茨木高等学校(新庄遺跡)

更新日:2017年3月30日

学校に眠る遺跡(茨木高等学校、新庄遺跡)

茨木高等学校と新庄遺跡

茨木高等学校は、明治28(1895)年に大阪府第四尋常中学校(じんじょうちゅうがっこう)として開校しました。

当初は、茨木市総持寺(そうじじ)の庫裡を仮校舎として使用していましたが、明治30(1897)年、校舎完成と同時に、茨木市新庄町の現在地に移転しました。

以来、明治34(1901)年、大阪府立茨木中学校と改称するなどして、120年近く経っていますが、その地下に遺跡が眠っていることは全く知られていませんでした。

平成4年(1992)、茨木高等学校の全面的な改築工事に先立って埋蔵文化財の有無を調べる試掘調査が実施されました。

すると、地表下2メートルから3メートルの深い層位から古墳時代から中世の遺物が出土し、遺跡の存在が明らかになりました。

新しく発見された遺跡は「新庄遺跡」と命名され、発掘調査が平成4年(1992)から平成7年(1995)まで実施されました。

【図】しんじょう遺跡位置図

■ 新庄遺跡位置図

【写真】しんじょう遺跡遠景写真(南から)

■ 新庄遺跡(しんじょういせき)遠景写真(南から)

水泳池・水泳場の発掘

発掘調査は、プールや体育館・校舎などの改築工事で、地下の遺跡が壊れる部分に限って実施しました。主として、学校の敷地の南半部分です。

地表下1メートルまでは、高等学校建築時の盛土ですので、大型重機で掘削しました。すると、プールが2箇所発見されました。

当初は何の跡か分らなかったのですが、校長先生や卒業生の指摘によって、それが大正時代に水泳池・水泳場と呼ばれていたプールの跡であることが分りました。

水泳池・水泳場については、旧制茨木中学の教諭であった杉本伝(すぐもとつとう)著『泳ぎと歩き』や『茨木高校百年史』に詳細な記述があり、その歴史を辿ることができます。

まず水泳池ですが、明治43年(1910)に南庭拡張工事が行われました。その土採り跡に水が溜まっていました。それに着目したのが初代加藤校長です。

当時、大阪府知事から「大阪府立中学校の生徒には、夏季水泳の訓練を必修の課目として実施すべし」という訓令が下り、「どうしても泳ぎを生徒達に修錬させねばならぬ」しかし茨木は海より遠く、合宿となると保護者に経費の負担を掛けることになる。

そこで、加藤校長は土取り跡を生徒の作業で浚え、木の丸太を打ち、板を張って、泥土の崩れを防ぎ、底に茨木川の砂利を敷き詰め、茨木川からの水を引き入れて、また水路に返すという方法で、長さ30メートル幅20メートルの水泳池を造り上げました。

作業は、大正2年(1913)5月から6月の1ヵ月余りで完了し、この水泳池で都合3年間水泳授業が行われました。このプールは、日本で最初に造られた学校プールでした。

【写真】発見されたすいえいいけ全景(東から)

■ 発見された水泳池全景(東から)

ところがこのプールは水深が1.4メートルと浅く、大勢で泳ぐとすぐに濁ってしまうので、大正3年(1914)、さらに深く掘り下げられました。

しかし衛生上もよくなかったため、大正4年(1915)に水泳池の北方120メートルの所に、新プールを建設することになりました。

その工事も、前回同様、川端康成や大宅壮一を含む当時の生徒達の体操の時間や放課後の勤労作業によって行われました。

6ヵ月かけて出来上がったプールは、水泳池同様、茨木川の水を引き入れるプールだったのですが、長さ42メートル、幅27メートルの長方形で、深さは、1.2、1.5、1.8メートルの3段になっていました。

深さ1.2メートルの所、つまり足の立つ部分はコンクリートで固め、1.5・1.8メートルの所は、砂利敷きでした。本格的な水泳場の誕生です。

しかし、この水泳場は長さが8メートル足りなかったため、大正8年(1919)さらに拡張工事が行われ、ようやく長さ50メートルの競泳の記録が計測できる正規のプールが完成しました。

