館報『大阪あーかいぶず』第43号(html)

更新日:平成22年2月25日

大阪 あーかいぶず 第43号

archives(あーかいぶず)とは、英語で記録資料・文書館という意味です。
目   次
杉道助と戦後の大阪……………………………………………………1頁
第23回大阪府公文書館運営懇談会…………………………………6頁
平成20年度公文書館アーカイブズ・フェアをふりかえって……7頁
レファレンス便り………………………………………………………8頁 
大阪府公文書館からのお知らせ………………………………………8頁
第43号 平成21年3月
大阪府公文書館発行
杉道助と戦後の大阪
大阪府公文書館 矢嶋 光(やじま あきら)
■はじめに
昭和20(1945)年8月15日、日本はポツダム宣言の受諾を決定、9月2日に降伏文書に調印し、ようやく戦争
の時代に幕が下ろされました。しかし、平和の訪れは、同時に復興への苦難の道のりの始まりでもありまし
た。日本各地の戦災の爪痕は深く、大阪もまた、かつての「大大阪」の繁栄は見る影もありませんでした。
江戸時代には「天下の台所」と呼ばれ、商業都市として発展してきた大阪は、明治、大正時代を経て「煙の
都」として工業都市の性格もあわせ持つようになりました。大正14(1925)年には東京をしのぐ日本最大の都
市となり、世界でも第6位の人口を誇るまでに成長しました。しかし、昭和6年の満州事変、つづいて日中戦争
(昭和12年)、さらには日米開戦(同16年)と危機の時代を迎えると、大阪の発展は停滞期を迎えます。戦時
における統制経済によって、民間の活力を中心として発展してきた大阪の紡績業は整理、縮小され、同時に
統制は消費物資にまで及び、戦争末期には配給制、そして切符制へと移行し、商業面でも衰退せざるをえま
せんでした。さらに、昭和19年末から日本本土への空襲が激しさを増す中、大阪でも昭和20年1月3日を始め
として、敗戦前日の8月14日まで計20回に及ぶ空襲を受け、壊滅的な被害を蒙りました。こうして近世以来の
発展を誇った大阪は、わずか数ヶ月の間に瓦礫の山と化しました。
しかし、現在の私たちが知っているように、大阪はこの廃墟の中から立ち上がり、戦前をしのぐ成長を見せ
ていきます。昭和27年に独立を果たした日本は、同31年に戦前の経済水準を回復し、経済白書の「もはや
戦後ではない」という言葉が流行しました。そのわずか10年後、国民の所得はさらに約5倍に増加しました。
この間、大阪でも紡績業の再興をきっかけとして、経済復興が本格化しました。昭和30年代には重化学工業
化の進展を図るため、堺・泉北臨海工業地帯の建設計画が策定されました。また、大阪国際空港の拡張整
備計画が策定されたのもこの頃でした。同時に、府民所得は東京を上回るペースで増加し、消費ブームの
到来によって商業面でも著しい成長を遂げました。こうして大阪は昔日の繁栄を取り戻していきました。そし
て復興から高度成長時代を迎えた昭和45年、万国博覧会が大阪千里丘陵で開催されました。万博は、大阪
の復活、経済大国日本を象徴するイベントとなりました。
さて、この万博の大阪開催をはじめに考えついたと言われているのが、杉道助でした。杉は、戦前は繊維商
社である八木商店(現在の株式会社ヤギ)の社長として活躍し、昭和21年に第16代大阪商工会議所会頭に
就任、以後14年間にわたって会頭を務め、戦後大阪の復興に尽力した人物です。今回は、杉の足跡を辿り
ながら、大阪における戦争、復興そして成長の時代を追ってみたいと思います。

