人権学習シリーズ みえない力 左利きの国?!/資料2 「個人モデル」と「社会モデル」

更新日:平成28年2月12日

左利きの国?!(めやす90分)

資料2 「個人モデル」と「社会モデル」

   「個人モデル」とは、障害者が困難に直面するのは「その人に障害があるから」であり、克服するのはその人(と家族)の責任だとする考え方である(6)。それに対して「社会モデル」は、「社会こそが『障害(障壁)』をつくっており、それを取り除くのは社会の責務だ」と主張する。

人間社会には身体や脳機能に損傷をもつ多様な人々がいるにもかかわらず、社会は少数者の存在やニーズを無視して成立している。学校や職場、街のつくり、慣習や制度、文化、情報など、どれをとっても健常者を基準にしたものであり、そうした社会のあり方こそが障害者に不利を強いている――と考えるのが「社会モデル」である。「障害があるから不便(差別される)」なのではなく、「障害とともに生きることを拒否する社会であるから不便」なのだ、と発想の転換を促すのである。

●なぜ社会モデルか

   社会モデルは、さほど革新的な概念には見えない。社会に問題があるのは当然であり、今日よく聞かれる「バリアフリー」や「ノーマライゼーション」とどこが違うのか、と思われるかもしれない。だが「バリアフリー」という言葉の氾はんらん濫に比べて、多様な障害者にとって何がどう「バリア(障壁)」なのかに関心が高まっているだろうか。スロープのようなわかりやすいシンボルは別として、多くの障害者にとって切実なバリアは残ったままであるし、その理由も問われてはいない。また「ノーマライゼーション」のかけ声の一方で、なぜアブノーマルな生活を障害者が強いられてきたのかは必ずしも意識されていない。確かに「バリアフリー」や「ノーマライゼーション」は、社会モデルと重なる部分を持つが、そうでない部分もある。これらの概念は、現行社会の構成原理そのものを問うよりは、部分的改良で対処することを可とするものであるし、何より、社会モデルのように社会の全体像を捉えようとするものではないのだ。

   社会モデルはものの捉え方を変える。例として「ろう者が講座に出たいが手話通訳がない」という状況を考えよう。「耳が聞こえないから参加できない」と考えるのが個人モデルであり、その場合、手話通訳の用意は「例外的、恩恵的な特別措置」となる。だが社会モデルではそもそも主催者が多様な参加者を想定していないことが問題なのだから、手話通訳は「本来、用意すべきこと」であり、ろう者が主催者にそれを求めるのは当然の権利だ。主張しづらいのが現実だが、「たった一人のために予算を使えない」といった多数派の論理に抵抗し、権利を求める根拠となるのが社会モデルなのである。

●社会モデルは別名「人権モデル」

   社会モデルは「人権モデル」と言いかえられるほど、人権と親和性が高い概念である(7)。当事者運動の過程で血肉化された社会モデルの考え方は、個々の障害者が直面する問題を、徹底して社会の文脈で捉える思想であり、運動における武器でもあった。駅の改良にせよ、教育や就労をめぐる闘いにせよ、個人の努力や周囲の支援に頼るのではなく、社会の側の責任として解決すべきだと運動は主張してきたし、その認識を社会一般に広めようともしてきた。

「社会モデル」という言葉を使わなくとも、日本で行われてきた障害当事者運動は社会モデルの視点を含んできた。障害者問題を人権の視点から捉えるならば、社会モデルは不可欠の視点なのである。

 (6) 個人モデルは別名「医学モデル」といい、治療やリハビリによる身体機能向上を問題解決の柱と考え、障害者は何をおいてもそれに専念すべきとされる。他方、社会モデルは医療を相対化し、治療も訓練も本人の選択だと考える。
 (7) 1993 年に国連総会で採択された「障害者の機会均等に関する基準規則」では既に社会モデルが採用されており、「障害者権利条約」制定に向けた動きのなかでは、社会モデルを「人権モデル」と呼ぶ提案が行われている。「障害者差別禁止法制定」作業チーム編『当事者がつくる障害者差別禁止法−保護から権利へ』現代書館、2002 年。

 出典:「 障害者問題を扱う人権啓発」再考―「個人−社会モデル」「障害者役割」を手がかりとして―(松波めぐみ、『部落解放研究』151 号2003 年(平成15 年)より抜粋)
 発行:(社)部落解放・人権研究所 

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府民文化部 人権局人権企画課 教育・啓発グループ

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