と言ったのである。歩行車の子はしゃべることは出来ないが、普段からのお母さんの熱心な教育のおかげもあり、理解することはきちんとできる子だった。 頭もいいし、気が利くし、優しくて要領のいい子だった。 その言葉を聞いてその子は眉間につまんだ右手の二指の指先を当てて頭をさげながら顔の前に構えた右手を少し前へ出して申し訳なさそうな表情をしてその場を去った。これは “ごめんね” という意味を表していた。心臓がドキドキしながら見ていたのを覚えている。わくわくのドキドキではなく、悪いことがバレてしまったようなドキドキに似てたと思う。 その子がその場から居なくなるとその男の子を始め、隣にいた男の子その周りの男の子、その場の男の子たち全員が悪者を倒したかのように笑いあっていた。 今思えば少なくとも私を含む女子たちは 「近づくな」 なんて思っていなかったしむしろみんな妹をお世話するように慕っていたのだから追いかければよかったのだ。 だけど誰一人足が動かなかった。動かなかったというより動かそうとしなかった。誰もこの時は、この一瞬の出来事がどんなにその子をきずつけたか分かっていなかった。 それからその公園にもあまり行かなくなり、気づけば私たちは一年生の春休み、小学二年生になろうとしていた。 ということは、春から双子の女の子たちは小学一年生になるのだ。春休みに、自分の親、その双子のお母さんの集団がえらく盛り上がっているのをみつけた。 後から聞いてみると、歩行車を使っている女の子は障がい者手帳一級を持っていて、ふつうは支援学校でないと入学できないのだが、双子ということやその子の頭の良さ、 周りからの声や親の熱心な他の見込みにより、同じ市立の小学校に入学することが決まったのである。ただし、いろんな条件が付いていた。 例えば送り迎えは親がきちんとすること、体育はすべて見学、席は一番右の前で固定、休み時間は教室待機、など相当窮屈な条件ばかりだった。 下半身麻痺、言語障がいがある子が普通の市立の小学校の普通学級に通うというのはこういうことなのである。 今思うのは、これは合理的配慮と捉えられるのか、不当差別に当たるのかということである。私の今の答えは不当差別に当たるという答えである。  ここからは少し双子の親に直接聞いた話である。私が小学校三年生の時、この双子が小学校二年生に上がったとき、良いほうに事が動いた。 校長先生が変わったのである。それまでは普通学級に入れたことを後悔していたそうだ。 双子だからと出来るだけ同じようにすごさせてあげたい一心でこの小学校に入学させたが、 あまりにも他の子との差を実感させられる毎日、窮屈すぎる条件が逆にこの子に辛い想いをさせていると毎日家で自分を責める一方だったそうだ。 春、女性の校長先生が赴任してきた。この方はその時代には珍しく障がいに対してすごく理解がある先生だったと思う。 今までの条件をすべて排除してくれた。まず必ずしも親が送り迎えする必要はなくなった。晴れている日、いける!と思った日は同じマンションの子や自分の双子とくればいい。 「そんなのは慣れだからきっとそれが普通になる。」といっていたそうだ。 その他、体育は出来る程度で補佐の先生をつけてする、席は目悪いわけじゃないからみんなと同じように席替えをする、など合理的な配慮を行ってくれた。 でも、いきなりこうなったわけではない。春休み明け、私が小学校三年生のとき、全校集会が行われた。 その時校長先生がこの双子の子の名前と学年を出し、障がいの程度や、自分の障がい者に対する考え、 窮屈すぎる条件を付けられている現実、これからどうするべきか小学生の私たちに分かりやすいように説明してくれたのだ。 私は事前にこのことを聞いていたのでびっくりしなかったが周りの子たちがザワザワしていたのを覚えている。 そして先生の考えに賛成してくれる人は拍手して下さいという声と共に大きな拍手が体育館に広がったのを覚えている。 私がこの体育館でびっくりしたのはこのことではない。その拍手のあとに、当時一年生だった、 「俺に近づくな!」 と言い放った男の子がその全校集会でその場に立ち上がって大きな声で謝りだしたのである。 ひたすらごめんなさいといっていただけだったが校長先生やその双子の子の顔がほっこりしていたのを覚えている。 それから毎年学年が上がるたびに校長先生は同じ話をした。新一年生が入ってくるからである。 でも今思えばこれは新一年生のためだけでなく、私たちに初心を忘れさせないためであったのかもしれない。  こんな幼少期からの出来事を踏まえて私が一番心がけていることは身体障がい、精神障がい、障がいの有無に関係なくまず初めは顔を見て笑顔で挨拶をすることである。 これはこの校長先生の教えだった。この作文を書いて今の自分を見つめ返してみる。この、笑顔で挨拶だけは忘れたことがない。 ときどきマンションでみる歩行車の女の子は変わらず今も歩行車で歩いている。私も変わらず笑顔で話しかけている。 障がいをもっているからと言ってなにも変わることはない。一人の人間一つの心をもっていることに変わりはない。 私はこの考えを心の根っこの部分に植え付けてくれた校長先生に感謝し続ける。 スーパーの車いす 大阪教育大学附属平野小学校 5年 津吉 晃宏  お母さんと、夏休みにスーパーに買い物に行きました。 買い物が終わり駐車場のエレベーターに乗った時に、エレベーターに車いすのお兄さんも乗って来ました。 ぼくとお母さんは、お兄さんがエレベーターから降りた後に降りました。 車に荷物をつんで帰ろうとした時に、エレベーターの方を見ると、お兄さんが車いすから立ち上がっていました。車いすを直す姿でした。 その時、車いすに荷物が引っかかって困っているのがわかりました。お母さんとぼくは、車から降りて助けに向いました。 優先駐車場に停めていた車まで一緒に行きました。 全く話さなかったお兄さんが袋から買ったばかりのクッキーの箱を出して、「これ食べる!ありがとう。」と言ってくれました。 このスーパーには何度か来ていて、スーパーの車いすを時々使っていると、少してれた顔でお母さんに話していました。 ぼくは、安心した気持ちになりました。このスーパーには、優先駐車場があって、車いすが二台も置いてある。 誰が車いすを使うんだろうと思った事はあるけれど、乗ったり降りたりする姿を見たのは初めてでした。 スーパーの中で、買い物同行の支援を受けている人もいるけれども、ここのスーパーは、障がい者が一人でも買い物ができると安心しました。 身体障がいの方は、周りに迷惑をかけたくないと思っている人も多い様ですが、もっと周りにお願いしてもいいと思いました。 スーパーの車いすは、アコーディオンの様に折りたたみ式なのでコンパクトに収納できるけれど実際に身体障がいの方が利用するのは危ないと感じました。 お兄さんは、ぼくにクッキーの箱をくれた時に、自分のはずかしい姿を見られたと思ったかもしれません。 少し声が大きくなって「ありがとう!」と言ってくれた事が嬉しかったです。 ぼくは、大人を持ち上げる事は出来ないけれど、手伝ったり行動したり出来るので、これからも優しい活動を大切に続けていきたいです。 障がい者が積極的に過ごせる世の中であってほしいです。未来を作っていく、ぼく達が考えていきます。 障がいがある人とコロナ 大阪市立苗代小学校 5年  坂田 律子   私のひいおばあさんは、昔に病気をして、私が生まれる前から左半身が動きません。 去年の始めは、サービス付高齢者住宅で車イスとつえを使いながら、一人で暮らしていました。 去年、緊急事態宣言が出て外に出ることがなくなりました。リハビリも行けなくなりました。そして、一人で暮らすのが難しくなりました。  おばあさんの家は、階段しかないので、ひいおばあさんは暮らせません。介護付き老人ホームが見つかりました。 ひいおばあさんは、歯科に通っていて、そこに入るとコロナの予防のために、今は歯科に行けないといわれました。 そこで、歯科があって、リハビリもできる病院に入院することにしました。  