■生い立ち
杉道助は、明治17(1884)年2月20日、杉相次郎の長男として、現在の山口県山口市下河原に生まれまし
た。杉家は、家禄26石の長州藩の下級武士でした。幕末には藩の要職にも取り立てられたようで、道助の祖
父民治は、藩の民政をつかさどる代官を務め、藩主毛利敬親からその功績を称えられて「民治」の名を与え
られています。また、この民治の弟寅次郎は、杉家と縁の深い吉田家に養子へ行っていますが、彼こそは、
松下村塾で伊藤博文や山県有朋といった維新志士を育てた吉田松陰でした。道助からみて松陰は大叔父
にあたります。実業家時代における杉の国士的性格は、松陰の影響を強く受けたものでした。
明治23年、杉は山口尋常師範学校附属小学校に入学しました。4つ年上には、後に日産コンツェルンの創
始者となる鮎川義介がおり、杉との交流はこの頃からのものでした。その後、杉は、高等小学校を経て、山
口県立山口中学校に入学しました。平凡な学生生活を過ごした杉は、中学卒業後、進路を決めることなく東
京へ出ていきます。そこで、松陰亡き後の吉田家を継いだ庫三と南米ペルーへの渡航の決意を固めます
が、日露戦争の勃発により南米行きの話は流れてしまいました。結局、杉は慶応義塾大学に進学しました。
慶應時代には、小泉信三(後に慶應義塾塾長)や津田信吾(後述の武藤山治の後を継いで鐘淵紡績の社
長)など幅広い交流がありました。また、このとき、鐘淵紡績(鐘紡)の武藤と出会っています。武藤は、大学
を卒業したばかりの杉と大阪の繊維商社八木商店の息女、義との仲を取り持ち、杉はこれをきっかけとして
大阪財界入りを果たすことになりました。

■戦前大阪の発展
大正元(1912)年、杉は最初の就職先であった久原鉱業の大阪事務所開設によって、来阪することになりま
した。これを聞いた武藤は、大阪に来るなら繊維をやるべきだと言い、久原鉱業の了解を取り付けて、杉は
義父の八木与三郎が経営する浪速紡績(現在の大和紡績)を手伝うことになりました。
この頃、大阪では紡績業の発達が著しく、明治15(1882)年に大阪紡績(現在の東洋紡績)が、蒸気機関を
動力として10,000錘を超える本格的な工場として設立されたのをきっかけに、尼崎紡績、摂津紡績(両社は
合併して現在はユニチカ)などが開業していました。同時に、綿製品を取り扱う商社も数多く勃興しました。八
木商店もこうした商社の一つで、「関西五綿、船場八社」と呼ばれた有数の繊維商社の一つでした。関西五
綿と呼ばれた商社には、現在の伊藤忠や丸紅など総合商社へと発展したものもあります。また、この頃の大
阪は私鉄の開業も盛んで、明治17年の阪堺鉄道(現在の南海電鉄)をさきがけとして、阪神電鉄(明治38
年)、箕面有馬電気軌道(明治40年開業、現在の阪急電鉄)、京阪電鉄(明治43年)、大阪電気軌道(明治43
年開業、現在の近鉄)など次々に開業しました。市内には、明治36年の第5回内国勧業博覧会開催にあわ
せて大阪市電も開通し、市民の足として利用されていました。
大正3年、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まると、大阪の紡績業はさらに活況を呈すようになりました。
大戦によって、日本が中国におけるドイツ権益を接収すると、上海や青島などへ日本の紡績業が進出するこ
とになりました。さらに、紡績業に加えて、重化学工業も勃興し始め、とりわけ金属や機械、造船業の発達は
著しいものがありました。住友製鋼所(現在の住友金属工業)や神戸製鋼などの製鉄業が大きく成長を遂げ
るとともに、工作機械の製造も本格化し、久保田鉄工所(現在のクボタ)が農工用石油発動機を開発し、大
阪金属工業(現在のダイキン)も当時最先端の航空機部品など精密機械の製造を開始しました。他にも、大
戦による船舶需要の高まりの中で、藤永田造船(現在は三井造船に合併)や大阪鉄工所(現在の日立造
船)などの造船業も、好況を迎えました。また、大正6年に大阪商船(現在の商船三井)が遠洋定期航路線を
本格的に開設すると、大阪の外国貿易は大発展を遂げることになりました。大阪港の貿易額は大正年間に
約7倍に伸びるとともに、大正15年の大阪の工業生産高は11億円を超えて、日本第1位となりました。
こうした発展を背景にして、大阪財界では中央政界の刷新の声があがり、政治運動も盛んになりました。そ
の中心が武藤の実業同志会であり、杉も会員として武藤を支えました。実業同志会は、一部の政商と政界と
の癒着を批判して腐敗政治の浄化を主張するとともに、政府による統制の撤廃、減税を求める経済自由主
義を唱えました。大正13年の総選挙で初めて8名の当選者を出し、以後昭和7(1932)年までその活動はつづ
きました。このとき杉は、実業同志会の幹事長的存在として選挙を取り仕切っていました。
大阪が「大大阪」と呼ばれたのはちょうどこの頃のことです。しかし、昭和6年に勃発した満州事変を契機とし
て、大阪の繁栄にも戦争の影が忍び寄ってくることになります。

