大阪府教育委員会は、昭和55年度に藤井寺支援学校の前身である藤井寺養護学校を開校し、八尾市柏村町の旧八尾市立清友(せいゆう)高等学校跡の仮校舎において授業を開始するとともに、藤井寺市川北2丁目に用地を取得して本校舎の建設を計画しました。
ところが、同地は、旧石器時代から近世に及ぶ大集落跡として知られる船橋遺跡の約200メートル北という近接地にあり、埋蔵文化財の存在が予想されました。
そのため、昭和55年(1980)2月から3月にかけて試掘調査が実施されると、地表下1.5メートルの層位から古墳時代の遺構や遺物が検出され、遺跡の存在が明らかになりました。
新規発見された遺跡は、川北遺跡と命名され、発掘調査が昭和55年(1980)年と昭和56年(1981)に実施されました。
■ 川北遺跡位置図
■ 川北遺跡調査写真(西から)
川北遺跡は、藤井寺市川北(かわきた)に所在する集落跡です。
標高約13.5メートルの沖積地上に立地し、遺跡の範囲は、藤井寺支援学校を中心に、東西530メートル、南北280メートルです。
この遺跡は、昭和55年(1980)と昭和56年(1981)に行われた発掘調査で、弥生時代から中世・近世に及ぶ各時代の遺構と遺物が発見されました。
昭和55年(1980)の調査では、弥生時代中期の土坑(どこう)や後期の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、壺棺墓(つぼかんぼ)が検出され、古墳時代前期の遺構では、竪穴住居跡・井戸等が検出されました。
この時の調査では、少量の弥生時代前期の土器も出土しました。
前期の土器は、壺(つぼ)・甕(かめ)共に外面に段をもつ古式の弥生土器で、付近に弥生時代前期の集落跡の存在を予想させます。
弥生時代中期の遺構としては、土坑(どこう)が一基検出されただけでしたが、土坑(どこう)の中には完形やほぼ完形に近い土器が15点も納められていました。
また、15点中9点までが「生駒西麓(いこませいろく)」の土器と呼ばれる現在の東大阪市周辺で焼かれた土器であったことも注目されます。
■ 土坑(どこう)の中から出土した弥生時代中期の土器
■ 土坑の中から出土した生駒西麓(いこませいろく)の壺(上の写真の手前の壺です)
■ 壺の口縁部
■ 壺に穿たれた孔
弥生時代後期の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)は、一辺約10メートルのもので、溝内からは、完形の小型の甕(かめ)が出土しています。
埋葬主体部は、恐らく成人用と推定される2基の長円形の土坑(どこう)で、棺や人骨・副葬品等は残っていませんでした。
壺棺墓(つぼかんぼ)は、腹径71センチメートルの大きな壺(つぼ)を棺として、下半部には小孔が穿たれていました。小児用の棺と考えられます。
古墳時代前期の竪穴住居跡は、一辺約4メートルの方形住居で3棟検出されました。
その内1棟は床面のほぼ全体にわたって、焼土・炭化木材が検出されたことから、住居が火災を受けていたことがわかりました。
住居の床面からは、土師器の甕(かめ)が押しつぶされた状態で検出されたので、火の回りが速く、家財道具も持ち出せなかった様子です。
■ 火災を受けた竪穴住居(北から)
■ 焼土・炭化木材除去後(北から)
飲料水用の井戸は2基検出されました。
内1基の井戸は、直径・深さ共に1.5メートルの素掘りの円形井戸で、底から、木工具である手斧の柄やムシロ編み用の錘、紡織具、鉄剣用の鞘などの木製品が出土しました。
木製品は、井戸の底で空気が遮断され、運良く残ったものでした。
昭和56年度の調査では、古墳時代から奈良時代の溝やピット、杭群等が検出され、室町時代の遺構では、条里制地割に即した畦畔(けいはん)や溝等の遺構が検出されました。
この時の調査では、古墳時代後期から奈良時代の須恵器や土師器が多数出土しました。
また、珍しい遺物としては、皇朝十二銭のひとつである「万年通宝」や、櫛・田下駄等の木製品も出土しています。
■ 発掘調査で出土した万年通宝
昭和55年の調査で、弥生時代中期の土坑(どこう)から15点もの土器がまとまって出土しましたが、その内12点は胴体の下半部に径2センチメートルくらいの孔があけられていました。