病院ではソーシャルディスタンスのため、他の人と話したりできないし、感染予防のため家族も会いに行けないので、 今までメールを送ったら返事をくれていたのにくれなくなったり、調子が悪くなりました。 今年になって、月に一回病院のタブレットでオンラインで、話せるようになりました。  一回目は、元気ではなかったけど、毎月してたら、少しだけ元気になってきました。少しでも話すのは大切だと思いました。  家の近くに障がいのある人が作ったパンやクッキーを売っている店があります。前は日曜だけ休みでした。 コロナがはやって、閉まっていることが多くなりました。開いていてもパンは週3回しか売らなくなりました。 売る個数もへって、私が行く時間には売りきればかりになりました。 障がいのある人の仕事が、へってしまっているのではないか、心配になりました。 先日いったら、今までパンが一種類だったのに、二種類に増えていました。 パンを売らない日に新しいパンを考えているのなら、そこの人は出歩くことが減ったりしてないからいいなと思いました。  コロナのせいで障がいがある人は、特に、大変だとひいおばあさんを見て、思いました。  ひいおばあさんと会えるまでオンラインで話すときは話たいです。会えるようになったら、散歩に一緒に行ったり、遊んだりしたいです。 しょうがいのある人ってどんな人 大阪市立南大江小学校 4年  空門 ましろ   この作文は「しょうがいのある人とない人とのふれあい」というテーマですが、わたしはしょうがいのある人とふれあった事がありません。 十年生きてきてなぜ今までふれあった事がないんだろうと考えてみると、しょうがいのある人とない人が子どもの時から分けられていて、 そもそも出会う事が少ないからかなと思いました。  わたしの家の近くにちょうかくしえん学校があります。 選挙の時に行きましたが、ふんい気も良く、きっと良い学校なんだろなと思います。 せんもんの学校の方が設備や人を集められるだろうし、ちょうかくしょうがいの人はちょうかくしょうがいの人の文化があるって言われたらそのとおりです。 それでもわたしは、しょうがいがあってもなくても、全員地元の学校に行った方がいいと思います。 なぜかというと、大学や、大人になって働く時には一緒の社会で生きていかないといけないからです。 同じ仕事場にいなかったとしてもお客さんとして来る事はあると思います。 それなら小学校の時から、同じ教室で同じ授業を受ける方がいいのではないかと思います。  しょうがいがあるわけだから、何かに困っているのかもしれませんが、 会った事がないのでぐたい的に何に困っているのか、それとも困っていないのか、わかりません。 もし、授業が聞きとれないなどがあれば、声で自動入力できるパソコンを使って、先生はマイクをつけて授業をしたり、 ノートテイクのヘルパーさんに来てもらったり方法はいろいろあると思います。そうなったら、月に一回手話を勉強する授業が出きたりするのかもしれません。 そしたら令和生まれの子は全員手話ができるのがあたりまえになるかもしれません。  出会う事が少ないから、出会った時に、どうしたらいいんだろうって最初はかまえてしまう事もあるかもしれません。 でもきっと出会ってみたら「ちょうかくしょうがいのある人」と言っても、一人一人ちがう人なのかなというきがします。  わたしはいままで、ちょうかくしょうがいをもつ生徒も見た事がありませんが、しょうがいをもつ先生も見た事がありません。 コミュニケーションやトイレや食事などにサポートが必要な人も働きやすくなるように、仕事中でもヘルパーさんにきてもらえる制度になったらいいと思います。 特別なパン 大阪教育大学附属平野中学校 引地 奏葉 「ただいまー。」 今日は金曜日。母の声がきこえたら、私は玄関へと飛んでいきます。パンのいい香り。火曜日に頼んだパンが母の職場に届き、持って帰る日だからです。  私がこのパンと出会ったのは去年の秋でした。母の職場仲間の知り合いの方が働いているのだそうです。 「シンプルでおいしいな。」 それが、私がパンに抱いた印象でした。素朴でさつまいもなどを使ったかざらない味で、土曜日の朝食にのぼるのをいつも楽しみにしています。  夏休み、そのパンのお店が店先販売をしているとききました。私はてっきり宅配専門のお店だと思っていたので、母に誘われた時、驚きました。 一カ月に二回、店先でもパンを販売しているそうです。普段、パンの奥にある、つくっている人のことなんて考えたことがありませんでした。 どんな人があのパンをつくっているのだろう、と私は興味がわき、行ってみることにしました。  そのお店は、つむぎ福祉会の「そらまめ作業所のパン工房エピ」という所でした。 大阪市平野区にあり、私の通う学校から近いのですが、今までパン工房の存在を知りませんでした。新しいお店を見つけて、少し嬉しいです。  工房に行った日、実は悲しい気持ちでした。勉強がうまく行っておらず、嘆いたり自分の性格に落ちこんだりしていました。  工房を見つけて中に入ろうとしましたが、その扉は手動で開け方がわかりませんでした。 私がオドオドしていると、店員さんのおじいさんが私の様子に気づいてにっこりし、扉を開けてくださいました。 中には長机が一、二台おいてあり、色々なパンが並んでいます。その中にはいつも頼んでいるパンもあり、見知ったパンを見つけ、少し気持ちもほぐれワクワクしました。 「どれにしますか。」 お兄さんが声をかけてくださいました。私は、パン屋さんで店員さんに声をかけられたことがなかったので、一瞬驚いてから、いつも食べている好きなパンを選びました。  今度は、買ったパンをエコバックにつめようとすると、さっきのおじいさんが 「あっ入れますよ。」 と私の所に来てエコバックの口を開けてくれたのです。私は親切な店員さんだなと思いながら、お店を後にしました。 悲しい時に行ったこともあってか、そのやさしさはとても心に響きました。  世間では、障がいのある人を何もできない、と決めつけることがあります。 この工房では、毎朝、注文のあるパンを全て手作りして、宅配しています。この方たちは自分にしかできないことを実行しています。 暗い気持ちの時、その様な存在はとても大きく思えました。  この出会いで「シンプルでおいしいパン」は「あたたかくて特別なパン」になりました。  私は今、学校でSDGsについて学んでいます。この方々は「3.すべての人に健康と福祉を」と「8.働きがいも経済成長も」に取り組まれているなと思います。 パンを作り、働いている工房の方は、お給料でアイドルのコンサートに行くことを励みにしているそうです。 自分のしたいことを自分の手でつかもうと働く姿が輝いて思えました。  私も将来について考え、時々とても不安になったり悩んだりします。これから、そんな時、工房の方たちを思い出します。 自分だからこそできることを見つけて生きる姿を見習いたいです。  そらまめ作業所のみなさんへ。いつもあたたかく、美味しいパンをありがとうございます。秋の新作も楽しみにしています。 幸せの形 関西創価高等学校 舟橋 清美  デイサービス、ケアマネ、要介護1、聞き慣れない言葉が家の中で飛び交い、我が家の雰囲気は随分変わった。 そして、私の隣で「そうやったかな。」といつも呟いているのは私のおばあちゃんだ。 私の家族は今年の八月に、福岡に住んでいた祖母を迎え入れ、五人家族になった。  母の出身は福岡県。里帰り出産のため、私は福岡で生まれ、祖母のところには小さい頃からよく遊びに行っていた。 幼い私が感じていた祖母の優しさ、正義感の強さは今も健在だ。そんな祖母が認知症と診断されたのは約三年前。 肺炎を患っていた祖父が入院中、祖母は毎日病院に通い、退院すれば在宅介護と必死に向き合い祖父に尽していた。 そんな祖父を看取り、これからは自分の時間を生きていこうねと話してから少し経った頃だった。 祖母には私の母を含め四人の子供がいるが、それぞれ名古屋、札幌、大阪と離れた県外に住んでおり、唯一熊本に住んでいた次男も神戸へ転勤となった。 夫の死に続き、子供とも離れてしまったことが発症の引き金になったのではないかと考えられている。  