和泉寺跡現地公開資料

更新日:2009年12月3日

和泉寺跡は、和泉市府中町四丁目に所在します。このあたりでは、昔から、1200から1300年前の瓦が見つかっていたことから、この頃に寺が建てられたと考えられ、「和泉寺跡」と呼ばれてきました。しかし、これまで、和泉寺跡の遺跡内での発掘調査はあまり行われておらず、寺と直接関係するような発見もありませんでした。また、古い文書などにも、関係する記述を見つけることができません。そのため、和泉寺跡は、「幻の寺」とも呼ばれてきました。

 大阪府では、都市計画道路大阪岸和田南海線事業に伴い、平成20年度より、和泉寺跡の発掘調査を行ってきました。平成20年度の調査箇所は、和泉寺跡と府中遺跡の2つの遺跡内に入る場所です。この調査では、800年前頃(中世)の建物跡や井戸のほか、1700から1800年前(弥生時代から古墳時代)の川などが見つかりました。川の中からは、土器が大量に見つかり、ほぼ完全な形のものも多くありました。調査区内では、弥生時代や古墳時代の建物跡などは見つかりませんでしたが、こうした土器の出土から、この頃にも、近くで人々が生活していたことがわかります。ただ、残念ながら、この調査でも、寺と直接関係するような発見はありませんでした。

 今回の調査では、北側と南側の2つの調査区の調査を進めています。先に調査を行った南側の調査区では、土坑(穴)や溝が見つかり、大きな土坑(土坑1)から、1200から1300年前の土器や瓦が出土しました。これは、奈良時代(710年から794年)の頃です。瓦は、土坑の中以外からもたくさん見つかっており、中には、建物の軒先を飾る文様のある瓦(軒瓦)や、棟の端を飾る特に大きな瓦(鴟尾:しび)、文字の書かれた瓦もありました。

 文字の書かれた瓦は、これまでのところ、3点見つかっています。1200から1300年前には、文字の読み書きができるのは僧侶や役人など一部の知識人だけでしたから、大変珍しいものです。3点の文字瓦は、いずれも破損しており、文字の全体は不明ですが、それぞれ、「坂合部連(さかいべのむらじ)前」「讃美(または善)」「寺」と書いてありました。「坂合部連前」、「讃美(または善)」は、人名の一部でしょう。寺の建設のために金品や労働力を提供した人々の名前ではないかと、考えられます。

 今回の調査でも、寺に関係する建物そのものは見つかっていません。しかし、こうした大量の瓦の出土、特に、文字の書かれた瓦の発見は、「幻の寺」とされてきた和泉寺跡が、確かにこの近辺に存在していたことを示していると言えます。

 現在は、北側の調査区で発掘調査を進めています。これまでのところ、500年前から1700年前の土器が出土しており、瓦も、それほど多くではありませんが、見つかっています。今後の調査で、和泉寺跡や府中遺跡の姿が、よりいっそう明らかになると期待できます。

このページの作成所属
教育庁 文化財保護課 保存管理グループ

ここまで本文です。