和泉市和泉寺跡(いずみでらあと)現地公開資料

更新日:2017年3月31日

 和泉寺跡(いずみでらあと)は、和泉市府中町(ふちゅうちょう)四丁目に所在する遺跡です。多くの瓦が見つかっていることなどから、約1300年前に建てられた寺の跡と考えられてきました。しかし、これまで和泉寺跡(いずみでらあと)の遺跡内での発掘調査はあまり行われておらず、寺と直接関係するような発見もありませんでした。また、古い文書にも、和泉寺跡(いずみでらあと)に直接関係するような記述はみられません。そのため、和泉寺跡は、寺の中心地がどこにあったのか、当時は何という寺名で呼ばれていたのか、といった詳しいことがわからず、「幻の寺」とも呼ばれてきました。

 和泉寺跡(いずみでらあと)の周りには、府中遺跡という遺跡も広がっています。府中遺跡は、JR阪和線の和泉府中駅の辺りから和泉寺跡(いずみでらあと)の東側まで、広い範囲にわたっている遺跡です。府中遺跡は、これまでの発掘調査によって、約2200から1400年前(弥生時代中期から古墳時代)の住居や墓が見つかっています。また、約4000年前(縄文時代中期末)という非常に古い時代にすでに人々が生活していたこともわかっています。

 大阪府では、都市計画道路大阪岸和田南海(なんかい)線建設事業に伴い、平成20年度より、和泉寺跡(いずみでらあと)と府中遺跡の発掘調査を行ってきました。この調査によってどんなことがわかってきたのか、平成21年度までの成果もあわせて、ご紹介します。

周辺の遺跡と調査区の位置

【図】和泉寺跡周辺の遺跡と調査区の位置

 平成20年度の調査箇所(H20-1区、H20-2区)では、約800から700年前(中世)の建物跡や井戸のほか、約1800から1200年前(弥生時代後期から奈良時代)の川の跡が見つかりました。川の中からは、約1800から1700年前(弥生時代後期から古墳時代)の土器が特に多く出土し、ほぼ完全な形で見つかったものもありました。

H20-2区(東から撮影) 川の中から見つかったたくさんの土器

【写真】川の中から見つかったたくさんの土器

 平成21年度の調査のうち、H21-1区では、約200年前の大きな溝状の遺構や、約1800から1200年前(弥生時代後期から奈良時代)の川の跡が見つかりました。また、H21-2区では、約1300から1250年前(奈良時代)の土坑(どこう)(穴)や溝が見つかりました。土坑(どこう)の中からは、土器や瓦が出土し、特に、瓦が多く見つかっています。中には、建物の軒先を飾る文様のある瓦(軒瓦)や、文字の書かれた瓦(文字瓦)もありました。文字瓦は、H21-1区でも1点出土しており、全部で5点見つかっています。 

H21-2区(南西から撮影) 手前左の土坑(どこう)から多くの瓦が出土

【写真】多くの瓦が出土した土坑(手前左)

平成22年度の調査区のうち、調査が終了したH22-1区、H22-2区では、約800から500年前(中世)の土坑(どこう)や溝、約1700から1600年前(古墳時代前期)の柱穴、約1800から1200年前(弥生時代後期から奈良時代)の川の跡などが見つかっています。 

H22-2区(北から撮影) 古墳時代の柱穴の中から出土した土器

 【写真】古墳時代の柱穴の中から出土した土器

 現在調査中のH22-3区では、約800から500年前(中世)の建物跡が見つかっています。柱穴は500個以上もありますから、建物や柵が所せましと建ち並んでいたのでしょう。また、さらに掘り下げていくと、川の跡も見つかりました。川が埋まった後、その上に人々が建物を建てて生活していた様子がわかります。今後調査が進めば、川が流れていたのがいつなのか、いつ埋まったのか、ということもわかってくるでしょう。それによって、寺が建てられた頃の周囲の様子も明らかになるはずです。

 このように、これまでの調査によって、約1800年から200年前の、人々の生活の痕跡が見つかりました。この長い時間のすべてにわたって、建物跡など人々がこの地に住んでいたことを直接示すものが見つかっているわけではありません。しかし、建物跡の発見されていない時期でも、土器などの遺物が出土していることから、少なくともこの周辺で、人々が連綿と生活を営んでいたことがうかがえます。

 また、これまでの調査で見つかった多くの遺物の中でも、特に重要な成果として、文字瓦があげられます。5点の文字瓦には、それぞれ、「珎縣主廣足(ちぬのあがたぬしひろたり)作」「坂合部連前(さかいべのむらじまえ)」「讃美(さみ)」「美」「宮」と書かれています。いずれも人名またはその一部で、「珎縣主廣足(ちぬのあがたぬしひろたり)」「坂合部連前(さかいべのむらじまえ)」は古代氏族の名前、「讃美(さみ)」は、僧侶の名前と考えられます。瓦に残された人名は、おそらく、彼らが協力して寺を建てたことを示しているのでしょう。特に、「珎縣主(ちぬのあがたぬし)」は、奈良時代に和泉郡の郡司を務めたほどの和泉地域の有力氏族ですから、寺の建設にあたって中心的な役割を果たしたと考えられます。今回の調査では、寺に直接関係する建物は見つかっていませんが、大量の瓦、特に文字瓦の発見によって、謎に包まれていた幻の寺の姿が少しずつ明らかになってきているのです。

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教育庁 文化財保護課 保存管理グループ

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