このプールが、後にオリンピック選手を育てた、「水泳王国茨木中学」の有名なプールでした。この水泳池・水泳場の跡が発掘調査で発見できた訳です。

今回、見つかった水泳池はその南端は調査区外でしたが、南北方向に長さ30メートル、東西方向に幅は北側で22メートル、南側で19メートルでした。

水泳池の底は東側が一段深くなっており、底には砂利が一面に敷き詰められていました。水泳池の北側には、打込まれた松の丸太(まるた)や杉の横矢板(よこやいた)がよく残っていました。

水泳池の北西側には、木枠・桶組みの深い井戸があり、7本の土管が連結して、井戸から水泳池に水が自然勾配で入るように処置されていました。渇水期に利用されることもあったのでしょう。

水泳場は、調査区の関係で、北端と南東部分が検出されました。規模は、南北で約30メートル、東西で50メートル以上ありました。東端は、後世の攪乱で削られていました。

水泳場の北端では、松の丸太(まるた)・杉の横矢板(よこやいた)・梯子状に組まれた控えの横木とプール内に幅35センチメートルの煉瓦敷きの列や水の取入れ口などが見つかりました。

南東部分では、集水枡と土管による排水路および杭を打ち、板を固定した排水溝などが見つかりました。なお、水泳場の底は、すべて簡易なコンクリート敷きでした。

水泳場は昭和44(1969)年に新プールができるまで、高さ10メートルの飛び込み台や水球施設・プール濾過装置を作るなどの改修工事が幾度も重ねられ、都合50年以上使われ続けました。

その栄光の歴史を記念して「近代水泳発祥之地(きんだいすいえいはっしょうのち)」の石碑が昭和60年(1985)、校内に建てられ、顕彰されています。

【写真】発見された水泳場の北端(北東から)

■ 発見された水泳場の北端(北東から)

学校を掘る

新庄遺跡は、西の千里丘陵と東の富田台地(とんだだいち)に挟まれた茨木平野のほぼ中心に位置し、地表下1メートルから3メートルの深さにわたって堆積した沖積層である砂層と粘土層の中に、弥生時代から近世に及ぶ各時代の遺構と遺物が重層的に残存していました。

沖積層を除去すると低位段丘層(ていいだんきゅうそう)である黄色粘土層が出てきます。

今回の調査では黄色粘土層の上面から、2万年前のナイフ形石器(ないふがたせっき)が2点出土し、氷河時代の狩人がナウマン象やオオツノジカを追いかけていた状況が復元されます。

また、同じ層位から1万2千年前の縄文時代草創期から早期初頭にかけての有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)も出土し、その時期にも狩猟の場であったと言えます。ナイフ形石器(ないふがたせっき)や有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)は、すべて大阪府・奈良県境の二上山(にじょうさん)で産出するサヌカイト製でした。

【写真】発見されたゆうぜつせんとうき、ないふがたせっき、いしのきり、せきぞくなどの石器

■ 有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)(上段左)、ナイフ形石器(ないふがたせっき)(上段中央)、石錐(下段左 弥生時代前期)、

  その他の石器は石鏃(弥生時代前期)

新庄遺跡では地表下3メートルで、第5面と呼ばれている遺構面を確認し、弥生時代から古墳時代の遺構(いこう)が検出されました。

弥生時代前期の遺構は、竪穴住居7棟、ゴミ溜め穴かと推定される土坑(どこう)13基、井戸2基など、弥生時代の初期の集落としては大規模なものでした。

前期中段階の弥生土器も多数出土しましたが、縄文時代晩期終末の突帯文(とったいもん)土器も少量出土し、米つくりを生業とする弥生の村に、狩猟採集を生業とする縄文人も少数、生活していたことが分りました。初期の村ならではの様子です。

また、石器も出土しましたが、鏃や錐に使われているサヌカイトは二上山(にじょうさん)産ではなく、香川県坂出市の金山東(かなやまひがし)産のものでした。ずいぶん、遠隔地から運ばれていることが判明しました。

弥生時代中期の遺構(いこう)は、僅かで、土坑(どこう)と溝と方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が検出されました。

弥生時代後期は、竪穴住居4棟、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)4棟、井戸、土坑(どこう)など、多数の遺構が検出され、集落跡と判明しました。中でも土壁(つちかべ)をもつ竪穴住居の発見は、特筆すべきものでした。