■戦時体制下の大阪
昭和4(1929)年、杉は八木商店代表として大阪商工会議所の議員に選出されました。翌年に会議所の理財
部副部長に就任すると、昭和10年に常任委員、同12年に理財部長、同年には時局対策委員会委員長と
次々に要職を歴任しました。一方、杉が商工会議所で活躍した時期は、日本が戦時体制へと移行するととも
に、大阪経済の地盤沈下が深刻化していく時期でもありました。
昭和2年に金融恐慌が発生、さらに同4年の世界恐慌に日本が巻き込まれると、工業化の進んでいた大阪
は大きな被害を蒙りました。この年、大阪における労働争議は最高潮を迎え、日本最大の企業であった鐘
紡でも大規模なストライキが発生しました。鐘紡は、武藤による「温情主義」や「家族主義」によって労使協調
の経営理念が実践されていましたが、それでも恐慌の打撃を避けることはできませんでした。また、この昭
和恐慌の影響は、大企業はもちろん海外向けの輸出製品を生産する中小企業にとってより深刻でした。大
正末年には8億円を超えた大阪港の外国貿易は、昭和6年には約半分にまで減退し、その影響の大きさを
知ることできます。これに対して、政府は、重要産業統制法を制定し、企業の合理化を推進しました。これ
は、以後の国家による経済統制の端緒となるものでした。
こうした中、昭和6年9月、満州事変が勃発、翌年の5.15事件によって政党内閣が崩壊、さらにその次の年に
は国際連盟を脱退、日本は自由貿易から自給自足経済へ、自由主義経済から統制経済へとその舵を切っ
ていくようなりました。
この時期、軍備拡張のための大規模な予算が組まれるようになり、これをきっかけに重化学工業が大きな
発展を遂げることになりました。大阪でも鉄鋼や機械業の工場が新設、拡充されました。その中には、杉の
同郷の先輩であった鮎川が創設した日産自動車があり、松下電器や早川電機(現在のシャープ)などがあり
ました。また、大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の研究者たちによって設立された発動機製造
(現在のダイハツ)が、実用的な国産エンジンを開発したのもこの頃のことです。とはいえ、軍需産業を中心
とする上からの重化学工業化は、政府や軍との結びつきの強い東京を中心としたもので、依然として大阪で
は民需産業が中心であり、軽工業から重化学工業への転換は遅れていました。満州事変の翌年の昭和7
年、大阪の工業生産高は東京に追い抜かれることになりました。大阪経済の地盤沈下の一因は、この産業
構造の転換の遅れにありました。しかし、それは一方で国家の保護に頼らない大阪の自由主義的な気風を
保っていたことを示すものでもありました。
昭和12年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まると、戦時体制は益々強化されることになりまし
た。日中両軍の衝突から1ヶ月後には、輸出入品等臨時措置法、臨時資金調整法が制定され、物資と資金
の流れに統制が加えられました。また、第一次世界大戦中に制定された軍需工業動員法が発動され、軍需
資材を製造する多くの工場が国家管理の下に置かれました。加えて、消費制限や価格統制令などの実施に