私は、祖母と一緒に暮らすことに対して、単純に楽しみな気持ちの方が大きく、これからの非日常な生活に胸を踊らせていた。 しかし、祖母にとってはそうではなかった。方言もあり、土地も人も全く分からず、気候も違う。 半世紀以上住み慣れた土地を離れ、名古屋に来てから徐々に覇気がなくなっていく祖母を見て、やっと自分が同居について軽く考えすぎていたことに気づいた。  私も、県外の高校に通うために、親元を離れて寮生活を送っている。だから、周りに誰もいない空虚感や寂しさはとても分かる。 だからこそ、故郷を離れる祖母の気持ちを考えられなかったことがショックだった。 私自身、三年たってもなお、ホームシックになることがあり、誰でも自分の住み慣れた家を離れることは簡単ではないと感じている。 それでも今では私の第二の家であり、色々な思いが詰まった大切な場所になりつつある。  私の祖母は、認知症の中でも「アルツハイマー型認知症」に分類されるそうだ。私なりに頭では理解しているつもりだが、 実際に認知症について調べてみると、最後は家族の顔が思い出せない、徘徊、抑うつなどの言葉が目に入ってくる。 見たくない単語を見てしまった感じがして、すごく怖くなってしまう。母はときどき呟く。 「若い頃あんなに動いていたお母さんが、まさか認知症になるとは思わなかった」と。そう言っている母もいつかは認知症になるかもしれない。 色々な場合を想定しながら、「認知症」という脳の病気、そして大好きな祖母としっかり向き合っていきたいと思っている。  普段は、一階の部屋で静かに横になっていることが多い祖母だが、最近デイサービスに通い始め、生き生きしている。 初日に私を見るなり、「お留守番ありがとう」とニコニコした顔で帰ってきたときは、母と顔を合わせて笑い、また心から安堵した。 中学三年生になる弟もよく祖母に話しかけており、その姿から学ぶことも多い。家族の団らんの場では、 祖母を中心に話をすることが多く、前よりも家族の笑顔が増えたように感じる。 ケアマネージャーさんによると、近年では、親を介護施設に入れるだけで、それ以上は何も面倒を見ないという子供が多いそうだ。 そのため、私たちのことを稀に見る愛情に溢れた家族だと話していた。祖母の周りにこれだけ話しかけてくれる人がいたら、 脳の老化はあっても、認知が進むわけない、とまで言われ、祖母を引き取ったことが正しかったのだと思えた。 それと同時に、介護が必要な方でも、家族から十分な支援をしてもらえない場合が多いということに対して、何でだろうという言葉が何度も頭の中を巡った。 みんなが誰かのために尽くせるような、お互いを助け合えるような社会になればいいなと思った。  祖母と暮らし始めてからもうすぐで二週間が経つが、「介護」とは、全てを綺麗事で解決できるような簡単なものではないと痛感させられる。 短期記憶が難しくなり同じことを繰り返し話したり、デイサービスに行かない日は祖母も気分が落ち込むらしく、 毎日フルで働いている母のことを、「私を放ったらかしにしている」と言うことがある。その話を聞いた母は涙していた。 しかしその度にぶつかり合いながらも、祖母と向き合っていく母の姿は本当にすごいと思う。 母は仕事柄、もっと福祉を学ぶために社会福祉士を目指し今年から通信教育で学び寸暇を惜しんで勉強している。 そしてまた、そんな母を裏で支えている父の存在も不可欠だ。祖母が、携帯電話の充電器を私たちのスマホ用の充電器と間違えて差したため、 祖母の携帯が充電出来なくなったことに対し、父は、「おばあちゃんの部屋にスマホ用の充電器を差していたこちら側が悪いよ」と言った。 そんな風に言える父を心から尊敬した。  私の母は、前に認知症のことを「幸せ病」だといった。嫌なことは忘れるが、嬉しかった事や昔の記憶は消えない。 辛いのは周りにいる人だね、と。実際のところどうなのかは本人にしか分からない。 母が仕事でいない時に寂しそうにしていたり、「友達に会いたい」と呟いていたりする時もあれば、「私は幸せ者だ」とにっこり話している時もある。 きっとどれもその時々感じる本当の気持ちだと思う。私は、祖母に「ここに来て良かった」と心から思ってもらいたい。 祖母を通して今感じる事、それは母たち兄弟の仲の良さ、きっと祖母は愛情一杯育てて来たんだろう、と。 今はその恩返しとして祖母に一生懸命関わっている。観念ではなく実際に祖母と向き合う様になり、私自身見える景色と心のあり方が変わりつつある毎日。 これからも一つ一つ大変なことが増えると思うが、その度に新しい発見や違った角度から物事を見れる私になっていきたい。 認知症になった祖母に心から感謝出来る日が来るような気がしてならない。 共に歩む 関西創価高等学校 1年 寺井 琴美  私には生まれながらに体の機能に障がいがある友達がいる。 彼女はとても優しくて、笑顔が素敵で、思っていることはちゃんと伝えてくれる私の大切な友達だ。  多くの人が「障がい」と聞いてパッと思いつくのは、視覚や聴覚、内部障がいのことだったり、肢体不自由であることかもしれない。 では、そもそも「障がい」とは何か。「障がい」とは、「物事の達成や進行の妨げとなること。また、妨げとなるもののこと」と辞書に書いてあった。  確かに、私の友達は、歩くときは体重をかけられるように両手に登山用の杖を握っていて、階段の上り下りをするときは手すりが必要だ。 だから彼女はその場その場において、自分が動きやすいように自ら工夫している。 私は、彼女の工夫を最大限に生かせるように、移動するときの荷物を持ったり、人が少ない時に一緒に移動したりとサポートをする。  「障がい」が「物事の達成や進行の妨げ」であるということは、 背が高くて低い椅子に座ると腰が痛くなることも、背が低くて高いところにあるものに手が届かないことも。 人と話すのが好きで長時間沈黙の場に耐えられないことも、人と話すのが苦手でグループ活動が上手くできないことも、これらは全て「障がい」であるということだ。 このことを考えると、この世界に「障がい」がない人はいないのではないか、と私は思う。 でもその「障がい」は生きていく上でのただの「害」ではなく「個性」であると思う。 そしてその「個性」は一人一人違うものである。ということは、「個性」はその人の「特別」なものであると思う。 その時分の「特別」なものをどのように活用していくかで、その人の生き方が変わってくると私は考える。  中学校を卒業し、一週間がたった頃、離退任されるお世話になった先生方に挨拶をしに行こうと、 私と障がいがある彼女と、仲のいい二人の友達、計四人で中学校にいくことになった。 今まで障がいのある彼女は、家から中学校が遠いため、学校の行き帰りは車で送り迎えをしてもらっていた。 だから私たちは彼女と通学路を並んで歩いたことがなかった。高校に進学するにあたり、彼女は電動車いすを購入したという。 私たちは彼女の練習も兼ねて中学校までみんなで歩いて行くことにした。ルートを話し合いながらワクワクした。 「四人で歩ける」 そう思っただけで、幸せな気持ちになった。きっとこの道なら大丈夫だと皆が思った。 ところが、実際にその道を歩いてみると、段差が多かったり、坂があったりして電動車いすではとても走りにくい道だった。 私が何てことなく歩く段差や坂であっても、車いすの人から見れば、それを乗り越えるのはとても大変なことだということを、私は初めて知った。 本当に私たちは想像の中で「負荷がかからない道」を選んだ「つもり」だったのだ。  中学校からの帰りは、行きで気付いたことを考え、話し合い、別ルートを選んだ。途中でルート変更もした。 行きよりも時間がかかったかもしれないが、帰りの方が「スムーズ」だった。そして思った。 最初は上手くいかずにごめんねという気持ちになったが、彼女を含めて四人で話し合い、 工夫した時間が楽しく、それぞれの立場や考え方のアイディアが溢れていた時間だった。と。  私がこの体験を通して学んだことは、「自分」を含め「障がい」を持ったみんなが生活しやすい社会を、環境を、 みんなで作り上げていくことが大切だということだ。