府中遺跡(ふちゅういせき)

更新日:2018年3月14日

所在地: 和泉市府中町

種類: 集落跡

時代: 弥生・古墳・古代・中世・近世

調査期間: 平成29年2月から9月

主な遺構
【1区】弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)、掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)、土坑(どこう)、溝など
2区】古墳時代の初頭に埋没した河川跡、古墳時代中期の石敷きの上部を須恵器(すえき)で覆った遺構、古墳時代後期の石敷き遺構、石積み遺構、須恵器(すえき)や土師器(はじき)が点在する遺構群。

主な遺物: 弥生土器、土師器、須恵器など

本府教育委員会では、都市計画道路大阪岸和田南海線の建設に伴い、平成20年度より府中遺跡の発掘調査を断続的に実施しています。

今回の調査地点は大きく2カ所に分かれ、北側の調査地を1区、南側の調査地を2区とよんでいます。調査面積は1区、2区合わせて約2,000平方メートルです。発掘調査は、平成28年度末から平成29年度にかけて実施しました。

図1 府中遺跡調査区位置図
図1 府中遺跡調査区位置図

1区の調査成果】
主な調査成果としては、1区では弥生時代中期の竪穴住居跡(竪穴1)をはじめ、弥生時代の終わり頃から古墳時代の初頭にかけての竪穴住居跡(竪穴2、3、4)や掘立柱建物跡(建物1、2、3)、土坑、大溝などの遺構が検出され、集落域の様相を示しています。

写真1 1区(北半分)の全景(北から)
■1区(北半分)の全景(北から)

弥生時代中期の竪穴住居跡は1基検出しました。竪穴1の平面形は、約半分を欠損しているものの、1辺約5メートルの隅丸方形(すみまるほうけい)プランと思われます。4本の柱穴と住居の中央に炉跡が確認できました。炉跡は直径約40センチメートル、深さ約30センチメートルの土坑状のもので、底には少量の炭が残っていました。また、住居の壁に沿って壁溝(へきこう)が廻ります。出土品としては、住居の床面に飯蛸壷や壷の蓋(ふた)がありました。

竪穴1 調査風景竪穴1 完掘状況
■竪穴1(調査風景)■竪穴1(完掘状況)

弥生時代の終わり頃から古墳時代の初頭の時期の竪穴住居跡は3基検出しました。竪穴2は、南北方向が3.4メートル、東西方向が3メートルの方形プランで、小型の竪穴住居跡です。住居の中央に炉跡は確認できましたが、柱穴は見られません。おそらく、柱の代わりに壁で屋根を支えるような構造であったと考えられます。炉跡は直径約30センチメートルの円形で、深さは5センチメートル程度の浅いものです。炉跡の壁や底は赤く変色し、その上部に少量の炭も残っていました。また、住居の壁に沿って比較的幅の広い壁溝が廻ります。出土品は少量の土器がありました。

竪穴2 調査風景竪穴2の炉跡
■竪穴2(調査風景)■竪穴2の炉跡

竪穴3は住居跡の半分以上が調査地外にのびることから、全体の規模など不明な部分が多いですが、おそらく辺6メートル程度の方形プランの竪穴住居跡と考えられます。柱穴はカ所確認しましたが、その他は不明です。炉跡も調査区外と考えられます。壁溝は住居の壁に沿って廻ります。住居跡からは、少量の土器が出土しました。
竪穴4は住居跡の大半を後世の遺構(大溝)によって削られ、方形プランの竪穴住居跡であることが、かろうじて確認できます。
掘立柱建物は3棟検出しました。建物1は桁行2間、梁行1間の東西棟で、建物の面積は9平方メートルです。柱穴は円形で、直径、深さ共に30センチメートル前後です。

竪穴3建物1
■竪穴3■建物1

建物2は一部建物1と重なっていますが、前後関係はわかりません。桁行3間、梁行1間の東西棟で、建物の面積は16.4平方メートルです。柱穴の規模は、建物1と同様です。
建物3は一部が調査地外ですが、桁行3間、梁行1間の東西棟で、11.7平方メートルです。柱穴は円形で、直径は20センチメートルから30センチメートル、深さは30センチメートル前後です。
大溝は、1区の中央付近を東西方向に直線的に横断しています。大溝の幅は3メートル前後、深さは50センチメートルから60センチメートルで、最終的には砂礫層で埋没しています。砂礫層内に含まれる土器の中で最も新しい時期に属するものは、6世紀の終わり頃から7世紀の初頭にかけての須恵器です。大溝は、この時期以降に埋没したことがわかります。

建物2建物3
■建物2■建物3

 【2区の調査成果】

2区では、南北方向に流れる河川跡を検出しました。河川は古墳時代前期頃には完全に埋没していたようです。河川を埋め尽くした砂礫層の中には、弥生時代中期から古墳時代初頭頃までの土器が多量に含まれていました。古墳時代の中期から後期にかけては、川岸の平坦地や埋没した河川の上面において、河原石を地面に平たく敷き詰めた石敷きの遺構(石敷き遺構1、2)を2基、河原石を積み上げた石積みの遺構(石積み遺構)を1基、須恵器(すえき)や土師器(はじき)が点在する遺構群(いこうぐん)などを検出しました。

2区全景
■2区全(南半分)全景(北から)

石敷き遺構1は、河原石を敷き詰めた石敷きの上部を、須恵器の甕の破片で覆っています。甕の肩部の外面に「鳥足文(ちょうそくもん)」とよばれる文様が見られ、「鳥足文土器」と呼ばれています。須恵器の破片は取り上げて接合すると、ほぼ完形品に復元することができました。古墳時代中期の所産と考えられます。
石敷き遺構2は、河原石を長方形(長辺1メートル、短辺30センチメートル)の範囲に敷き詰めています。土師器片が石の上部に見られましたが、詳細な時期は不明です。付近の状況からみて、古墳時代中期か後期の所産と考えています。
石積み遺構は、埋没した河川の上部にあり、河原石を長方形(長辺1.2メートル、短辺90センチメートル)の範囲に敷き詰めた上に、約50センチメートルの高さで石を積み上げています。石積み内からは、土器等は出土しませんでしたが、石敷き遺構2と同様、古墳時代中期か後期の所産と考えています。
その他、上記のような川原石を敷き詰めたような構造物は認められないものの、完形品あるいは完形品に近い須恵器や土師器が点在する遺構があります。土器を埋めた掘方(ほりかた)の輪郭もはっきりせず、土器だけが埋まったようにも見えます。度重なる洪水で、元位置を保っていないのかもしれませんが、数カ所認められることからさほど大きくは動いていないと考えています。時期的には古墳時代後期の所産と考えられます。
2区のこれらの遺構は、墓あるいは墓に関連するような施設といえます。河川が埋没したあと、古墳時代の人々はこの地域を墓域として利用したと考えられます。

石敷き遺構1石敷き遺構1 須恵器を取り除いた状態
■石敷き遺構1(須恵器で覆った状態)■石敷き遺構1(須恵器を取り除いた状態)
石敷き遺構2石積み遺構
■石敷き遺構2■石積み遺構
古墳時代後期の須恵器・土師器出土状況古墳時代後期の須恵器出土状況
■古墳時代後期の須恵器・土師器出土状況■古墳時代後期の須恵器出土状況

このページの作成所属
教育庁 文化財保護課 調査事業グループ

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