少年犯罪被害当事者の会代表 武るり子さん

更新日:2009年8月5日

被害者等の声(本文は、執筆者の原文どおり掲載)

 (2) 武 るり子さん(少年犯罪被害当事者の会代表) 

 私たち家族は、長男孝和の事件が起こるまで普通に生活をし、警察や裁判所、弁護士などに関わることもなく、憲法や少年法などを詳しく知らなければならないこともなく過ごしていました。子供3人に恵まれ少しずつ築きあげた幸せな5人の家族でした。それが平成8年11月3日、まったく面識のない少年の理不尽な暴力のため、一瞬のうちに壊されたのです。 

 その日は、息子の通う高校の文化祭でした。文化祭に来ていた他校生ら6人グループのうちの2人に謂われのない因縁をつけられたのです。文化祭の後片付けをしていた息子の教室に入ってきて、何人かに「○○知らんか?」と、とても威圧感のある感じで言ったそうです。最後に息子にもそう言ったそうです。その部屋は、カラオケをしていて、まだ音楽が流れていたそうです。
 何か言われた時に後ろを向いていた息子は、よく聞こえなかったのか「えっ?」と振り返ったそうです。すると返事が悪いと怒りだし、襟首をつかみ、なぐるまねをしたといいます。もう一人は、いすを振り上げなぐろうとしたそうです。そして廊下で待っていたもう一人に、「もうええやん、やばい、帰ろう」と言われ、その場をいったん出ていったそうです。でもその後、一時間近く6人で待ち伏せしていたのです。相手は身長180cm以上でがっしりしていて、とても威圧感があったといいます。
 息子は友達の自転車に2人乗りをして逃げました。でも1kmぐらい逃げた所で追いかけてきた相手の少年に捕まってしまいました。その場所は逃げようと言っていた友達の家の数メートル手前の所でした。そんな相手に関わりたくないため悪くもないのに教室でも謝り、門でも謝り、そして捕まった所でも謝ったと聞いています。 

 大切に育てた息子でした。軽症でしたけど血が固まりにくい血友病という病気を持っていたこともあり、大きくなっていくのを楽しみに、一年一年指折り数え育てた息子でした。過保護にならないようにもしてきました。幼稚園の年長の時、活発さを生かせるようにボーイスカウトにも入れ、事件当時まで、それを続けていました。
 その年の4月に高校生となり、10月6日には、16歳の誕生日を迎えたこともあり、ホッとした気持ちになったときのことでした。 

 11月3日、事件直後に病院へ連れて行ったとき、息子が「今日、約束があるから行くで」と言うので、私が「何言ってんの」といつもの調子で交わした言葉が最後の言葉になりました。その夜中からほとんど脳死に近い状態になり、12日間苦しいことも悔しいことも何一つ言えず死んでいきました。私は何もできず、ただ命が助かることだけを必死で祈り続けました。でもその願いは届かなかったのです。 

 自分より先に逝かせたこと、母親として何もできず自分の無力さを責め続けるようになったのです。それ以来数ヶ月、他の2人の子どものことも何もしてやれず家事もほとんどできず泣いてばかりの毎日でした。
 主人はいつも「ケンカになりそうになったらまず謝れ。それでダメなら逃げろ」と言っていました。それでもダメならどうするんと聞く息子に「2,3発殴られても死にはせん。とにかく関わるな。」と教えてきたのでした。昔はちゃんとルールがあったということでした。息子は、そのとおり言われたことを守って死んでいきました。主人は、そう教えてきた自分を責めていました。ようやく順調になってきた内装業の仕事も行けず職人任せになりました。朝昼晩お酒を飲み続け、部屋に閉じこもり壁をたたきながら泣き叫んでいました。時にはお互いを責め合うこともありました。
 誕生日、入学式、卒業式……今までの喜びは、すべて悲しみに変わりました。小さいことで言えば、4人で食事をすることも悲しみでした。5人での夕食があたりまえだったので、その時、下の子が「おいしいね」と言っても苦しくなるのです。そうすると2人の子供も何も言えなくなるのです。家庭も崩壊しそうになりました。私も主人も突然に起きた、あまりの悲しみの大きさに心が押しつぶされ、精神的に極度に不安定な状態だったからです。 