何を「障がい」と感じるかは、百人いれば百通りあるはずだ。 その障がいを上手くクリアして生きやすくするために、本人が声を上げやすく、また、周囲も共に考えて動く。 決して本人一人が頑張る事でも、周囲がこうしてあげたらいいんじゃないかと本人を置き去りにして「してあげる」ことでもない。 みんなで作り上げていこうという意識が、共に歩もうとする意識が、「障がい」があっても生きやすい社会にしていけると思う。 違いの共感 関西創価高等学校 2年 山下 恵梨華  「障がい」とは、なんですか。そもそもの「障がい」の概念がわからず、調べました。  障害とは、「ものごとの達成や進行のさまたげとなること、また、さまたげとなるもののことである。」 これはきっと「障がい」ではないと思いますが、どれだけ調べても、現状は曖昧にされたままでした。生まれつきの難聴や盲目は障がいのうちに入りますが、 交通事故による骨折、転んでできた擦り傷だって、「ものごとの達成や進行のさまたげとなる」ため、障がいになります。そんな屁理屈を考えると、 誰だって障がい経験者なのではないでしょうか。障がいを持つ期間は違っても、誰でも怪我はしたことあるし、病にかかったこともあります。  よく大人は言います。「自分がされて嫌なことは人にしてはいけない」と。みんな一度は障がい者になっているのに、 生まれつき障がいを持って生まれた人の気持ちはわからないなんてことないと思います。確かに、この痛みや苦しみがこの先もずっと続くなんて想像しただけでは計り知れません。 それを考えるだけでもいいと思います。共感できなくても、なかなか想像できなくても、相手の気持ちを理解しようとすることが大切だと思います。 つまり、大人から習った「自分がされて嫌なことことは人にしてはいけない」ということを忠実に守れば、障がい者差別はなくなります。  では、なぜ障がい者差別は途絶えないのでしょうか。原因は、環境です。これまで繰り返してきた「自分がされて嫌なことは人にしてはいけない」ということ、 大人に習ったはずが、大人は出来ていないのではないですか。電車でのマナーや行列の順番抜かし、大声で叫ぶクレーマー、タバコのポイ捨て、すべて学生の身近にあることです。 すると、電車マナーが悪い小学生、大声で笑い合う中学生、平気で順番を抜かす高校生、路上でたむろしてタバコを吸う大学生、すべて大人の鏡じゃないでしょうか。  私たち子供は、大人を見て育ちます。 大人同士の揉め合いをみて、喧嘩の言葉を使うし、車椅子で電車に乗車した人を白い目で見る大人のマネをします。それはなぜか。 子供は人と違うことを恐れているからです。でもそれは大人も同じじゃないでしょうか。  白杖を持っている人を見かけたら目を逸らし、体が麻痺している人には無遠慮に見つめる。それがみんなと同じことだから。 同じじゃないと何か言われるから、視線が痛いから。そうやって逃げて生きている大人がいるから子供が変われないのだと思います。  子供が変われなければ未来が変わらない、子供が変わるには今の大人が変わらなければならない。今の大人が変わるためには、子供の質問に答えることが必要です。 今の大人は、ちゃんと質問に答えないまま逃げていると思います。私も、わからないことはネットで調べることが普通になっています。 ネットで調べることも、ほとんどは大人が研究したり、考察したことで、「障がい」のように、曖昧なものばかりです。 子供は疑問でいっぱいなのに、聞いた大人は答えてくれない、それならネットで調べ、結局曖昧で思ったことはすべて匿名のSNSに書き込みます。 人と違うことは怖いから、顔も出さずに自分の意見を言いたいだけ言う、それが新しい差別の始まりです。 すべてを作っているのは、何も答えられない、曖昧にして逃げているだけの大人だと思います。  違いを恐れているのは、大人も、子供も、障がいの有無も問いません。特に障がいを持っている人は、 自分の障がいを隠して生きている人や、人との関わりを遮断している人がいます。それは、障がい者扱いをされたくないからだと思います。 人と違うことに後ろ指を指されたくないからです。 駅員さんに助けてもらわなくても大丈夫だと暴れる白杖を持った人、エレベーターのボタンを代わりに押されると嫌な顔をする人。 そんな方々も違いを恐れているのだと思います。だから「障がいを持っている人には優しくしなさい」なんて習ったこともできなくなります。 よって、私が考える障がい者差別の解決方法は、いろんな障がいを持った人と好きなことについて語ることです。 いろんな違いを持った人々の集まりなので、コミュニケーションをとっていくうちに違いを恐れなくなると考えました。  例えば、友人の中で抹茶が好きな人と苦手な人がいるとします。抹茶の好きな人からすれば、苦手な人の気持ちは考えられないだろうし、 逆に苦手な人は抹茶を好きなんて信じられないと思うでしょう。ですがもし、友人全員抹茶が苦手で、自分だけが好きだったら、なかなか抹茶の話なんてできません。  抹茶に限らず、アニメや釣り、ユーチューブでもそうです。でも、何十人と話し合っていく中でたった一人でも、好きなことが同じ人を見つけると、 「自分はみんなと違うわけじゃないんだ」と安心します。  障がいを持った人だって、持っていない人と同じように好きなものやことがあります。 だから違いを見つけるのではなく、重なる部分を見つけることが大切だと思います。  私達子供たちは、意外と自分の好きなことをオープンにしています。 SNSでの推し事、好きなストラップを付けたり、好きな芸能人の写真を待ち受けにしたりなどです。  大人はどうですか。大人も趣味や好きなことはあるはずです。自分の好きな事や思うことが人の意見を尊重しながら発信できる社会になれば、 誰もが生きやすい世の中になり、障がい者差別はなくなります。大人こそ、いろんな障がいを持った人と好きなことについて語ってほしいです。  いろんな考えの人と、語って、違いを知って、違いの共感をしてほしいです。そうすることによって、大人は変われます。子供がかわれます。社会が変わります。 共に生きる高校生活 大阪府立柴島高校 2年 村田 亜聡   昨春、ぼくは七年もの不登校生活を終えた。それから一年半、先生や友達に支えられ楽しく高校生活を送れている。  小学二年生の時、友達から暴力を含むいじめを受け、PTSDと診断された。 病気を回復させながら学校に通うために周囲の理解と配慮が必要になった。 いじめが原因ということもあり、ぼくが何に困っているかということの理解が正しく伝わらず、支援や配慮について周囲が理解してくれた時には、もう中学生になっていた。 僕がみんなの元に戻ることを目標に、主治医の助言を聞きながら先生や家族、支援者の方々に支えられて、ぼくは高校受験をした。 中学校生活では、自分のクラスで授業を受けたのは数回だったけど、いろいろな先生方がぼくのことを大事にしてくださったことで、自分の未来に自信が持てた。  高校生になり、多くの問題に直面した。ぼくにとっては、学校生活のほとんどが初めてだったからだ。 入学してすぐに、クラスの友達の前で自分のことを話す機会があった。最初に自分のことをみんなに話したことでとても楽になったのを覚えている。 わからないことや困ったことがあれば、先生や友達がいつも助けてくれた。思っていたよりも、上手くやれているように感じていた。  二学期に入ると、担任の先生から“通級指導教室”でコミュニケーションを学んだ方がいいとすすめられた。 自分なりに友達と上手くやれていると思っていたので、正直ショックだった。でも、思い返してみれば心当たりばかりだった。 例えば、グループワークの時時間内に答えを出さないといけないという焦りから友達の意見も聞かずに一人で勝手に決めてしまったり、 友達と休み時間に会話する時でも、自分の話ばかりをして人の話を聞かなかったり、考え事をしている時に話しかけられても気づかなくて何度も注意されていた。 友達に嫌われる前に気付くことが出来て良かったと心の底から思った。 