より、国家の統制は国民生活にまで及ぶようになりました。昭和13年には国家総動員法が制定され、政府は
総力戦のために人的、物的資源を動員する広範囲にわたる権限を手にすることになりました。その他、この
時期には労働運動も抑制され、労働組合は産業報国会へと改組され、同時に経営側も重要産業団体令に
よって国家の統制下に置かれることになりました。その後、日米開戦を迎え、戦局の悪化とともに、学徒動員
や女子勤労挺身隊などなりふりかまわない動員が実施されていくことになります。
こうした戦時体制への本格的な移行は、大阪にも大きな影響を及ぼしました。民需中心の大阪と軍需中心
の東京の格差が決定的に開いていくことになったのはちょうどこの頃でした。大阪でも、重化学工業が格段
に進展することになりましたが、そこには民需産業の大きな犠牲がありました。戦争遂行のための物資の輸
入が優先される一方、紡績業の原料である綿花などの輸入は制限され、設備投資の面でも軍需工場が優
先され、民需産業へのそれは禁止されました。戦前には「東洋のマンチェスター」と呼ばれて日本の、また世
界の紡績業の一大中心地であった大阪は、深刻な打撃を受けました。敗戦時には、日本における綿紡績機
の錘数は、昭和16年の水準の3割にも満たない約350万錘にまで落ち込んでいました。また、これまで政治に
寄り添うことを良しとしない大阪財界も、戦争が進展するにつれて、協力か、それとも自らの保身を図るかの
選択を迫られるようになりました。大阪財界からは、阪急電鉄の小林一三や大阪商船の村田省蔵、鐘紡の
津田(杉の大学時代の2年先輩)らが政府に協力することになりました。もっとも、第二次近衛内閣の商工大
臣に就任した小林などは、日米開戦反対、戦時における国家統制に対しても必要最小限にするべきとの考
えから、統制経済の導入に積極的であった企画院や商工省の革新官僚と衝突して、時の商工次官であった
岸信介を辞職に追い込みました。
この時期、杉も大阪商工会議所の時局対策委員長として、大阪経済の地盤沈下の問題や戦争協力の問題
に立ち向かわなければなりませんでした。杉は、立ち遅れた大阪の産業構造の転換を進めるため、また戦
争を勝ち抜く総力戦体制の確立のため、官民一体化の経済新体制の実現を主張するようになっていきま
す。しかし、一方で政府の企業に対する配当制限に反対する建議や国家統制の行き過ぎによる弊害を指摘
し、民間による自主的運用を求める建議を行うなど、必ずしも自由主義の色彩を失っていませんでした。ま
た、しばしば杉は、京都や神戸の商工会議所と協力して建議を行いました。なかでも京阪神に名古屋商工会
議所を加えて出された名神高速道路建設の建議は、戦後における杉の大阪だけにこだわらない広域経済
圏の発想の原型とも言えるものでした。
昭和16年、杉は商工会議所の副会頭に当選します。しかし、その2年後、商工会議所は国家統制の一翼を
担う機関として大阪府商工経済会に改組されました。杉は、引きつづき副会頭に就任しましたが、会議には
ほとんど出席せず、「死せる会議所の眠れる副会頭」となっていました。再び杉が活躍するのは、日本が敗
戦を迎えた後のことでした。