この竪穴住居は、平面形が長さ5.7メートル幅5.2メートルの長方形で、東に入口、床面中央に炉、4本柱、南側にベッド状遺構と呼ばれる一段高い床をもつものでした。

通常のの竪穴住居だと壁溝の位置に、壁の下地に組まれた思われる杭の跡や帯状の盛り土が検出され、土壁(つちかべ)の存在が推定されました。竪穴住居の上部構造を研究する上で貴重な資料となりました。

【写真】つちかべをもつ竪穴住居【図】つちかべをもつ竪穴住居の復原よそう図

■ 土壁(つちかべ)をもつ竪穴住居(弥生時代後期)                     ■ 土壁(つちかべ)をもつ竪穴住居の復元案

また、調査区南西側には、蛇行する幅10メートルの河川跡が長さ120メートルにわたって検出されました。茨木川の古い流路跡と考えられました。

古墳時代前期は、竪穴住居5棟、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)2棟、方形の古墳8基、井戸、土坑(どこう)、溝など多数の遺構が検出され、居住域と墓が近接した集落跡と判明しました。

古墳時代中期は、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)7棟、井戸、溝などの遺構が検出され、居住域と判明しました。

古墳時代後期は、主体部が木棺直葬(もっかんじきそう)の方形の古墳が3基検出され、墓が造られた場所と判明しました。

【写真】古墳時代中期、後期の方形の古墳群

■ 古墳時代中期・後期の方形の古墳群(南から)

地表下2.2メートルの深さで、第4面と呼ばれた遺構面では、平安時代から鎌倉時代の遺構が検出されました。

約60センチメートルの堆積層を4遺構面に分けて調査しましたが、条里(じょうり)型地割りに規制された掘立柱建物群(ほったてばしらたてものぐん)と水田・畑跡が各面で検出され、緑釉陶器(りょくゆうとうき)・灰釉陶器(かいゆうとうき)・黒色土器・土師器の土器類のほか、和銅開珎(わどうかいちん)や鉄鏃(てつぞく)、帯金具(おびかなぐ)(バックル)・滑石製地鎮具(かっせきせいじちんぐ)等の大変珍しい遺物が出土しました。

【写真】中世前半のほったてばしらたてものあと(西から)

■ 中世前半の掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)(西から)

【写真】平安時代の出土遺物

■ 平安時代の出土遺物

地表下1.8メートルの深さで、第3面と呼ばれた遺構面で室町時代の遺構が検出されました。

約50センチメートルの堆積層を2面に分けて調査しましたが、条里(じょうり)型地割りの一坪を濠で更に区画した集落の一部や畑跡が検出されました。

地表下1.5メートルの深さで、第2面と呼ばれた遺構面で室町時代後半から江戸時代前半の遺構が検出されました。

条里(じょうり)型地割りがかなり崩れ、ほぼ全調査区で水田が検出されました。また調査区西端で、茨木川の河川跡や堤状の盛り土が検出されましたが、河川の氾濫の痕跡が多く確認できました。

地表下1メートルの深さで、第1面と呼ばれた遺構面で江戸時代中頃から明治時代前半の遺構が検出されました。

茨木川の河川跡や幅15メートルの堤防、川からの取水路、溜め池、井戸、水田、畑、屋敷地などが検出されました。

このように新庄遺跡は、地表下2メートルから3メートルの間に、旧石器時代から近世にわたる5回もの遺構面が見つかりましたが、これには茨木川が深く関係しています。

現在、茨木川は高校から1キロメートル上流で安威川と合流していますが、昭和16年に付け変えられるまでは、高校のすぐ西側を流れていました。遺構面(いこうめん)と遺構面(いこうめん)の間には、砂が堆積しているところもありました。これは、洪水などで流されてきた砂だと考えられています。

新庄遺跡は、茨木川のほとりという水を利用するのに非常に恵まれた位置に営まれた遺跡ですが、人々は洪水というリスクとも戦ってきたのです。

 用語解説

掘立柱建物(ほったてばしらたてもの):地面に穴を掘り、柱を直接立てて作った木造建築

地鎮具(じちんぐ):建物を建てるとき、工事の安全と順調な竣工祈願するために使用した供え物。

印刷用はこちらから →新庄遺跡 [PDFファイル/1.26MB]

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教育庁 文化財保護課 保存管理グループ

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