そして、これからみんなと楽しく高校生活を送るためにも、自分が変われるところは変わる努力をしなければいけないと思ったし、 自分のことをもっと理解してもらえるように頑張ろうと思った。次の日、仲がいい友達に通級指導教室をすすめられたことを話した。 友達はみんなびっくりしていた。数十名の友達に自分の何がよくないのかを聞いてまわった。気づかないうちに嫌なことをしているかもしれないと謝った。 話しかけてもぼくが返事しないことについて指摘されることが多かったが、ぼくのダメなところも全て「亜聡らしい」と受け入れてくれていたことがわかった。 すぐに先生に反省文を書いた。これから、どう改善していくかも考えた。 自分だけでは気づけないことも多くあるので、みんなの助けをかりながら頑張っていきたいと思った。 そのことがあってから、友達も積極的にコミュニケーションについてアドバイスしてくれるようになった。 “こういう時はこう返事したらいいよ”とか“こうすれば、上手くいくよ”とか。みんなが当たり前に出来ることが、自分にとっては難しいことも多い。 それでもみんなと共に楽しく過ごしていくためには、自分の主張ばかりせず周囲の声をよく聞き、 自分にとって痛いことでも認めて受け入れて一緒に考えながら成長していくことが大事なのだと知った。 ただ、自分のダメなところを聞くのも受け入れるのも苦痛が伴うことだし、周囲の環境や理解も大事だから、全ての人にとってよい方法ではないのかもしれない。 でも、ぼくはこの事がきっかけで友達とより距離が縮まった。  二年生になった。ぼくの学校は“学校開き”という行事がある。それは、全校生徒の前で自分のことを話し、考えてもらうというものだ。 その話し手に僕ぼくが選ばれた。当日、とても賢張した。いざ話し始めると頭の中が真っ白になって原稿も上手く読めなかった。泣きそうになった。 なんとか、原稿を読み終えた時、進行役をしていた友達がぼくにグッドサインをしてくれた。ホッとして嬉しかった。 一年生の時の友達もぼくを心配してくれた。家に帰った後も、みんながメールで励ましてくれた。友達がいて本当に良かったと思う。  コロナ禍に高校に入学したので、入学式や一泊移住はなかった。文化祭も体育祭も簡単なものになった。 修学旅行の旅行先も変更になったが。それも未定の状態だ。それでも、ぼくは友達と過ごす学校生活が楽しい。 最近みんなから“成長したな”とよく言われる。PTSD症状がなくなったわけではないのでしんどくなることもたくさんあるけど、みんなと一緒なら楽しめると確信している。  俗にいう“目に見えない障がい”は周囲に理解されにくいと感じる。高校生活をみんなと共に過ごしていく中で強く感じたことは、 障がいがあってもなくても、“みんなでどう楽しく過ごせるか”という目線を常にみんなが持ち続けることだ。 ぼく自身、高校生になってたくさん困ったけど、友達もきっと、ぼくと楽しく過ごすためにたくさん困ったのではないかと思う。 共に過ごしていく中で、障がいの有無は関係なくみんながそれぞれのことを理解することが大事なのだと思った。 ただ、ぼくも最近、友達によく見られたいという欲が出てきて無理をしすぎたりもする。 そういう時は中学生の時、同じフリースクールで過ごした“場面緘黙症”の友達や“ASP”の友達と会って話をする。 PTSD症状が一番ひどい時のぼくを知っている友達だから、格好つけずにいろいろ話せるし、みんなもそれぞれの場所で頑張っていることを知ることで力がわく。  ぼくの経験が全ての人に役立つわけではないが、一人でも参考になる人がいたら嬉しい。  高校生活、あと一年半。友達に支えられながら、ぼく自身も役立てるように努力しながら楽しみたいと思う。 夏休みの思い出 大阪府立泉北高等支援学校 2年 辻村 美久  今年の夏休みで、私の楽しかった事を発表します。まず1つ目は、みんなでファインプラザでバスケットボールをしたことです。 私は運動が得意でスポーツも大好きです!スポーツの中でもバスケットボールが一番大好きで、 みんなでバスケットボールをした時も私のチームが勝ちました。とてもうれしかったです。  2つ目は、ゆかりの近くにあるグラウンドで、みんなで水遊びをしました。 私は服がぬれたくなかったので、見学してたけど、バケツに水を入れるお手伝いをしました。 みんなが楽しく遊んでいるので、すぐに水がなくなってしまうのでたいへんでした。 でもその間にもう1人見学しているお友達がいたのでそのお友達とキャッチボールをして遊びました。 そのお友達は野球が好きなのでとても上手でした。でも私は、野球がとても苦手なので、がんばって上手になろうと思い、毎日ボールをなげる練習をがんばっています。  3つ目は、みんなでマクドナルドへお買い物へ行きました。私は、最近マクドナルドを食べていなかったので、とてもおいしかったです。 私がマクドナルドの商品で一番好きなのは、フィレオフィッシュバーガーです。 私はお肉も好きだけどお魚も好きで、食べたいなと思ったので注文しました。久々なので、とてもおいしかったです。  4つ目は、みんなで自転車博物館へ行きました。私が見たことのない自転車やこれ本当に乗れるの? みたいな自転車がたくさんあって、乗ってみたいなと思いましたが、コロナ禍なので、体験がありませんでした。 初めて自転車博物館へ行ったので、とても乗りたくてでも乗れなかったのでとてもショックでした。 なので大人になったら私の友達とまた遊びに行きたいです。  5つ目は、みんなで和泉市にある青少年の家に行って川遊びをしました。 また服がぬれたくなかったので、最初は上で見学していたけど、とても気温が高かったので、とても暑くて、がまんできず足だけつかりました。 水に入った瞬間とても体の温度がさがってきもちよかったです。今度は水着を持って行って、泳ぎたいです。  6つ目は、みんなで、リス園に行きました。 みんなは、はじめてだったけど、私は小学生の頃に行ったことがあり、なつかし~と思いながら、リスやモルモットと遊んでいたら、 ゆかりの先生がリスとモルモットのエサを買ってきてくれました。買ってきてくれたのですが、 私はこわくて、すででエサをあげれなかったのですが、エサやりせんようのグローブをつけたら、エサをあげることができました。やっぱり動物はかわいいです。 エサをあげると、「それは私のエサだ~」みたいにケンカをするのです。そのこうけいがすごくかわいくて、 私が飼い主だったら、ずっとエサをあげたくなります。本当にリスもモルモットもかわいかったです。  7つ目は、みんなでプラネタリウムを見に行きました。私は星が好きなので、とても、楽しかったです。 しかもプラネタリウムでは、その日の今夜に見れる星を言ってくれるので、私はプラネタリウムを見に行った日の夜は、必ず星をみるようにしています。 探していると、一番星やいろいろな星座を見つけてとても楽しいです。  最後8つ目は、みんなでセミ取りをしました。私はセミがきらいなので、 私のすることはセミを虫取りあみに入れるだけで他の友達に虫カゴへセミを入れてもらうみたいな感じで私はセミ取りをしています。 でも、セミを取るだけでも楽しいけど、私はさわれるようになりたいです。昔は、さわれたんだけどな。  このように今年の私の夏休みは、コロナ禍の中でたくさんの思い出をつくりました。 来年はコロナがおさまり、いろいろもっと今年の夏よりも楽しい思い出をつくりたいです。 ヘルプマーク 佐藤 能理子  ヘルプマーク?  私が思い出す限り知識のある人は身内以外誰もいない。  だいたい聞かれることは、「気になってたんやけど、この赤いの何なの?」  最近、電車に乗った。乗ってみた。久しぶりの電車。怖い様な、何となく嫌な気持ちになる。そして、怖い怖い怖い。と、パニックになる。 恥ずかしいと思うこともなく、電車の中でさけんでしまう。「怖い、降りたい、キャー」と。しんどくて涙が出てくる。 休みたいけれど、次の駅までは、あともう少し時間がかかる。  残念ながら周囲の目は冷たい。  たまたま(意図的ではない)優先座席付近に立っていたので、フラフラになりながらも席を譲ってもらえることを期待して頑張って移動した。  