 それに加えて、私たちの場合、加害者が少年ということで、その当事は、警察からも家庭裁判所からも、事件の内容、加害者の名前、何一つ教えてもらえなかったのです。そのことも私たちの悲しみ、怒り、苦しみをよりいっそう強くさせたのでした。(平成12年の少年法改正以降は、少しずつですが、被害者への配慮も考えられるようになってきています)
 警察の人は、まずこう言いました。「日本は法治国家であり、個人の恨みをはらすとか、仇討ちをすることは許されない。そして、少年法という法律があり、加害少年にも人権があり、立ち直る可能性がある。」と。
 家庭裁判所では、こう言われました。「ここは加害少年の将来を考えるところで、事実関係をどうのこうのする所ではない。親御さんの心情を聞きたいわけではない。」というのです。
 どこの言葉の中にも殺された息子のことは、まったく入っていませんでした。死んだものはどうでもいいという扱いに感じたのでした。
 こんなことを言われても私たちは強く言い返すことはしませんでした。被害者は弱い立場にあります。ちゃんと調べてもらわなければと思うし、悪い心証を与えてはいけないと思うからでした。少年法のことを詳しく知らない私たちは、それでもまだ何らかの裁きがあると思っていたのです。
 でも、人の命を奪ったという事実よりも加害少年の保護更生だけに重点をおいている少年法があるため刑事裁判の機会さえ奪われ、もちろん裁きもなかったのです。
 加害者側の誠意を待ちました。審判が終わるまでの形だけの代理人を通じての接触は3回ありましたが、気持ちのあるものではありませんでした。審判の結果がでた後、民事裁判を起こすまでの3年間まったく謝罪も接触もありませんでした。現在も、毎年迎えるお盆、命日に連絡をもらうことはありません。 

 私たちは、加害者はもちろんのこと、加害者の親さえ一度もあったこともないまま、民事裁判の時効が3年しかないということもあり、平成11年10月末に民事裁判を起こしました。事実を知るため、責任をはっきりさせるため、そして国が刑罰を与えないのであれば刑罰の意味も含めて、裁判を起こしたのです。でも、民事裁判を起こすにもお金や時間がなければ起こすことができません。そんな人たちがたくさんいるのを知ったのでした。幸い私たちは、被害者の親の感情、考えなどをよく酌んでいただける弁護士の先生方に巡り会えることができました。社会で騒がれることもなく、重大事件として扱われることもなく、命を命として扱ってもらえなかった息子の事件に弁護団まで組んでいただけたことをありがたいと思っています。そして、2年5ヶ月かかって平成14年3月19日に判決をもらいました。
 加害少年1人とその両親の責任が認められ約8千万円の判決をもらいました。その振り込まれるお金と寄付を基に孝和基金をつくりました。少年犯罪の場合、やはり民事裁判に頼ることが多いので、その費用の一部に使ってもらいたいと思って基金をつくったんです。そして、判決が出たとしても、ほとんどが払われない現状があるの、私たちは、そういう現状も伝えたくて基金をつくったのです。 

 私と主人は、息子が事件にあったときに決めていたことがありました。息子が息を引き取る前のことです。自分たちから新聞社にファックスを流して、何の落ち度のない者が、一方的に因縁をつけられ暴力を振るわれる、こんな事があっていいのか、と声を上げたのです。
 主人は、混乱状態の中で私にこう言ったんです。「おれたちは見せ物パンダになってもいいな」と言ったのです。「もうプライバシーもなにもないぞ」と。私は「わかった」と返事をしました。主人はこうも言いました。「外に向けて話をするんだったら、都合のいい事だけ言っても伝わらない。すべてをさらけ出さないと伝わらない。その覚悟はあるか」と言ったのです。私は「はい」と答えました。この11年間、私と主人はすべてをさらけ出して話をしてきました。これからも変わりません。確かに被害者の人権、プライバシーを守らないといけないと思います。たくさんの被害者の人は、そう声を上げています。でも、私と主人のように、それもなくていいという必死の思いで声を上げている遺族もいるということも知ってもらいたいのです。
 私は、思うのです。事件によっては、絶対に被害者の名前を出してはいけないこともあります。それは守らないといけないと思います。でも、私たちの事件のようなものであれば、被害者の名前が出たとしても守られる社会になってほしいと思うのです。今は、情報社会です。事件にあうと、少なくとも地域にはわかってしまうのです。だから私は、いつも話します。事件にあったとしても被害者やその家族が守られる、法律、制度を作ってほしいと。 

