芹生谷遺跡(せるたにいせき)

更新日:2017年3月30日

所在地: 南河内郡河南町芹生谷(せりゅうたに) 地内 (一般国道309号河南赤阪(かなんあかさか)バイパス工事)

種類: 集落跡

時代: 古墳時代から室町時代

調査期間: 平成24年9月から平成24年11月

主な遺構: 古墳時代後期の竪穴住居・掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)、室町時代の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)など

主な遺物: 打製石器(だせいせっき)の鏃(やじり)、須恵器、土師器、瓦器(がき)など

 芹生谷遺跡(せるたにいせき)は、河南台地の中央にある集落遺跡です。台地は千早赤阪村の水分神社(みまくりじんじゃ)からながれる用水によってうるおされ、用水のほとりには全国的にも珍しい双円墳(そうえんぷん)、国指定史跡金山古墳(かなやまこふん)があります。この古墳は六世紀後半に営まれたもので、石室におさめられた家形石棺はこの時期の古墳の年代を位置づける指標となっています。

 今回の調査では、古墳時代後期(六世紀後半)の一時期に営まれた竪穴住居四棟が発見されました。竪穴住居は一辺5.4メートル程度の大型で、四隅に柱穴があり、北側にカマドをそなえます。建て替えの痕跡があります。住居内からは煮たきに使う土師器カメ、食器の須恵器蓋杯(ふたつき)などがみつかりました。

 古代の住居は竪穴住居から掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)に徐々に移行していきます。大阪では五世紀頃に掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が普遍化し、六世紀には竪穴住居がほとんどなくなってしまいます。今回発見された竪穴住居は府内では最終末のものです。周辺から発見された土器は六世紀後半の一時期に限られ、住居に建て替えが認められることから、金山古墳(かなやまこふん)の造営に従事した人たちが農閑期のみに利用したものかもしれません。

 発掘調査は平成25年度も継続する予定で、集落の性格が解明されることが期待されます。

      【写真】発掘調査で派遣された竪穴住居

(写真1) 調査地の全景で、手前に二棟の竪穴住居が重なって見つかりました。左奥の林に金山古墳(かなやまこふん)があります。

     【写真】別の場所で見つかった竪穴住居

 (写真2) 別の竪穴住居も同様に重なって見つかりました。同じ場所に建て替えられたようです。

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教育庁 文化財保護課 保存管理グループ

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