同じような穿孔土器は、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)のマウンドや周溝(しゅうこう)部分から出土する例が多いので、お墓への供献土器と考えられています。
墓ではない土坑(どこう)に、なぜこのような形で穿孔土器が埋められていたかは現在のところ不明ですが、この周辺に弥生時代中期のお墓があった可能性も考えられます。
今回出土した土器群の中には、黒い煤が外面に付着し、炊飯に使われたことが明らかな甕(かめ)にも穿孔し供献されています。
土器群の中には、物を盛る高坏(たかつき)や物を容れる鉢など、他の器種(きしゅ)も揃っているので、死後の世界でも飲食に困らないように一括してお供えされたものなのでしょう。
孔をわざわざあけるのは、供献した土器ですよと明示するためと、万が一にでも他所で使われることのないようにするための処置かと考えられます。
実は、このような土器の機能をなくして、お供えするといった風習は、弥生時代に限ったことではありません。
川北遺跡の南約1.4キロメートルにある藤井寺市の国府(こう)遺跡では、縄文時代前期の屈葬人骨に供えられていた小型の鉢形土器(重要文化財)も穿孔土器であったことが、つい最近、明らかになったところです。
また、平安時代や鎌倉時代の土坑墓(どこうぼ)に副葬された完形の白磁碗(はくじわん)・青磁碗に散見される口縁部(こうえんぶ)の一部打ち欠きも、同様な発想によるものなのでしょう。
時を越え、故人を大切に想う心には同じものがあるのでしょう。
なお、川北遺跡の南にある藤井寺市船橋遺跡では、弥生時代中期の穿孔土器が数百個体も発見されていて、巨大な墓域の存在が指摘されています。
船橋遺跡の場合は、大和川河川敷での発見のため、出土状況は分りませんが、川北遺跡の今回の事例の発見によって、同様な遺構が幾つも存在していた可能性も考えられます。
生駒西麓(いこませいろく)の土器は、すぐに分ります。
チョコレート色をしていて、胎土に雲母や角閃石を多量に含んでいるからです。
しかし、この土器も先人の研究があったからこそ、それと認識できる訳です。
古くは、弥生土器だと、雲母土器、河内の土器、簾状文(れんじょうもん)の土器と呼ばれたこともありました。
事実、川北遺跡から出土した生駒西麓(せいろく)の壺(つぼ)は、その外面に、櫛描き刺突文(くしがきしとつもん)・簾状文れんじょうもん)・流水文・円形浮文(えんけいふもん)を施し、訓練された考古学技師でも、その実測図作成に2・3日かかってしまう程の精巧さです。
素焼きなのに、器壁は硬く焼き締まり、薄くて軽いという特徴もあります。土器に使う粘土としては、最高のものでした。
また、現在の東大阪市上四条町(かみしじょうちょう)にある東大阪市立郷土博物館周辺の粘土を使うと、生駒西麓(いこませいろく)の土器が再現できるという実験結果も複数報告されていますので、そこで集中的に土器を焼き続けた工人集団の存在も指摘できそうです。
なお、そこでいい粘土が出るということは、縄文時代の人々や古墳時代の人々も知っていたらしく、縄文時代早期の神宮寺式、縄文時代晩期の船橋式、古墳時代前期の庄内式(しょうないしき)に生駒西麓(いこませいろく)の粘土が多用されていることも、良く知られている事柄です。
■ 土坑(どこう)の中から出土した生駒西麓(いこませいろく)の壺(つぼ)の実測図
(用語解説)
皇朝十二銭:奈良、平安時代に日本で鋳造された貨幣で、和同開珎(708年)、万年通宝(760年)、神功開宝(じんぐうかいほう)(765年)、隆平永宝(りゅうへいえいほう)(796年)、富寿神宝(ふじゅしんぽう)(818年)、承和晶宝(じょうわしょうほう)(835年)、長年大宝(ちょうねんたいほう)(848年)、饒益神宝(じょうえきしんぽう)(859年)、貞観永宝(じょうがんえいほう)(870年)、寛平大宝(かんぴょうたいほう)(890年)、延喜通宝(えんぎつうほう)(907年)、乾元大宝(けんげんたいほう)(958年)の12種類発行されました。
印刷用はこちら→kawakitaiseki [PDFファイル/443KB]
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教育庁 文化財保護課 調査事業グループ
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