泣きながら立っている私。その前にはビシッときめたおじさまが。仕事帰りだろうか。スーツにブランド物のバッグ。 バッグを膝に置いて座っている。一瞬私のことを見た。目が合った。  やっと座れる…。  しかし、彼はブランド物のバッグから文庫本を出し、読書を始めてしまった。周囲の乗客も同じ様に眠っていたり、うつむいたりしている。  おじさまは、何事もなかったかの様に、次の駅で降りていった。  何のための優先座席なのだろう。ヘルプマークも最近優先座席に表示される様になった。いつでも席を譲って欲しいといっているのではない。 どうしても助けが必要と思うことだって私にはある。  それとも彼もどこか体に悪いところがあったのだろうか。悲しくないと言えばウソにはなるけれど、少し涙が出そうになった。  私は過去に酔っ払いに間違えられたこともあった。今回もそう思われたのか。  今回限りの体験だった。(今のところ) しかし、今回限りにして欲しい。もう電車には乗りたくない。  とはいえ、勿論優しく接して下さる方もいらっしゃる。次で降りるからどうぞ。と言って下さる。 私はこの時は調子が良かったので、元気だから大丈夫です。と何度もこたえた。しかし、ニコニコ顔でおっしゃるので、その気持ちに甘えた。  きっとこの様な内容の文章を書いて、応募することが目的とされているのだろうけれど、実際、この様な体験など、ほとんどない。 だからこそ今回、私の体験談を読んでほしいと思った。  ヘルプマーク?  面倒だとか、嫌だとか思いつつ、簡単に聞かれたら説明をする。あまり理解してもらえない様な反応。「ふーん。どこか悪いの?」  見た目には悪いところなど勿論見当たらないので当然そうなる。この時は、少し悲しくなったりする。  かといって、ヘルプマークを付けていると何となく安心感も少しはあるので、外すことはしていない。  しかし、今回の電車での出来事では、全く何の役にも立たなかった。  私はかれこれ十年以上、精神科の先生にお世話になっている。身体にも心にも大きな負担はあるけれど、何とか周囲(家族)の力を借りて生きている。  生きていること自体が苦しいと思うことも多々あるが、私には大切な家族がいるので、頑張っている。  頑張る? 頑張るというコトバは、この病気になってから、人に言われると一番辛い言葉になった。  そもそも何を頑張れば良いのか。頑張るというコトバの意味が私には解らなくなってしまった。そして、いちばん私の心をえぐるコトバとなってしまった。  現にこのコトバをかけられたら、何日か寝込む事もある。大袈裟に聞こえるかもしれないが、その人にはもう二度と会いたくないと思うこともある。  それくらい私(達?)にとっては重苦しいコトバ。  しかし私の家族は健常者だが、解かろうとしてくれている。最大限の理解を得ている。だから、私は幸せだ。  きっと簡単なことでは無いけれど、わかろうとする努力はいけない事ではないと思う。  私は頼りたい時もあると書いた。電車での出来事。  わかり合えなかった。それは私にもダメだったところがある。「体調が悪いので、席を譲って下さい」と言えなかった。  言わなくても気付いてくれるだろうと思ってしまった事に関しては私が悪い。甘えてしまった。ヘルプマークに。  大事なのは、この赤いマークに頼らずわかり合おうとする事だと思う。  しかし、正直なところ、障害者である私の意見としては、ひとはひと。健常者も、障害者もひとはひと。  ひとのことはわからない。  温かい触れ合い体験は書けなかったけれど、私にも少しは、この作文を通じてわかり合うことが出来ただろうか。  赤いマークを付けている、統合失調感情障害の人間より。 「聞く」ではなく「聴く」ことの大切さ 黒川 大樹  私は市役所の福祉課で勤務している。仕事柄、窓口に来られる市民の方の応対もすることがある。 いろんな人の話を聞く機会があり、すごく勉強にはなるものの、この窓口対応がかなりしんどい。  なぜならば、私は両耳が全くといっていいほど聴こえていないからだ。いや、四六時中全く聴こえていないわけではない。 補聴器を使用すればわずかに効果があるからだ。とはいえ読んで字の如し、あくまで聴こえを補うにすぎず、完璧に聴こえるわけではない。 私の場合は裸耳だと全く聴き取れない会話が、補聴器を着ければ…それでも聴き取れているのは二~三割くらいだ。 では残りの七~八割はどうしているのかというと、相手の表情や動作、話される時の唇の動きを読み取り、類推解釈して内容を理解している。  窓口応対の時ならば、相手の持参物からヒントを得て、たぶんこの申請に来られたんだなと推測し、先回りして申請時に必要な書類を準備する。  ところが、このコロナ禍である。来る人来る人皆マスクを着用し、さらにテーブルの上には飛沫防止のアクリル板。 これでは唇の動きは読めないし、コロナ禍以前は辛うじて聴こえていた相手の話し声も途絶えてしまった。  いや、仮にコロナ禍ではない日常であっても、隣のブースの話し声が大きければ聴き取りづらいし、フロアの騒音が妨げとなる場合もよくある。 普段でもハードだが、今の状況は普段の何倍も苦しい局面である。せめて私の聴こえの程度が一定していればまだ救いではあるのだが、 日によって聴こえの程度がコロコロ変わるからそうもいかない。  健常者でも雨の日や気圧の低い日は耳が遠くなるという方がいるが、私の場合はその波が人一倍激しいのだ。  また、起きた後の数時間は鼓膜が寝ているのか、聴こえが芳しくない。 なので、窓口の当番の日はいつもより1時間早く起き、いかに早く耳を目覚めさせるかにかかっている。 起きてすぐに補聴器のボリュームやチャネルをいじり、その日自分が最も聴こえやすい設定に近づけていく。 ミュージシャンが自分の扱う楽器をこまめに調律するが如く。 と、家を出るまでにあらゆることを考えながら、数々の細やかな準備の上に私の窓口応対が成り立っている。 そこまでしても、万全の状態になることは稀だ。無論、これらの準備を怠った日は、それはもう悲惨なことになる。  そして哀しいことに聴き間違いや行き違いは発生する。発生しない日がないくらいだ。 そもそも窓口応対のスキルが私に不足しているというせいでもあるのだが。  だが、当番を担う以上、来られる市民の方には最大限誠実に応対することを心がけている。 最初と最後の挨拶を明るくすることであったり、訴えにはじっくり耳を傾けたり。 接客スキルはすぐに上がらなくても、基本動作は自分の心がけ次第で何とでもなるからだ。  福祉課の窓口であるため、障がいに関する問い合わせや相談が多い。 そして障がいをお持ちの方ご本人が来られることもあれば、その保護者たる健常の方が来られることもある。 たとえば、これから初めて障がい者手帳を申請しようという人が来られ、 障がいあるいは障がい者という言葉にあまりいいイメージがないと打ち明けられたことがあった。 その時に僭越ながら、あえて自分の障がいのことを話すことがあった。自分の境遇や今まで体験したことを少しだけでもお伝えすることで、 その方が障がいに対するイメージを柔軟に捉えられるようになれば、との気持ちからであるが、最後には「不安でいっぱいでしたが励まされました」とお礼を言われたことがあった。  聴こえないなりに一生懸命その気持ちに寄り添い傾聴しようという一心だったので、お礼を言われた時は感激した。  そもそも私は自分がこの耳でどこまでできるのか、自分の可能性を知りたくて、志願して窓口応対のある部署へ異動した。 その時点で市民の方に尽くすよりも自分の野心を優先してしまっていて情けない限りではあるが、そんな自分でもわずかながら人の役に立てたことがすごく嬉しかった。 同時に、これまでの積もり積もった準備や、本来ならばしなくていいような苦労が報われたような気がした。  毎日前向きに取り組めるわけではない。その日の聴こえの状態ひとつで窓口に出ることを怯んだり億劫になることも正直ある。しんどいことには変わりはない。 でも今は、もう自分のためではなく誰かのために一生懸命やってみようと思う。 大丈夫って何? 三浦 智美  「大丈夫?」 