雁屋遺跡は四條畷市雁屋北町他にあります。標高約8メートルの扇状地に立地します。遺跡の範囲は、四條畷高等学校を中心に、東西740メートル、南北470メートルです。
雁屋遺跡は、昭和58年(1983)、四條畷高等学校グラウンド西方で行われた、四條畷市教育委員会による試掘調査および発掘調査で発見されました。地表下2.5メートルの深い所から、弥生時代前期の溝や中期の甕棺(かめかん)が検出され、石庖丁や石斧(せきふ)などの石器も出土しました。
昭和60年(1985)、四條畷高等学校北側で行われた四條畷市教育委員会による試掘調査および発掘調査で、遺跡範囲が北側にも伸びることが判明しました。この時の調査では、弥生時代中期の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が検出され、木棺・人骨ともに極めて保存状況が良好でした。コウヤマキやヒノキ製の木棺墓(もっかんぼ)の中には、打製石鏃(だせいせきぞく)が12本も副葬されている例などもありました。土器の出土量も多く、遺物収納用のコンテナ(38×59×15センチメートル)で、1,000箱近くも出土し、雁屋遺跡が北河内最大の弥生時代遺跡であることが分かりました。
昭和61年(1986)、四條畷高等学校校舎増築および汚水排水管切替工事に先立つ試掘調査および発掘調査で、四條畷高等学校の敷地全域に遺跡の眠っていることが判明し、以降、校舎改築や施設増築など、地下の遺構に影響のある工事の際は、発掘調査が大阪府教育委員会によって、実施されてきました。地中ふかくに埋れていたためと、扇状地による地下水の豊富なことが遺跡の保存に幸いしました。
雁屋遺跡位置図
北河内の考古学や郷土史を語る時、片山長三(1894から1988)を抜きにして語ることはできません。彼がパイオニアだったからです。彼の業績は、昭和28年(1953)から昭和45年(1970)にかけて著わされた著書『長尾史』、『津田史』、『交野町史』、「枚方台地の形成から弥生時代」『枚方市史』第1巻、『枚方台地の形成とその前後』などで明らかですが、彼が美術教師だったことは、案外、知られていません。
その彼の足跡は、平成2年(1990)に教え子達によって作られた『みちひとすじ 片山長三先生遺稿・追悼文集』で辿ることができます。
片山長三は、明治27年(1894)、北河内郡星田村(ほしだむら)で生まれ、明治41年(1908)、大阪府立四條畷中学校に入学しました。授業で、石鏃の標本を見せられ、「それなら家の近くにもある」と自身の星田村旭の畑で採集した石器を学校に寄附しました。考古学少年の誕生だったようです。
その後、叔父から絵の具一式をプレゼントされたことを契機に画家を志し、大阪梅田の赤松麟作洋画研究所でデッサンを学び、佐伯祐三とイーゼルを並べ、絵画の修行に励みました。
大正3年(1914)、天王寺師範学校を卒業後、小学校訓導として、北河内郡の各小学校に赴任しました。昭和6、7年(1931、1932)には、文部省検定日本画・洋画試験に合格し、文部省より中等教員の免許状を受けました。
昭和11年(1936)には、大阪府立八尾高等女学校の教諭に任ぜられ、昭和19(1943)年には、出身校だった大阪府立四條畷中学校に美術教師として転任してきました。
四條畷中学校では、昭和22年(1947)、課外活動・考古学研究会を組織・指導し、昭和24年(1949)には、創部された考古学クラブのために、自身の仕事場である美術準備室を美術クラブと共に部室として開放しました。その部室は、個性ある高校生達にとって、大変、居心地のいい自由な談笑の場であったと何人ものクラブ員達が述懐しています。
昭和25年(1950)から昭和27年(1952)には、高校生と共に、四條畷市岡山遺跡、枚方市田口山(たのくちやま)遺跡、穂谷遺跡などを発掘し、四條畷市のキリシタン遺跡の調査なども行いました。
昭和28年(1953)には、体調を崩し、四條畷高等学校を退職しますが、その頃から交野考古学研究会を指導し、前述の著書を著わすと共に、交野市岩倉開元寺址(いわくらかいげんじあと)や神宮寺遺跡の発掘などを行いました。
こうして発掘したり、表面採集で得た遺物の大半は、大阪市立博物館に寄贈され、展示や研究者の参考資料にと活用されています。
晩年は、歌を詠み、講演・個展を行う一方、八尾高等女学校卒業生に乞われ、ヴィーナス会として絵の指導を始めました。また、自らも油彩・デッサンに励み、香港・台湾・ハワイ・欧州・ニューカレドニアに旅行もし、数々の作品を完成させました。亡くなるまでに、手のデッサンだけで、19,460個、自画像デッサンは、1,043作にもなりました。
片山長三が描いた石器の実測図1(片山光氏提供)
片山長三が描いた石器の実測図2(片山光氏提供)
昭和61年(1986)4月、校舎増築工事に先立つ試掘調査が、四條畷高等学校正門左手のテニスコート内で行われました。北側のトレンチでは、地表下1.1メートルで厚さ25センチメートルの弥生時代後期の遺物包含層が検出され、南側のトレンチからは、地表下2.2メートルで弥生時代中期の土器が出土しました。土器は大きなもので、狭いトレンチ内では取り上げることもできませんでした。
この結果を承けて、同年5月から11月まで、校舎増築部分および汚水排水管切替工事に伴う発掘調査が行われました。
