平成20年5月に、岸和田市三ヶ山(さんがやま)町の道路工事現場で「古墳の石室のようなものを発見した」との連絡が大阪府教育委員会文化財保護課にありました。
急遽、現地を確認したところ、まさしく古墳の横穴式石室が露出していました。一旦工事を中断し、発掘調査にとりかかることになりました。
古墳は、岸和田市教育委員会と相談して衣ヶ谷古墳(ころもがたにこふん)と命名しました。
発掘調査の結果、古墳は7世紀初頭に造られた、一辺約10メートルの方墳とわかりました。
主体部は横穴式石室で、釘が出土していることから、柩(ひつぎ)は木棺であったことがわかりました。
横穴式石室の構造は、全長が約6メートル、床の幅が約1メートル、玄室の床から天井までの高さが1.2メートルで、石材の大半は花崗岩(かこうがん)を使っています。
玄室の床には、小さな割石(わりいし)を敷いていて、棺台(かんだい)に使用されたと思われる石も見られます。玄室は残存状態もよく、ほぼ築造当時の様子を留めていると思われますが、羨道は側壁が両側ともに、大きく内側に迫り出していて、狭いところでは両側の側壁が30センチメートル程度まで迫っていて、入口から羨道を通って玄室にはいれない状態でした。羨道が崩れた原因はわかりませんが、盗掘坑(とうくつこう)が入口付近にあることから、盗掘以降に崩れたと考えられます。
副葬品は、盗掘をうけているために非常に少なかったものの、須恵器 《坏身(つきみ)、坏蓋(つきふた) 、高坏(たかつき) 、台付長頸壺(だいつきちょうけいつぼ )》が14点、土師器《坏身(つきみ)、坏蓋(つきぶた)》が2点出土しました。また、被葬者が身に着けていたと思われる金銅製(こんどうせい)の耳飾(みみかざり)(金環(きんかん))が1点見つかりました。
衣ヶ谷古墳の被葬者についてはよくわかりませんが、地元の豪族であることはまちがいありません。現時点では岸和田市域で最も新しい古墳で、最後の古墳と言えます。
衣ヶ谷古墳は道路工事中に発見されたこともあって、現地に保存することはできませんでしたが、府民の憩いの場である府営蜻蛉池(とんぼいけ)公園内に移築され、復元されその姿を見ることができるようになりました。
千数百年の長い間土砂に埋もれていた古墳が、文化財として、公園のモニュメントとして活用されることは大変有意義なことと考えます。
位置図
衣ヶ谷古墳
石室の実測図
玄室
羨道
玄室床
須恵器・土師器
耳飾
釘
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教育庁 文化財保護課 保存管理グループ
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