大手前高等学校(大坂城跡)

更新日:2017年3月31日

大坂城から大阪城へ

 大坂城跡は、大阪市の中央を南北に細長くのびる上町(うえまち)台地の最北端にあります。標高は約25メートルを測り、大阪市内の最高所にあたります。

 その範囲は、豊臣氏 大坂城の惣構(そうがまえ)の範囲として、北は大川、南は空堀、西は東横堀川(ひがしよこぼりがわ)、東は旧猫間川(きゅうねこまがわ)までということになります。

 大坂の町は、明応5年(1496)本願寺の第8世宗主蓮如(れんにょ)が、この上町(うえまち)台地の北端の地に「大坂御坊」を建立したことに始まります。蓮如は「御文章(ごぶんしょう)」の中で御坊が建立された地は「摂津東成郡生玉庄(いくたましょう)内大坂」と記しています。ここに始めて「大坂」の名が文献に登場します。大坂に本願寺が移されると一向宗の本拠地として強大な勢力を保持しますが、織田信長との石山合戦の末、第11世宗主顕如(けんにょ)は大坂明け渡しの要求に応じます。顕如(けんにょ)が退去してまもなく本願寺は焼失します。

 秀吉は、天正11年1583)に大坂城築城に着手します。天正13年1585)にわずか2年足らずで、金箔瓦で彩られた天守閣を備えた本丸が完成します。「フロイス日本史」には「とりわけ天守閣は遠くから望見できる建物で華麗さと広壮さを(誇)示(こじ)していた。」と紹介されています。その翌年には本丸を囲む二の丸の工事に着手し、文禄3年(1594)には惣構(そうがまえ)の建設も命じます。これによって、広大な「大阪城下町」が完成したといえます。秀吉は晩年の慶長3年(1598)、さらに強固な城を目指して三の丸築造工事を開始します。

 しかし秀吉の没後、大坂冬の陣、大坂夏の陣により「三国無双」といわれた大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡します。徳川氏は元和6年(1620から本丸と二の丸を復興し、徳川氏 大坂城が完成しますが、寛文5年(1665)の落雷により天守閣は焼失してしまいます。

 昭和3年(1928)に当時の大阪市長は、天守再建を含む「大阪城公園整備事業」を提案したところ、昭和5年(1930)市民の募金によって天守閣の再建が始まり、翌年完成します。この再興大阪城は豊臣氏 大坂城をモデルにしています。

【年表】大坂城にかかるおもな年表 

 大坂城関連年表 財団法人大阪府文化財センター「大坂城址3」2003年3月から引用  

 【写真】ドーンセンターに移築された石垣

ドーンセンターの西側に移築された豊臣時代の石垣 

ドーンセンター建設時に実施した発掘調査で発見された石垣を移築し、展示しています。

地下に眠る豊臣氏 大坂城

 昭和34年(1959)に大阪市、大阪市教育委員会などによって結成された大阪城総合学術調査団は、歴史学、建築学、土木工学、地質学など多彩な分野の研究者によって組織され、石垣の刻印調査など種々の調査を行なっています。本丸地点においては、ボーリング調査を実施しましたところ、地下約7メートルで石にあたりました。その地点の発掘調査を実施したところ、古い石垣が検出されました。現在地上において見られる石垣の刻印をすべて調査した結果、徳川家康の配下の大名の刻印に限られ、徳川氏大坂城のものであることが判明していましたが、地下7メートルから発見された石垣は、豊臣氏 大坂城のものか石山本願寺のものか断定することができず、「謎の石垣」として大変な話題を呼びました。

 その後、徳川幕府の大工頭(だいくがしら)であった中井家(なかいけ)に伝わる「豊臣時代大坂城本丸図」と広島市立中央図書館所蔵「諸国古城之図(しょこくこじょうのず)」の対比検討によって、地下7メートルに発見された石垣は、豊臣氏大坂城本丸の一部であることが判明しました。豊臣氏 大坂城の石垣は、徳川氏 大坂城に比べて石も小ぶりで野面積み工法と呼ばれる城郭石垣の初期工法で構築されています。

 すなわち家康は豊臣氏 大坂城の上に、大量の盛り土をして、その上に城を築いたことになります。家康の大量の盛り土のおかげで、豊臣時代の「大坂城と城下町」が良好な状態で保存されたともいえます。 

学校を掘る

 大手前高校内の発掘調査は、昭和61年と63年に校舎の建替えに伴って実施しています。地下約3メートルもの深いところから、豊臣時代の建物跡、井戸跡や道路跡などの町並みとたくさんの土坑(どこう)が発見されました。

 昭和61年の調査では、板と杭で作られた排水溝で方形に区画された「宅地」が6か所確認されました。それぞれの「宅地」の中には扁平な河原石を礎石として配されています。比較的簡素な建物が多いようです。井戸は1基しか確認できなかったので、共同で使用していたのかもしれません。