 そして、もうひとつ大切なことは、地域の理解だと思います。
 親というのは、子どもの方が先に死ぬとは思わないし、子どもがどんな状況にあっても親の強い思いがあれば救えると信じているものです。でも私たちは、それができませんでした。親として無力な自分を責め、夫婦がお互いを責め合うという毎日が続きました。どんどん家庭が壊れていくなかで、残された下の2人の子どもたちもどんなにつらかったかと思います。
 事件後、絶望の淵に落ちていくような私たちを助けてくれたのは、今まで付き合いをしていた近所の人や亡くなった息子の友人たちでした。泣き声、怒鳴り声、物が壊れる音が絶えないような家に「おはよう、ご飯食べた?」と、入ってきてくれました。一緒にご飯を食べたり、時には、鍋でおかずを持ってきてくれたりしていました。警察に行くときには、一緒に行ってもらったり、何か書類を作って家庭裁判所に提出した方がいいとわかったときには、みんなに集まってもらい、一緒に作ってもらったりもしました。息子の友人たちは、毎日、放課後にうちに寄って、お線香をあげてから息子の部屋で2人の子どもたちの遊び相手をしてくれていました。家族4人になると笑うことなどなかった2人の子どもたちが、そのときだけは笑えていたと、そのことに気がついたときには、改めて、ありがたく涙がでてきました。
 振り返れば、息子が入院しているときから、お通夜、お葬式、その後の日常生活、そして、直後の手続きや情報集めまで、すべてを一緒にしてもらったのです。現在では、大阪府など色々な所に被害者専属の窓口ができてきていますが、当時は、ありませんでした。だから、当時の私たちにとっては、周りの人たちの助けがとっても大きな力でした。そして、私たちの家族が孤立しなかったのも、その人たちのおかげだったと思います。初めてのことで、どうしていいかわからなかったけど、「ほっとけんかった」と、あとになって言われました。
 私は、事件にあった直後、自分から「助けてほしい」と言えたことも良かったかなと思っています。だから、これからは、何か困ったとき、悩んだとき、自分だけでは抱えきれないと思ったときには、助けを求めやすい地域になっていってほしいと思います。そしてその声に気が付いたときには、寄り添う地域になってほしいのです。
 誰かが一緒に考え、悩んだりしてくれることで、少しずつでも自分の力を取り戻していけるようになると思うのです。 

 私は、息子を亡くしたことで、胸には、えぐられるような大きな穴があきました。それは、息子を取り戻すことでしか埋められないものですから、これからも胸に抱えたまま生きていかなければなりません。でも、事件の前も後も変わらず接してくれた周りの人たちや、事件を機に新たに知り合った人たちの関わりの中で、何か違うものが心を埋めてきているように思います。
 人の一言で救われたり、ハッと気が付いたことが何度あったことかしれません。大切な息子の命を奪い私たち家族を苦しめたのも人だけど、それを助けてくれるのも人なんだと、今、つくづく思います。 

 これからは、被害者が住んでいる身近な市町村にも、被害者専用の窓口まではいかなくても対応してくださる誰かは居てほしいと思います。私は、当時色々な所に相談窓口を探しましたが、「ここは違います」と言われる度につらい思いをしました。
 被害者の抱えている問題は、それぞれ違っていて、確かに難しい問題が多いと思います。でも私の周りの人たちのように、できることもたくさんあると思うのです。だから、被害者が相談に行ったときには、誰かが、まずその声をしっかり受け止めて、被害者と一緒に、その人が一歩でも先に進めるように考えてもらえるようなっていってほしいと思います。 

 私は、被害者の権利がなかったことで、とても大変な思いをしました。だから、これからも被害者の権利が確立されるように話をしていきたいと思っています。でも権利というものは怖いものだとも思っています。権利が確立すると、それを間違った形で振りかざす人がでてくるからです。私は、絶対に権利は振りかざしてはいけないと思っています。
 私は、これからも被害者である前に一人の人間として、そして3人の子どものお母ちゃんとして、人間らしく生きていきたいからです。

少年犯罪被害当事者の会からの意見
 私たちの会は、毎年一回10月に大阪市西区民センターで「WILL」(ウィル)という名前をつけた集会を行っています。
 少年犯罪で殺された子どもたちを追悼しつつ、私たちの現状を少しでも多くの人に知ってもらいたいという想いで学生さんたちに助けてもらいながら手探りで始めたものです。今年で10回目になります。どうぞ一度、皆さんも参加して一緒に問題を考えていただきたいと思います。
 これ以上、子どもたちを被害者にも加害者にもしないために。

このページの作成所属
政策企画部 危機管理室治安対策課 支援推進グループ

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