番川下流遺跡(ばんがわかりゅういせき)

更新日:2018年3月22日

所在地: 泉南郡岬町淡輪

種類: 集落跡

時代: 古墳・奈良・平安・中世

調査期間: 平成29年10月から平成30年3月まで

主な遺構: 弥生時代以降の河川跡、古墳時代や古代の焼土坑および土器溜まり、中世から近世の耕作溝など

主な遺物: 縄文土器、弥生土器、土師器(はじき)、須恵器(すえき)、製塩土器、瓦器(がき)、中国産磁器、土錘(どすい)、石器など

番川下流遺跡は、東西・南北とも約400メートルの範囲に拡がる遺跡です。

遺跡の南には5世紀前半に築造された西陵(さいりょう)古墳(墳丘長約210メートル、国史跡)、遺跡の東には5世紀中頃から後半に築造された宇度墓(うどばか)古墳(墳丘長約170メートル、宮内庁により陵墓として治定)があります。泉南地域を代表するこの2基の巨大前方後円墳の間には番川(ばんがわ)が流れ、その河口付近に形成されたのが番川下流遺跡です(図1)。

図1 番川下流遺跡周辺の地形と遺跡
■図1 番川下流遺跡周辺の地形と遺跡
(国土地理院作成の基盤地図情報をもとに作成。遺跡の範囲については大阪府地図情報提供システムに基づく。)

昭和62年の調査では、6世紀を中心とする時期の集落跡が見つかっており、掘立柱(ほったてばしら)建物や竪穴(たてあな)建物のほか、土師器、須恵器、製塩土器、土錘、蛸壺などが出土しています。上述の2基の巨大古墳が築かれた少し後の地域のようすを示す、重要な資料です。

今回の発掘調査は、町道の建設に先立って大阪府教育委員会と岬町教育委員会が共同で実施したもので、平成29年10月から約2500平方メートルを発掘調査しました(図2、写真1)。

図2 調査位置写真1 2区遠景(東から)
■図2 調査位置■写真1 2区遠景(東から)

発掘調査の結果、古代を中心とする時期の遺構・遺物や、埋没した河川が見つかりました。これまでに当遺跡や周辺の遺跡で行われた発掘調査の成果と合わせて考えることにより、現在の地表面からはわからないかつての地形や、むかしの暮らしのようすを、より詳細に復元することができます。以下では、個別の遺構・遺物について説明します。

1区では、河川跡のほか、土坑(どこう)などを検出しました。河川が徐々に埋まっていくなかで、古代の製塩土器(海水を煮詰め、塩を精製するために用いられた土器)などが捨てられていました(写真2)。海が近い当遺跡の特徴をよく表す資料といえます。

写真2 1区から出土した古代の製塩土器

■写真2 1区から出土した古代の製塩土器

2区では、河川が埋まる途中で、川べりの緩斜面を掘りくぼめて火を焚いた、焼土坑が見つかりました(写真3)。遺構の時期や性格を特定することはできていませんが、この場所で人びとが活動していた確実な証拠です。また、中世の耕作土の中に混じりこんで、縄文時代晩期(今から約2700年前)の土器も見つかっています(写真4)。番川下流遺跡ではこれまで縄文土器の出土は知られておらず、貴重な成果です。

写真3 2区で検出した焼土坑写真4 2区から出土した縄文時代晩期の土器(約2700年前)

■写真3 2区で検出した焼土坑
(手前の石は焼土坑での作業に関係する可能性がある)

■写真4 2区から出土した縄文時代晩期の土器(約2700年前)

3区では、石とともに押し流された土器が河川跡から出土しました。土器のなかには、タコを採るための蛸壺も含まれています(写真5)。製塩土器と同様に、海にほど近い番川下流遺跡を特徴づける資料です。

写真5 3区から出土した土器群(蛸壺ほか、6世紀頃)
■写真5 3区から出土した土器群(蛸壺ほか、6世紀頃)

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教育庁 文化財保護課 調査事業グループ

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