学校に眠る遺跡(福井高等学校、西福井遺跡)

更新日:2017年3月31日

学校に眠る遺跡(福井高等学校、西福井遺跡)

大阪府立福井高等学校と西福井遺跡

大阪府教育委員会は、第149番目の府立高等学校として、茨木市西福井三丁目に福井高等学校を計画しました。同地は、JR茨木駅より北約3.3キロメートルにあり、地目は水田でした。用地買収が終わった段階で、面積も広いことから、埋蔵文化財の有無を確認するために試掘調査を実施しました。

すると、地表下約1メートルまでの層から土器が出土し、遺構も検出されたことから、集落遺跡の存在が分りました。新たに発見された遺跡は、西福井遺跡と命名され、昭和58年、(1983)急遽、発掘調査が実施されることになりました。

【図】西福井遺跡位置図

■ 西福井遺跡位置図

発掘調査は、学校敷地内を東西南北に四分割する既存農業用水路及び高校建設工事の進捗状況に規制され、調査地を細かく区切って進めねばなりませんでした。そのため、発掘調査の最終段階に至るまで、遺跡の全体像の把握に困難が伴いました。それでも、2月にスタートした発掘調査は、校舎や体育館・プールなど、基礎を深く掘り下げる部分と、切り土を伴うグラウンド部分及びグラウンドの擁壁部分など、24,000平米の調査を終え、同年11月に終了することができました。

【写真】発掘調査時のこうくうしゃしん

■ 発掘調査時の航空写真

【図】ふくいこうこうの発掘調査で発見された主な遺構

■ 発見された主な遺構

 学校を掘る

西福井遺跡は、佐保川右岸の標高約30から36メートルの段丘(だんきゅう)斜面地に立地し、遺跡の範囲は、東西370メートル南北680メートルと判明しています。

昭和58年1983)の発掘調査で、縄文時代から中世に及ぶ各時代の遺構と遺物が発見されました。

縄文時代では、中期の船元式や北白川C式などの土器が出土し、近くに今から約4,000年前の人々のキャンプ地や集落跡の存在が推測されます。

【写真】出土した縄文土器

■ 出土した縄文土器

弥生時代では、前期の土器に伴って、石包丁や蛤刃石斧(はまぐりばせきふ)・石鏃などの石器類が出土し、溝や土器溜りも検出されたことから、稲作を生業とする集落の存在が判明しました。

【写真】弥生時代前期の土器だまり

■ 弥生時代前期の土器溜り

弥生時代中期の遺物は出土せず、集落は断絶していたことが分ります。

弥生時代後期以降、古墳時代前期にかけては、土器が少量出土することから、小規模に集落が復活していたことが分ります。それが、古墳時代中期になると、一変して、古墳群に変貌します。東西110メートル南北150メートルの範囲に11基の古墳が密集して発見されました。円墳4基・前方後円墳(?)1基・方墳(ほうふん)6基からなり、径22メートルの二重堀をもつ3号墳(円墳)が最大でした。いずれも墳丘部(ふんきゅうぶ)が後世に削られていたため、主体部は不明でしたが木棺直葬(もっかんじきそう)ではないかと推定されています。周濠(しゅうごう)から須恵器や雌鶏形埴輪などが出土し、古墳時代中期の小規模古墳群と判明しました。この古墳群は、すぐ近くにある古墳時代前期の紫金山古墳(しきんざんこふん)や将軍山古墳と、古墳時代後期の新屋古墳群(しんやこふんぐん)や海北塚(かいほうづか)・南塚古墳の空白の時期を埋めるものとして、貴重な発見となりました。

【写真】にじゅうのほりをもつにしふくいさんごうふん

■ 二重の堀を持つ西福井3号墳

【図】西福井遺跡と周辺の古墳の位置図

■ 西福井遺跡と周辺の古墳

古墳時代後期以降、飛鳥(あすか)・奈良・平安時代は、竪穴住居や掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)・倉・井戸・溝などの様々な遺構が検出され、集落が復活していたことが分ります。「衆」や「大十」と書かれた墨書土器や乳幼児棺と推定される遺構なども見つかっています。

鎌倉時代では、条里(じょうり)地割に規制された館(やかた)が発見されました。北側の館(やかた)は、幅3から10メートルの溝で方形に区画され、東西36メートル南北42メートルを測ります。東側に出入り口があり、石組みの井戸もあるようです。約450坪の敷地内には、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)も検出されています。溝の底からは、当時の人々が使った多数の中世土器が出土しましたが、その中に「佛」と書かれた墨書土器もありました。

【写真】鎌倉時代のやかたあと

■ 鎌倉時代の館跡(やかたあと)

室町時代以降には、館跡も埋まり、すっかり水田に変わっていた様子です。

なお、福井高校の東側隣接地を平成27年に発掘調査すると、中世の鍛冶道具が出土し、鍛冶集団の存在が分りました。昭和58年の福井高校出土遺物中にもフイゴの羽口や鉄滓などが多数含まれていたので、どうやらこの地区に鍛冶集団がいたことは間違いなさそうです。

昭和63年の茨木市教育委員会発行『わがまち茨木 地名編 』には、「かなくそ 鉄屑 (小字 西福井三丁目)花王石鹸倉庫南端から北へ新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)参道の南50mまでの地域である。この辺のあぜや溝が昔から赤茶けていたというのである。この福井は鋳物工業が盛んで、その鉄屑が散乱し鉄が水や空気と共にさびて赤茶けてきた。」と紹介されています。また、江戸時代中期の文書にも、「福井にはかじや10軒・鋳物師6軒もあり、土産物(みやげもの)には釜や犂(すき)が多い」とも書かれているので、その歴史は中世にまで遡るのかも知れません。

 

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教育庁 文化財保護課 保存管理グループ

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