■戦後大阪の復興
昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言の受諾を決定、9月2日に降伏文書に調印し、連合国軍の占領下に
入ることになりました。大阪でも9月27日にアメリカ軍が進駐を開始、大阪府下には第98師団、28,000名の米
兵が駐留することになりました。この頃の大阪は、戦争末期の空襲の被害によって、市内における人口は戦
災前の約半分の105万人に、工場数も約3分の1の5,700工場に減少していました。この他、民家の焼失や食
糧事情の悪化など、日々の暮らしもままならないほど府民生活の困窮は激しいものでした。
こうした中、大阪財界は戦時組織の商工経済会を廃止、昭和21年9月に再び大阪商工会議所を発足させま
した。会頭には大阪商船副社長の田島正雄が選任されましたが、まもなく公職追放に該当して辞任、そして
長年にわたって商工会議所の活動に貢献してきた杉が会頭に選ばれることになりました。戦後の苦境がつ
づく昭和23年11月、会頭に再選された杉は、「私は今回、会頭に再選されることを念願していました。私は会
頭の重任をむしろ望んでいました」と述べてその決意を示し、評議員たちの間に興奮と活気を呼び戻しまし
た。
杉が率いる商工会議所は、占領期のさまざまな経済問題に対処するべく、それぞれに専門委員会を設けま
した。政府の戦時補償打切りの方針が決定すると、対象となる企業の再建策を建案し、政府の復興計画試
案が公表されると、繊維産業の復興を中心に据えた改定意見を出すなど、いくつも具体的な建議を行いまし
た。また、昭和22年4月に大阪市長として社会党出身の近藤博夫が就任すると、これに協力すべく副会頭の
栗本順三を助役として送り込み、市政と財界の協力を進めました。戦前から実業同志会の活動に携わるな
どした杉は、復興という大事業において政治と経済の連繋を重要視していました。さらに、杉は、日本の復興
と自立には貿易の振興が不可欠であるとの考えをもっており、大正3年に設立された大阪貿易学院高等学
校(現在の開明中学校、高等学校)の再建に力を注ぎました。昭和25年に理事長、校長に就任すると、会頭
を退任するまで必ず入学式と卒業式に出席しました。加えて、昭和26年には日本貿易振興会(現在の日本
貿易振興機構JETRO)を大阪に設立しました。日本貿易振興会は、輸出向け中小企業のために海外情報を
収集、提供する役割を果たしました。
この間、大阪経済は復興の兆しを見せ始めました。昭和21年末に政府の採用した傾斜生産方式により、石
炭と鉄鋼の増産が開始され、まず基幹産業の復興が始まりました。また、アメリカからの援助や国内におけ
る食糧増産によって、国民生活は敗戦時のどん底から好転し始めました。昭和22年に、民間貿易が一部再
開され、紡績業の一大拠点であった大阪は繊維製品の輸出により復興の足がかりを掴むことになりました。
昭和24年には、アメリカの援助による経済負担を軽減するため、ドッジラインによって均衡予算と1ドル=360
円の単一為替レートが設定され、輸出振興による日本経済の自立が目指されることになりました。ドッジライ
ンによるインフレ抑制策は、経済の膨張を一時的に抑制しました。しかし、翌年6月に朝鮮戦争が始まると、
世界的に需要が喚起され、アメリカ軍による特需発注も手伝って、日本の輸出額は約2倍に跳ね上がりまし
た。このとき大阪港の輸出額も2倍以上の803億円となり、事業所数も27,000を超えました。特需景気によっ
て、ようやく大阪は本格的な復興を遂げることになったのです。
しかし、杉は、好景気に沸く財界を尻目に大阪経済の地盤沈下の進行を心配していました。実際に、昭和7
年に工業生産高で東京に追い抜かれて以来、大阪はその地位を明け渡したままでした。それは同時に、重
化学工業部門における東京との格差が縮まっていない証拠でもありました。また、戦前以来誇ってきた軽工
業部門でも中部工業地帯の成長により、その地位は低下しつづけ、昭和31年には愛知県に生産高で追い
抜かれることになりました。戦後大阪の復興の歩みは、日本全体から見れば遅れたものであったのです。
こうした中、昭和28年、杉は「大阪経済振興審議会」を立ち上げました。会長には自らが就任し、大阪府副知
事の大森通孝と大阪市助役の中馬馨に副会長を委嘱しました。同年12月に、「大阪経済振興方策に関する
調査報告書」をまとめ上げ、輸出振興と重化学工業化の推進を軸とする9つの提言を行いました。さらに、杉
は、「せまい府県の行政ワクにとらわれていては、経済の発展も住民の幸福もない」と述べて、府県の枠を越
えた広域経済圏の開発に力を注ぎました。このとき杉は、「近畿は一つ」という言葉を口にして広域経済圏の
確立の重要性を説きました。
その後、昭和31年に「大阪経済振興審議会」の提言を実施する機関として「大阪経済振興連絡協議会」が発
足、大阪国際空港の拡張整備や阪神高速道路公団の設立促進、新幹線の新大阪駅の位置を決定するな
ど、さまざまな事業を推進しました。また、杉の広域経済圏の発想から、近畿圏整備法が生まれ、政府機関
として近畿圏整備本部が発足することになりました。そして、大阪と兵庫にまたがる大阪国際空港の拡張整
備や大阪と京都、滋賀の2府1県にわたる淀川水系の開発が、これに基づいて行われました。また、昭和33
年には「堺臨海工業地の造成および譲渡の基本計画」、同36年の泉北臨海工業地等造成および譲渡の基
本計画」が策定され、堺・泉北臨海工業地帯の建設が始まりました。堺・泉北臨海工業地帯には、鉄鋼、電
力、ガス、石油化学、造船などのさまざまな重化学工業がパイプラインを通じて相互に有機的に連結する、コ
ンビナートが形成されました。昭和30年代、高度成長時代を迎えて、大阪でも軽工業から重化学工業への転
換が行われ、経済大国日本の一翼を担うことになりました。