 道路跡は2間幅で作られています。この時代の1間は太閤検地に見られる6尺3寸(約191センチメートル)を使用しています。道路の両脇には半間幅(はんげんはば)の側溝が設けられていて、護岸は板と杭で補強されています。また「宅地」から丸瓦を組み合わせた下水管が道路の側溝に流れ込むようになっています。雨水排水も考慮した「町作り」の様子がうかがえます。土坑(どこう)は発掘調査の用語としては、地面に掘った穴は全て土坑(どこう)といいます。その穴がお墓であれば土坑墓(どこうぼ)、ゴミ捨て穴であれば廃棄土坑(どこう)ということになります。今回検出した土坑(どこう)は後者のようです。屋敷地の裏庭に穴を掘って生活ゴミを埋めたのでしょう。

【図】おおてまえこうこうのいちず

大手前高等学校位置図

【しゃしん)】おおてまえこうこうのはっくつちょうさでみつかったとよとみじだいのせいかつめん                        

 大手前高等学校の発掘調査で見つかった豊臣時代の生活面

出土品

 発掘調査の結果、土坑(どこう)などから大量の遺物が出土しました。大半は生活用品、日常雑器や道具類あるいは廃材などで、当時の生活の様子が生々しく浮かんでくるようです。

 木製品をみると柱材や板材などの建築材、生活用品としては箸や下駄が多いようです。箸は使い捨てではないにしても、大量に捨てられています。漆器の椀は、結構たくさん出土します。当時の絵図などを見ると、漆器で食事をする光景がよく描かれています。陶磁器の食器はあまり見られないので、町屋では漆器の椀や皿が食卓に並んでいたと思われます。すこし変わったものとしては、羽子板や将棋の駒があります。将棋の駒は「角(かく)」「銀」「歩(ふ)」の3枚が出土しています。形は今の将棋の駒と同じで、底辺の広い五角形をしています。豊臣時代では中将棋と小将棋があり、小将棋が現在の将棋に近いようです。当時、将棋の駒を盛んに製造、販売していた水無瀬家の注文をみると、公家は中将棋の駒を武家、商家は小将棋の駒の注文が多いことが指摘されています。江戸時代には将棋といえば、小将棋を指すようになっていました。

 先ほど、絵図などによれば陶磁器を食器にして食事をしている光景はあまり見ないと書きました。しかしゴミ穴などからの出土品には瀬戸美濃系の椀や皿が大きな割合を占めていますし、中国(明(みん))製から輸入された磁器(青花(せいか))も多く出土します。特に瀬戸美濃系の茶碗や天目茶椀は粗雑な作りのものが多く、大量生産されたものかもしれません。一応、茶陶として考えておきます。

【しゃしん】おおてまえこうとうがっこうのはっくつちょうさでみつかったしっきわん(うえからみたところ) 

【写真】おおてまえこうとうがっこうのはっくつちょうさでみつかったしっきのわん(よろからみたところ)  

漆器椀

【写真】おおてまえこうとうがっこうのはっくつちょうさでみつかったしょうぎのこま

将棋の駒

【写真】おおてまえこうとうがっこうのはっくつちょうさでみつかったせとみのでやかれたてんもくじゃわん  

瀬戸美濃系の天目茶碗                      

 【写真】おおてまえこうとうがっこうのはっくつちょうさでみつかった中国明時代の磁器(せいか)

中国製の磁器(青花(せいか)

 最後に特筆すべき出土品として、金箔瓦があります。天正14年(1586)に始まった大坂城二の丸の工事中に訪れた宣教師ルイス・フロイスは、金色に輝くと表現しています。本丸はもとより二の丸の櫓までにも金箔瓦が葺かれていたことがわかります。

 近年の調査では、三の丸の大名屋敷にも金箔瓦が使用されたことがわかっています。今回の調査でも整地層の中に金箔瓦が含まれていました。豊臣家の家紋である「五三(ごさん)の桐」紋の金箔瓦も出土しています。

 出土した金箔瓦は、大手前高等学校の上町筋沿いの植込みの中に、陶板製の遺跡案内板に写真が焼き付けられています。

 是非、一度ご覧ください。

【しゃしん】おおてまえこうとうがっこうのうえまちぞいのうえこみのなかにあるいせきのあんないばん

大手前高等学校の上町筋沿いの植込みの中にある遺跡案内板

印刷用はこちらです [PDFファイル/1.38MB]

このページの作成所属
教育庁 文化財保護課 保存管理グループ

ここまで本文です。


ホーム > 都市魅力・観光・文化 > 文化・芸術 > 埋蔵文化財情報 > 大手前高等学校(大坂城跡)