宮園遺跡(みやぞのいせき)

更新日:2017年3月30日

所在地:堺市中区宮園町

種類:集落跡

時代:古墳・平安・中世

調査期間:平成28年6月から平成29年3月

主な遺構:古墳時代の河川跡、古代の土坑(どこう)、中世の土坑群(どこうぐん)および井戸など

主な遺物:石器、土師器、須恵器、瓦器(がき)、瓦質土器(がしつどき)など

堺市中区に所在する宮園遺跡は、泉北丘陵上の緩い傾斜地に立地しています。東西800メートル、南北430メートルの範囲が遺跡とされており(図)、中世(鎌倉から室町時代、おおよそ12世紀から16世紀)を中心とする時期の遺跡と考えられています。宮園遺跡の周辺には、主要な遺跡として、北に深井清水町遺跡(ふかいしみずちょういせき)(古墳時代から中世)、東に深井幡池遺跡(ふかいはたいけいせき)(古墳時代・奈良時代)、南に平井遺跡(旧石器時代から中世)などがあり、このうち深井幡池遺跡で8世紀の土師器と5世紀後半の須恵器を焼成した遺構が見つかっていることがとくに注目されます。

今回の発掘調査は、府営八田荘住宅の建替えに伴って、約4,600平方メートルを対象として実施しました(写真1)。その結果、古代と中世を中心とする時期の遺構・遺物や、埋没した河川が見つかりました。現在の地表面からはわからないかつての地形や、むかしの暮らしのようすがわかるという意味で、重要な成果を得ることができました。

【写真と図】調査地の位置図と、調査地の全景
■ 図 調査地の位置(印が調査地)                                 ■写真1 調査地の全景

【中世後期の土坑群(どこうぐん)】地形がやや高くなっている部分を中心として、土の採取を目的とした土坑(どこう)(穴)が多く掘られていました(写真2)。土坑(どこう)からは14から15世紀を中心とする時期の瓦質土器(がしつどき)などが出土したので(写真3)、土採りが行われたのも同じ時期と考えられます。この土採りは粘土を対象としていることから、周辺で焼物(やきもの)の生産が行われていたのかもしれません。

(写真)写真2 土採り穴とみられるどこうぐんと、写真3土採り穴ほかから出土した中世の土器
■写真2 土採り穴とみられる土坑群                          ■写真3 土採り穴ほかから出土した中世の土器
 (中世後期、14から15世紀)                                     (中世後期、14から15世紀頃)

【台地を刻む谷】調査地を南北に横断する形で、くねくねと蛇行する河川が見つかりました(写真4)。谷の最下部には砂、その上部には泥が溜まっており、徐々に水の流れがなくなっていくようすがわかります。泥の中からは6世紀頃の須恵器が出土していますから(写真5)、河川はこの頃に埋まり始めたようです。その後、この谷は埋め立てられて平坦に造成され、土採り穴が掘られた14から15世紀頃には調査地の全域が水田として利用されていました。こうした水田としての土地利用は、江戸時代を経て八田荘住宅の建設直前まで続くこととなります。

【写真】写真4蛇行する河川とその断面 写真5河川から出土した須恵器
■写真4 蛇行する河川とその断面                                ■写真5 河川から出土した須恵器(古墳時代後期、6世紀)

【その他の成果】 今回の調査で見つかったなかでもっとも古い遺物は、縄文時代のサヌカイト製石鏃(せきぞく)(写真6)や剥片(はくへん、石を割り取る際に生じた破片)です。新しい時代の土に紛れ込んだものですが、調査地の周辺で、このころからすでに人びとの暮らしが営まれていたことがわかります。また数は少ないのですが、古代(8世紀頃)の土器を捨てた土坑(どこう)も見つかっています(写真7)。この時期にも、周辺で人びとが活動していたことがわかりました。

【写真】写真6縄文時代の石鏃(せきぞく) 写真7土坑(どこう)から出土した8世紀頃の土器 
■写真6 縄文時代の石鏃(せきぞく)                                        ■写真7 土坑(どこう)から出土した8世紀頃の土器

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教育庁 文化財保護課 調査事業グループ

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