■おわりに
昭和35年、杉は、大阪商工会議所会頭の職を辞任することを表明しました。昭和4年に商工会議所入りして
以来、会議所活動は30年を超え、会頭職も5期14年に及びました。この間、大阪は繁栄から戦争へ、そして
敗戦のどん底から復興へという、大きな時代のうねりの中にありました。杉は財界人として激動の大阪を支
えつづけたといえます。とりわけ、戦時体制下から始まった大阪経済の地盤沈下にいち早く気づき、その対
処に全力を注ぎました。杉の「大阪経済振興審議会」の提言や行政の枠にとらわれない広域経済圏の発想
は、昭和30年代の大阪の指針となりました。
その後も杉は、さまざまな形で大阪財界に関わりました。会頭の退任にあたって贈られた慰労金の全額を近
畿総合開発研究基金に寄贈し、「近畿は一つ」という広域経済圏の発展への貢献を惜しみませんでした。他
にも、昭和39年の大阪商工会議所新年祝賀会の席上で、万国博覧会を大阪で開催してはどうかと、左藤義
詮大阪府知事に提案し、早くも誘致運動に乗り出すことになりました。また、この間に政府から第6次日韓国
交交渉の首席代表を引き受けるなど、老いてなお、杉の活動は止まるところを知りませんでした。しかし、杉
は自らが発案した万博開催をその目で見ることはありませんでした。
昭和39年12月14日、杉道助は80年の生涯を閉じました。死の直前には、JETRO東京本部で貿易推進本部
の総会に出席し、発展途上国との調和の必要性について言及するなど、財界人としての歩みは最期まで衰
えることはありませんでした。杉がきっかけを作った万博開催では、近畿2府5県の知事、議会議長に加えて
各府県商工会議所による万博準備協議会が設立され、杉の唱えつづけた「近畿は一つ」が実現されました。
昭和45年、日本万国博覧会は大阪千里丘陵で開催され、入場者6400万人を超える万博史上最大の規模と
なり大成功を収めました。万博の成功は、高度成長によって経済大国となった日本を、そして敗戦から力強
く立ち上がりさらなる成長を遂げた大阪を象徴するイベントとなりました。杉の示した復興から成長への道筋
は、新しい時代感覚と意欲とを持った若い世代に引き継がれ、現在の私たちの生活の礎にもなっています。