この時の調査では、校舎増築部分の調査区からは弥生時代中期の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が3基検出されました。1号墓の周溝内からは土器がまとまって出土しましたが、すべて一部を打ち欠くか穿孔したりして、土器の機能をなくしていました。
また、奈良時代の河川が埋まった上に、クスノキの樹根が検出されました。このクスノキは巨樹になったらしく、根を8メートル四方に伸ばしていました。
しかし、鎌倉時代の水田層には、頭を出していなかったので、平安時代のものと考えられました。取り上げの際に切断すると、芳香がしたそうです。
一方、汚水排水管切替工事の調査区は、グラウンドの東端をコの字形にトレンチ調査したのですが、弥生時代後期の壺棺(つぼかん)と共に、溝が9本も検出されました。
平成5(1993)年7月から翌年3月までは、老朽化した体育館撤去に伴う埋管の切替工事の発掘調査が行われました。グラウンドの東端を南北に幅2メートルのトレンチ調査でした。この調査区の南部では、奈良時代の河川が検出され、人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)が出土しました。
平成6年(1994)10月から翌年5月までは、体育館建て替えに伴う発掘調査が行われました。地表下2メートルの弥生時代後期の遺構面から、大量の土器と共に、竪穴住居10棟や井戸5基・溝など多数の遺構が検出されました。その内、竪穴住居2棟は、火事に遭っていました。
平成9年(1997)5月から翌年8月までは、新理科棟建設に伴う発掘調査が行われました。この調査区からは、弥生時代中期の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)2基と弥生時代後期の竪穴住居などが検出されました。鋤や鳥の形をした木製品などが出土しました。
平成13年(2001)11月から翌年3月までは、下水道管移設工事に伴う発掘調査が行われました。この調査は、グラウンドの南端を東西にトレンチ調査したものでした。自然河川が検出され、縄文時代中期の深鉢の欠けらや打製石鏃(だせいせきぞく)などが出土しました。
平成16年(2004)4月から11月までは、防火水槽設置に伴う発掘調査が行われました。この調査区は、正門左手の狭い調査区でしたが、遺構・遺物が希薄で、自然流路や溝を数条検出したのみでした。
体育館建て替えに伴う発掘調査で見つかった竪穴住居や溝
発掘調査で見つかった弥生土器の出土状況
四條畷高等学校体育館建替えに伴う発掘調査の際、弥生時代後期の遺物包含層から絵画土器が出土しました。
その絵画は、一見して人物像と分るので、踊るシャーマン、鳥人?と話題になりました。両手両足を大の字に広げ、6本ある手の指は羽のように誇張され、4本指の足は踊っているようでもあります。人物像の右上にある楕円形の中心に点のある表現は、見開いた目のようでもあります。その異様な風体から、シャーマンを描いたと推測されたのは、当然だったかも知れません。
その後、この絵画土器に接合する破片が発見され、実測して復元してみると、この土器は、口径が20センチメートルほどの甕(かめ)と分りました。その外面の肩部に、線刻で人物像が土器焼成前に描かれていた訳です。
人物像の高さは、7.2センチメートル、幅は6.5センチメートルでした。残念ながら、頭の部分は欠けていました。首の左右と股の所に、円形竹管文(えんけいちくかんもん)が施されていましたが、口縁端部(こうえんたんぶ)にも2個、円形竹管文(えんけいちくかんもん)が施されていました。首の下の2個の円形竹管文(えんけいちくかんもん)は、イヤリングを吊り下げているようにも見えました。
実は、この甕(かめ)は、短く外に反った口縁(こうえん)をもち、内面をヘラ削りし、外面をなでて仕上げているのですが、その製作技法は、大阪近辺のものではなく、他地域のものでした。
従来から、雁屋遺跡では、弥生時代後期になると、近江・尾張・丹後・出雲地方の土器が出土すると指摘されてきましたが、今回の土器もそうした他地域からの人の移動に伴って移動してきたものと考えられます。
絵画土器 絵画土器の拓本
中国の歴史書『三国志』の中の「魏書」の東夷伝(とういでん)には、3世紀の日本列島に住む倭人の習俗や地理について記載されています。いわゆる「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」と呼ばれているものです。
その中に、卑弥呼について次のような記載があります。
「鬼道(きどう)に事(つか)え、よく衆を惑(まど)わす。年已(すで)に長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見る者少なく、婢千人を以て自らじせしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室(きゅうしつ)・楼観(ろうかん)、城柵(じょうさく)、厳(おごそ)かに設け、常に人あり、兵を侍して守衛す。」
卑弥呼の宗教的性格については古くから研究者が論議を重ねてきましたが、現在ではおおむね「鬼道(きどう)」を原始的なシャーマニズムととらえて、王になってからは人前に姿をあらわさず、神の「おつげ」を人々に伝えるシャーマンとして理解されています。
弥生時代後期の「王」はシャーマンとしての宗教的権威によって、社会を治めていたと考えられます。
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