これは心配してる時にかけるこの言葉。 「大丈夫」 これは安心感を与える言葉。だが、この言葉には人を苦しめる力もある。  私はある日、適応障がいになった。十八歳で社会人になり、三ヶ月経った夏のこと。 私は、世間的には大人な年齢だが、大人が苦手だ。だから職場に大人しかいない環境に耐えられなかった。 業務内容が苦手なわけでも、パワハラを受けているわけでもない。仕事ができれば褒めてくれる、素敵な職場だった。 辞めたい訳でもない。でも私にとっては毎日が苦痛で仕方なかった。 何度か「つらい」ということを上司に相談していたが、「大丈夫!初めはみんなそんな感じだよ」とあまり聞いてくれなかった。 電車通勤だったが、行き道も、帰り道も、ひたすら涙が止まらなかった。ただ、会社では涙を見せたことがなかった。いや、見せないように我慢していたのかもしれない。  七月の末頃、人生で初めて精神科に行った。この辛さが軽くなるなら。と、予約するのに躊躇なんてものはなかった。 もちろん家族には内緒。親友にも言っていない。ただ一人で、無心で、精神科を調べ予約した。当日病院に行くといろんな人がいた。 子どもから大人まで、男女問わず人が多かった。この人たちはみんな何かしら心に不調をかかえているのか。 そう思うとなんとなく不思議な気持ちになった。診察が終わり、軽い気分障がいですね、と、睡眠薬や抗不安薬とかいう薬をそれぞれ三十錠ちかく処方された。 「不安になった時に飲んでね。」「寝る前に飲んでね。」 『分かりました』そう返事し、薬を一回も飲まなかった。 それから二日後の通勤中、何故か急に薬の存在を思い出し、駅のトイレで規定量を超える数の睡眠薬を飲んだ。 直後は「飲んでしまった」と思ったが、数分したら少し頭がぼーっとしてきた。 眠たいというよりは、脳がふにゃふにゃになる、そんな感じだった。脳がふにゃふにゃになるあの感覚が切れた頃、会社のトイレで残りの薬を全部飲んだ。 数時間してから、私の異変に気づいた職場の人が私に声をかけてくれた。 「大丈夫?」この言葉だった。「大丈夫です」この言葉が言えなかった。バレてしまったという気持ちで溢れて、初めて会社で泣いた。 そしてそのまま上司に付き添ってもらい、病院に運ばれた。この時は、今日が会社に来る最後の日になるなんて思いもしなかった。  病院に着き、胃洗浄をするかという話になったが、薬を飲んでからかなり時間が経っていた為、点滴して外に出すしかないということになり、点滴された。 周りに誰もいなくなり、気付いたら血だらけだった。自分でも分からない間に点滴を抜いていた。ベッドから降りて裸足で病室を出た。看護師さんに気付かれ、止血された。 すぐに上司も来て「なんでこんなことになるまで相談しなかったんだ」と何故か怒られた。私はこう言った。 「じゃあ助けてと言ったら助けてくれたんですか、初めはそんなもんだよって真に受けてくれなかったのはどっちなんですか」 上司はなにも言わずその場に立っていた。マナー研修でナンバーワンだったこの子が、いつも笑顔のこの子が、なんでこんなことに、そう思ったのだろうか。 そのあとすぐ家族が迎えに来てくれた。血だらけの私を見て、「気付いてあげられなくてごめん、もう大丈夫だよ」母はそう抱きしめてくれた。 私の求めていた『大丈夫』はこれだった。 『大丈夫?』でも『大丈夫!』でもない。『大丈夫。』これを求めていた。家族と家に帰り、まだ少し血のついた体を洗い流し、眠りについた。  その次の日から私は休職と言う名の退職への道のりを歩いていた。まだ十八歳で子どもな頭しかない私は、退職に追い込まれていることに気付かなかった。 改めて『適応障がい』と診断されたことに対して、治してまた働きたいという気持ちで治療を頑張った。 薬も適切なものを、適切な時に、適切な量だけ飲むことが出来ていた。しかし、医師から『復職』の許可が出ても、会社からは『復職』の許可が出なかった。 そしてついに、「復職しても懲戒処分を下すことになる」という旨を説明された。大人の世界を理解できなかった私の頭は「なんで?」という気持ちで溢れていた。 勤務中にしてはならない行動、そしてこの行動が会社にとっては迷惑極まりないことだったこと、全部理解するのには少し時間がかかった。 半強制的に退職したが、それから少しでも辛くなると薬を飲んでしまうことが癖になり、心も体もぼろぼろだった。 そしていつか『自分みたいな人を助けたい』と思うようになった。  社会人を辞めて一年。私は今『精神保健福祉士』を目指して心理学を勉強している。 これから先、私は精神障がい者の方と主に接することが多くなるだろう。中には自殺を考えている人とも出会うかもしれない。 でも私は「大丈夫ですか?」と聞くような精神保健福祉士にはなりたくない。 「大丈夫ですよ。」と、クライアントのこれからの生活、人生に寄り添えるような精神保健福祉士になりたい。 誰かの「大丈夫」が「大丈夫じゃない」ということに気付ける大人になりたい。 障がいを患って… 大阪医療技術学園専門学校 三浦 日菜  私には障がいがあります。高校一年生の春のことでした。私は、中学生の時から陸上部に所属していました。とある日の練習のことでした。 その日は、雨が降っていて外での練習ができなかったため、階段を使っての練習でした。いつものように練習をしているとふくらはぎに違和感を覚えました。 はじめは、自分の気のせいだと思っていました。でも、その気のせいだと思っていたことが確信に変わったのです。 立ち止まって自分のふくらはぎを見ると驚くほどにけいれんを起こしていました。 初めてのことでパニックになり、顧問の先生も初めてのことでとても驚いていたことを覚えています。 その後、顧問と保健室の先生に支えられながら、保健室で休み、両親に学校まで迎えに来てもらいました。 その時の私の心情は、両親への申し訳なさ、顧問・友人に大きな不安を与えたこと、 仕事終わりで疲れているはずなのに学校まで迎えに来てもらい大きな心配をかけたことなどの様々な理由で胸がいっぱいでした。 それからというもの、部活動で走っているとけいれんが起こるようになりました。 自分でも初めてのことで不安になり病院に行ったところ、ここではわからないといわれ、三件目の病院で対応してもらうことが出来ました。 脳神経外科に案内されましたが、ここではわからないといわれ神経内科に案内されました。 医師からの診察後、MRI・CT・採血・脳波・マルクなどたくさんの検査を行いました。 そして検査結果から診断されたのは、発作性運動誘発性ジスキネジアでした。 次の日に顧問、担任、学年主任の先生に検査結果と病名を伝え、聞いたこともない病名に先生方が驚いていましたことを覚えています。  そして、事件は起こりました。体育祭で陸上部だということもあり、持久走に出場しました。走っている最中に私は意識を失い倒れました。 そして、救護室のベッドに運ばれた後にけいれんが起きました。  私はとある理由により、誰にも話をしていませんでした。 しかし、クラスメイトと他のクラス、他学年の前で倒れてしまったため、クラスの人に話すことを決めました。 なぜ、私がクラスメイトに話すことが出来なかったのか。それは大きく分けて二つあります。一つ目、心配をかけたくない。 話すことにより、過剰に心配されるのではないか。二つ目、話すことにより、今の関係性が壊れるのではないか。 これらの不安からクラスメイトに話すことが出来なかった。しかし、みんなの前で倒れてしまったため、話さざるを得なかった。  ついにその時が来た。クラスのみんな前で倒れてしまって申し訳ない。私には障がいがあるということを伝えた。 すごく怖かったし話した後からの学校生活は一人で過ごすと決めていた。でも、私が思っていたことと違って伝え終わったときにクラスメイトが 「つらかったね、しんどかったね」 「打ち明けてくれてありがとう」と伝えてくれた。私は、本当に心の底から嬉しかった。そして、打ち明けてよかった。 心の底からそう感じて涙があふれそうになった。私は、自分の思いを伝えるのが苦手で大勢の人の前で話すことが苦手です。 