■参考文献
・『大正8年大演習記録』
・『来往その他―昭和25年1月 秘書課―』
・杉道助追悼録刊行委員会『杉道助追悼録』上・下巻(杉道助追悼録刊行委員会、昭和40年)
・伊藤俊雄編『大阪商工会議所七十五年史』(大阪商工会議所、昭和30年)
・大阪府『大阪百年史』(大阪府、昭和43年)
・関西経済連合会『関西財界外史』戦前篇(関西経済連合会、昭和51年)
・同『関西財界外史』戦後篇(同、昭和53年)
・阿部武司『近代大阪経済史』(大阪大学出版会、平成18年)
 
 
 第23回大阪府公文書館運営懇談会
 
平成21年2月5日木曜日14時から16時に当館3階会議室におきまして、第23回大阪府公文書館運営懇
談会が開催されました。
(出席委員)
・上田さち子委員(大阪府立大学名誉教授)
・高田常三郎委員(元大阪府人事委員会事務局長)
・村田保委員(財団法人住吉村常盤会理事)
・山中永之佑座長(大阪大学名誉教授、大阪経済法科大学アジア研究所客員教授)、
以上4名の先生方にご出席頂き、当館の運営に関して、ご指導、ご鞭撻を頂戴しました。
委員の先生方に頂きましたご意見をふまえ、今後の適切な公文書館行政を行っていくとともに、府民サービ
ス・利用者サービスの向上に、取り組んでまいります。
なお、運営懇談会の議事録の詳細は、当館ホームページに掲載する予定です。ご興味のお有りの方は、是
非ご覧になってください。HPアドレスは、8ページ末尾に掲載しております。

平成20年度大阪府公文書館アーカイブズ・フェアをふりかえって
平成18年度より始めました大阪府公文書館アーカイブズ・フェアは、今回で3度目をむかえることができまし
た。今回のフェアは、企画展示・講座を10、11月と約2ヵ月にわたって開催しました。
企画展は、「公文書館所蔵資料にみる明治の大阪」と題し、当館2階展示室において、10月1日水曜日から1
1月27日木曜日まで行いました。明治維新後の大阪が、どのような変化を遂げていったのかを当館所蔵の明
治期の公文書、府知事写真、第五回内国勧業博覧会資料などから見ていただきました。
歴史講座は、企画展のテーマにそって下記のテーマで、10月6・20・27日月曜日に開催しました。
古文書講座は、川中家文書を教材に初心者向けの古文書解読を、10月7・14・21日(火曜コース)、10月
8・15・22日(水曜コース)、10月9・16・23日(木曜コース)の3コース開催しました。
特別講座は、フェアの主旨にご賛同いただいた歴史研究者、郷土史研究者の方々の協力を得まして、特別
講座の講師をボランティアで行っていただきました。ここで改めまして、特別講座を引き受けてくださった講師
の方々に、心よりお礼申し上げます。
また、各講座を受講された方々からは、アンケートのご協力をいただき、誠にありがとうございました。いただ
きましたご意見などは、今後の当館の普及・啓発のための参考にさせていただきます。
アンケートによるご意見・ご感想は、以下の通りです。
○企画展 「公文書館所蔵資料にみる明治の大阪」
・歴代知事写真の展示は、良かった。
・文書類もいいが、視覚に訴えるビジュアルな展示もほしい。
・展示スペースの関係もあると思うが、展示物が詰め込みすぎていて見にくかった。ゆったりと見られるように
して欲しい。
・展示物を説明する文字が小さくて読みづらい所があった。年配の来館者にも配慮した展示をしていただけ
るとありがたい。
 
 歴史講座 「明治大阪の発展と実業家たち−第五回内国勧業博覧会の開催−」
・映像資料も加えられており、非常に興味深く聴講した。より深い内容の講義を期待する。1時間半があっと
いう間だった。
・内国勧業博覧会の開催や内容がよく分かった。住まいのミュージアムで、模型を見ておりましたので、身近
に感じました。
 
 古文書講座 「古文書の解読」(川中家文書)
・初めての古文書学習者にも対応するような資料で、講師の説明も丁寧でわかりやすかった。
・古文書を身近に感じることができた。次回も期待して受講したい。
 
 特別講座  
 第1回(11月5日・水)「近世大坂三郷都市下層民対策−人権の視点から−」
講師 田宮 正彦氏(大阪歴史教育者協議会会員)
・今回の講座で、大阪の歴史や生活が詳しく説明され勉強になった。次回の講座にも是非来たい。
・資料が豊富で興味深く、また具体的な事例にまで触れて説明していただいた点が、理解し易かった。
 
 第2回(11月10日・月)「続与謝野晶子物語−源氏物語千年紀によせて−」
講師 西 真理子氏(与謝野晶子研究者)
・映像あり、独唱ありで、面白おかしい、しかもわかりやすい講義をしていただきよかった。多才なご講演に
敬服した。
・講師の先生の素晴しいプレゼンテーション能力で、与謝野晶子のファンになった。
 
 第3回(11月17日・月)「赤毛のアンが生きた時代の日本とカナダ−児童文学から見る歴史の世界−」
講師 宇都宮 浩司氏(帝塚山大学講師、博士〔経済学〕、日本カナダ学会正会員)
・1890年代のカナダと日本の比較、写真を交えての説明はわかりやすくてよかった。講師の話術も巧みで、
最後まで楽しく拝聴した。現代の食生活の話、写真もよかった。
・あっという間に時間が過ぎ、これからも継続的な開催をせつにお願いする。カナダにも興味が沸いた。
 
 第4回(11月26日・水)「なにわ言葉いろいろ」
講師 山本 祐弘氏(郷土史研究者)
・語源を漢字で当てて説明していただいた点が面白く、わかりやすかった。
・丁寧で、とても良かった。わかっているつもりの言葉にも、違う意味があった。
・お人柄のにじみ出た丁寧な講義でした。また受講したいと思った。
 
その他、さまざまなご意見、ご要望、誠にありがとうございました。
 
  レファレンス便り 
 
これまでに、皆様から当館に寄せられたレファレンスと回答の一部を紹介します。

Q.公文書館の資料を複写したい。
A.当館の資料は申請して頂ければ複写いたします。複写料金は、通常資料1枚10円、マイクロフィルム1枚
30円です。なお、遠隔地にお住まいの場合には、複写・郵送サービスも行っておりますので、お気軽にお問
い合わせ下さい。

Q.明治時代の府令(府の命令)を見たい。
A.府令は、『大阪府公報』に掲載されております。当館では、資料のデジタル化を進めており、『大阪府公報』
については、明治21年1月(創刊号)からのものが当館HPにてご覧いただけます。
多くのレファレンスをいただきまして、本当にありがとうございました。公文書館では皆様からのレファレンス
を心よりお待ちしております。

 
  大阪府公文書館からのお知らせ 
 
特別展 6月9日は「国際アーカイブズの日」
平成19年12月におこなわれた国際公文書館会議(Ica)において、6月9日を「国際アーカイブズの日」として
定められました。当館では、アーカイブズ(記録資料・文書館)普及啓発のため、Icaが定めた6月9日にあ
わせ、平成21年6月中に特別展を開催する予定です。展示、講座、映像上映会を企画しております。
なお、特別展の詳細・日程などは、平成21年4月中に、当館HPなどで公表する予定ですので、是非とも、ご
覧のうえ、お越し下さいますようお願いします。
当館HPアドレスは下記の通りです。

http://www.pref.osaka.lg.jp/archives/index.html

また、今後、当館の各種展示・講座等の案内について、FAX・メールにて送付をご希望の方は、当館の担当
者までお問い合わせ下さい。
メール:
homu-g01@sbox.pref.osaka.lg.jp

利 用 案 内
◆ 閲覧時間
・月曜日から金曜日 午前9時15分から午後5時
◆ 休館日
・土曜日、日曜日、祝日及びその振替休日
・年末年始(12月29日から1月3日)
・毎月末日(土・日等休日の場合は、その前日)
公文書館は、主に府が作成・入手した公文書や資料類のうち歴史的・文化的な価値があるものを保存し、広
くみなさんにご利用いただく施設です。
最寄駅
 阪堺電軌上町線帝塚山三丁目駅(徒歩3分)
 南海高野線帝塚山駅(徒歩6分)
 大阪市営バス姫松、府立総合医療センター
 (徒歩6分)
大阪府公文書館 大阪あーかいぶず 第43号 平成21年3月1日発行
〒558−0054 大阪市住吉区帝塚山東2丁目1−44/Tel06−6675−5551/FAX06−6675−5552
ホームページ 
http://www.pref.osaka.lg.jp/johokokai/archives/

このページの作成所属
府民文化部 府政情報室情報公開課 公文書グループ

ここまで本文です。