でも、一歩踏み出すことにより、前に進むことが出来た。次の日からも、クラスメイトはいつも通りに接してくれた。 小さなことかもしれないが、私にとってはとても大きな一歩だった。  そして、私が障がいを患って家族関係に変化が出ないかとても心配だったがそんな心配は全く必要がなかった。  そして、障がい者手帳、ヘルプマークを取得し、毎日薬を飲みながら生活している。 私のように目に見えない障がいを持っている人は周りの人からは健常者に見えるのだろう。 しかし、ヘルプマークを鞄につけることにより、周りの視線は気になるものの、優しい心を持った人が困っている際に声掛けをしてくれる。 たった一つの小さなストラップが健常者と障がい者の心と心をつなげてくれる。 ヘルプマークは昔に比べると世の中に浸透しているものの、まだまだ知られていないことが多い。 知ってもらうにはどうしたらいいのか。私たち、一人ひとりができることを探していく事も大切なのではないか。 そう考えた。障がいのある人への偏見、差別は悲しいがまだまだ存在している。私は、障がいはその人の素敵な個性だと思っている。 障がいのありなしに関わらず、世界中の人間が平和に過ごせることを私は願っている。自分とは違う。その一言で、相手を傷つけないでほしい。 国籍、性別、年齢、障がいのありなし。人それぞれみんな違った考え方を持っている。 しかし、忘れないでほしいのは、どんな人であれ心と心がつながっていること。日本いや、世界中の課題なのかもしれない。 私のように、いつ障がいになるかわからない。障がいを患ってもかわいそうだと決して思わないでほしい。 しんどいこと、つらいこと。たくさん、あるがそれ以上に楽しいこと、できるようになった達成感など。うれしいことの方がよっぽど多い。 自分が障がいを患ったことにより、自分自身、家族が障がいについて考える時間が増え、ある意味障がいを患ってよかったと私は思っている。 たろうくんのママ 三野 萌  「私、たろうくんのことまた施設に預けてしまった」  この言葉をなんだかずっと忘れられません。  たろうくんは、私のアルバイト先の喫茶店によく遊びにきていた小学生の男の子です。 たろうくんはママと弟のじろうくんと三人でよく来店していて、いつも氷少なめのオレンジジュースと、たまにケーキを頼んで、 併設のスーパーで買い物をしているママを待っていることが多かったように思います。  直接はきけませんでしたが、たろうくんは障がいを持っていたのだと思います。 喃語でコミュニケーションをとっていたので、おそらく発達障がいか、知的障がいだったと思います。  たろうくんはよく笑ってよく話す子でした。カードゲームが好きで、いつもカード入れを持ってきてレアカードを自慢して教えてくれました。 飲み残し用のゴミ箱に氷が溜まっていると、「あ!あ!」と指をさして教えてくれました。  たろうくんの弟は「じろうくん」とよばれていて、野球が好きな男の子です。 じろうくんもよく話す子で、けれどどこか年齢のわりに冷静なところがありました。  たろうくんは、じっとしていることが苦手なのか、ひとりでどこかに行ってしまうことが多々ありました。 私たちもずっと二人のことを見ていられるわけではないので、気がつかないうちにいなくなってしまうこともありました。  そのうちたろうくんはだんだん来なくなって、じろうくんとママも来なくなりました。 「私、たろうくんのことまた施設に預けてしまった」 久しぶりに店にママがいらしたとき、そう言っているのが聞こえました。 その声は、いろんな表情をした言葉でした。ごめんなさい、安心した、情けない、かわいそう、本当はどう思っていたのだろう?  私には想像することしかできないのに、それすらうまくできませんでした。私の家族に障がいのある人はいません。 私が今まで関わってきたのは公立学校の特別学級に通っている子たちだけで、その子たちと遊んだり話したりすることもあまりありませんでした。  私はたろうくんが大好きでした。自分のことをたくさん話してくれたし、たくさん笑顔を見せてくれました。 だけど、私とたろうくんはただのお客様と従業員で、直接なにか力になることができたのかと問われれば、自信がありません。 障害のある子どもを育てる親の本当の気持ちは、その状況にある人たちにしかわからないのだろうと思います。 子どもを産んだことも育てたこともない私がどれだけ想像しても、それは想像でしかなくて、それがすごくもどかしい気持ちです。 きっと私の想像なんて簡単に飛び越えてしまうくらい、施設に預けてしまったと誰かに話したくなるくらい、壮絶な時間が流れているのだろうと思います。  アルバイトの面接のとき、喫茶店は無くても困らないものだけど、いつでも開いているという場所は誰かの心の拠り所にもなると、店長が言っていました。 そうなのだとしたら、私たちはママの心の拠り所になれていたのでしょうか。  親は、子どもを産むかどうかを決めるチケットを持っています。 特に母親は、自分の体の中で子どもを育てるのだから、命と引き換えに妊娠や出産をすると言っても過言ではありません。 だからこそ、楽しいことを想像したり嫌なことを思い出したりしてたくさん悩んできたと思います。 たろうくんがどうだったかは分かりませんが、出生前診断で障がいが分かったときに中絶を選ぶ親もいるでしょう。 それは誰か一人が責められることでもないし、一生責任を取り続けなければいけないものではありません。 しかし、産んだらそこからは自分ではないその子自身の人生が始まります。その責任は重くあるでしょう。 だからこそ、家庭や職場だけでなく、手放しにくつろげる場所や、子育てに追われて見逃してしまった誰かに話したい出来事を話せる場所は、 必要なのではないかと思います。それは場所でも良いし、人でも良いのだと思います。 私は、誰か居場所がないと感じている人たちのための、ふらっと立ち寄ってふらっと出ていけるような場所になりたいと思います。  母子家庭の世帯数は、令和二年の時点で百二三・二万世帯であり、就業状況は八一・八パーセントです。 そのうちパートまたはアルバイトとして働いているのは四三・八パーセントとなっています。 非正規雇用は、雇用状況も収入も非常に不安定です。そんな中一人で子どもを育てていくとなると、将来が不安で重圧を感じるだろうと思います。 さらに障がいのある子どもを一人で育てるとなると、想像だけで胸が締められるくらい苦しくなります。 国の保護制度もありますが、そもそも知らない人や、利用方法がわからないけれどお金がないなどの理由で専門家を頼れず、利用できない人もいると思います。 そのために共生社会を目指しているのではないでしょうか。疲れ果てて、助けてという元気もない人たちのことを見つけて、 社会の輪の中で、みんなが自分らしくいられるような社会を作るのは、この国で暮らす全員の役割です。 いつかできたら良いではなく、今、少しでも自分ができる小さなことから始めたいです。 そういう気持ちが、この国をもっと暮らしやすく、育てやすいようになる糧になるのだと信じています。 そしていつか、あの日のたろうくんのママのような声を誰も出さずに済む世界になりますように。 障がい者週間のポスター もくじ 最優秀賞小学生部門 (大阪府)茨木市立穂積小学校 4年 道下 樹(みちしたいつき) (大阪市)大阪市立塩草立葉小学校 2年 徳岡 瑛樹(とくおかてるき) 最優秀賞中学生部門 (大阪府)大阪教育大学附属平野中学校 2年 堀井 俊佑(ほりいしゅんすけ) 優秀賞小学生部門 (大阪府)寝屋川市立三井小学校 3年 小林 成海(こばやしなるみ) (大阪市)大阪市立塩草立葉小学校 2年 北野 陽向(きたのひなた) (大阪市)大阪市立塩草立葉小学校 1年 松井 蒼空(まついそら) (堺市)堺市立金岡南小学校 2年 畑 真綾(はたまあや) 優秀賞中学生部門 (大阪府)大阪教育大学附属平野中学校 2年 中村 碧沙(なかむらあいしゃ) (大阪市)大阪府立難波支援学校 2年 古川 礼人(ふるかわあやと) (堺市)羽衣学園中学校 2年 青山 姫璃(あおやまひめり)